智興は徐州軍に属し、建中年間の李洧時代から出頭し、元和10年には節度使李愿の筆頭武将として李師道を破っていました。長慶元年には沂州刺史から武寧軍節度副使となり、元宰相で文官の崔羣に代わり武寧の兵権を握っていました。
長慶2年3月
成德王廷湊・幽州朱克融征討に出た智興と節度使崔羣は相互に疑い、帰還した智興は羣を逐い自立しました。
鹽鐵院の錢帛を奪い、諸道の進奉物を掠奪しました。徐州の管轄は江淮からの漕運の中継点ですから唐朝にとっては死活的な問題です。
しかし河北三鎭が反旗を翻し、唐朝はそれを鎮定できない状況で、武寧軍を討つ力はありません。
唐朝は武寧軍節度副使王智興を檢校工部尚書充武寧軍節度使として自立を認めました。
自立を認められた智興は一転して、長慶2年8月の宣武で自立した李介、大和2年横海で自立した李同捷の征討に積極的に協力して功績をあげるのです。
長慶2年3月
成德王廷湊・幽州朱克融征討に出た智興と節度使崔羣は相互に疑い、帰還した智興は羣を逐い自立しました。
鹽鐵院の錢帛を奪い、諸道の進奉物を掠奪しました。徐州の管轄は江淮からの漕運の中継点ですから唐朝にとっては死活的な問題です。
しかし河北三鎭が反旗を翻し、唐朝はそれを鎮定できない状況で、武寧軍を討つ力はありません。
唐朝は武寧軍節度副使王智興を檢校工部尚書充武寧軍節度使として自立を認めました。
自立を認められた智興は一転して、長慶2年8月の宣武で自立した李介、大和2年横海で自立した李同捷の征討に積極的に協力して功績をあげるのです。
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