李勣。字は懋功。本姓徐氏,本名世勣。曹州離狐人也。
父蓋は豪族であったが没落したとされている。
大業末に群盗翟讓に従い活躍する。
その後李密に従い東海郡公を称し、密に黎陽倉を取る
ことを進言する。
武二年密とともに唐に歸附するが自立。
黎陽總管・上柱國・萊國公となり、
ついで右武候大將軍・曹國公となり李姓を与えられる。
竇建に敗北し捕らえられるが、三年唐に復帰。
四年秦王に従い王世充・竇建徳を伐った。
その後、秦王に従い劉闥・徐圓朗を伐ち,左監門大將軍。
圓朗が再び反したため、河南大總管として平定。
七年,趙郡王孝恭とともに輔公祏を伐つ。
八年,突厥を防ぐ。
太宗が即位し并州都督・實封九百戶で突厥防衛にあたる。
貞觀三年李靖に従い通漠道行軍總管として突厥を伐つ。
光祿大夫,行并州大都督府長史。
十一年,英國公,世襲蘄州刺史。
本官を以って領太子左衛率に、しかし常に并州に居る。
十五年兵部尚書となるが遥領,朔州行軍總管として薛延陀を伐つ。
十七年高宗が皇太子となり、太子事兼左衛率,加特進同中
書門下三品として宰相に連なる。
十八年太宗に従い遼東道行軍大總管として高麗を伐つ。
二十年薛延陀を大破する。
二十二年太常卿仍同中書門下三品に転じる。
すぐまた太子事に復帰。
日頃太宗は勣に盛んに深い信頼を示していたが
二十三年太宗は病となると、宰相解任し疊州都督に逐った。
反抗すれば誅殺される所であったが勣は即日赴任した。
老耄した太宗の田舎芝居に付き合ったわけである。
高宗が即位すると洛州刺史、ついで加開府儀同三司令同中
書門下參掌機密として宰相に復帰した。
ついで尚書左僕射となるが好まず、永徽元年僕射を辞し、
開府儀同三司知政事。
四年房遺愛の事件の後、司空に昇進する。
外様の武官であるため長孫無忌等の貴族官僚とは合わず、
則天の立后に際しても独自の立場を取り、
結果的に擁立することとなった。
麟初に泰山封禪大使。
乾封元年遼東道行軍大總管として高麗を滅ぼす。
二年,太子太師を加えられる。
其年相のまま薨,年七十六。贈太尉、揚州大都督,謚曰貞武、
長子震は桂州刺史になるが勣より先に卒し、孫敬業が嗣ぎ、
則天に対して反乱を起こし誅殺。
[宰相履歴]
①貞観17年4月特進・太子事同中書門下三品~18年11月遼東道行軍大總管~ 21年3月復遼東道行軍大總管~23年5月貶
②貞観23年5月開府儀同三司同中書門下參掌機密~9月尚書左僕射同中書門下三品~永徽元年10月辞僕射~永徽4年2月司空~乾封元年12月遼東道行軍大總管~總章元年加太子大師~2年12月薨。
父蓋は豪族であったが没落したとされている。
大業末に群盗翟讓に従い活躍する。
その後李密に従い東海郡公を称し、密に黎陽倉を取る
ことを進言する。
武二年密とともに唐に歸附するが自立。
黎陽總管・上柱國・萊國公となり、
ついで右武候大將軍・曹國公となり李姓を与えられる。
竇建に敗北し捕らえられるが、三年唐に復帰。
四年秦王に従い王世充・竇建徳を伐った。
その後、秦王に従い劉闥・徐圓朗を伐ち,左監門大將軍。
圓朗が再び反したため、河南大總管として平定。
七年,趙郡王孝恭とともに輔公祏を伐つ。
八年,突厥を防ぐ。
太宗が即位し并州都督・實封九百戶で突厥防衛にあたる。
貞觀三年李靖に従い通漠道行軍總管として突厥を伐つ。
光祿大夫,行并州大都督府長史。
十一年,英國公,世襲蘄州刺史。
本官を以って領太子左衛率に、しかし常に并州に居る。
十五年兵部尚書となるが遥領,朔州行軍總管として薛延陀を伐つ。
十七年高宗が皇太子となり、太子事兼左衛率,加特進同中
書門下三品として宰相に連なる。
十八年太宗に従い遼東道行軍大總管として高麗を伐つ。
二十年薛延陀を大破する。
二十二年太常卿仍同中書門下三品に転じる。
すぐまた太子事に復帰。
日頃太宗は勣に盛んに深い信頼を示していたが
二十三年太宗は病となると、宰相解任し疊州都督に逐った。
反抗すれば誅殺される所であったが勣は即日赴任した。
老耄した太宗の田舎芝居に付き合ったわけである。
高宗が即位すると洛州刺史、ついで加開府儀同三司令同中
書門下參掌機密として宰相に復帰した。
ついで尚書左僕射となるが好まず、永徽元年僕射を辞し、
開府儀同三司知政事。
四年房遺愛の事件の後、司空に昇進する。
外様の武官であるため長孫無忌等の貴族官僚とは合わず、
則天の立后に際しても独自の立場を取り、
結果的に擁立することとなった。
麟初に泰山封禪大使。
乾封元年遼東道行軍大總管として高麗を滅ぼす。
二年,太子太師を加えられる。
其年相のまま薨,年七十六。贈太尉、揚州大都督,謚曰貞武、
長子震は桂州刺史になるが勣より先に卒し、孫敬業が嗣ぎ、
則天に対して反乱を起こし誅殺。
[宰相履歴]
①貞観17年4月特進・太子事同中書門下三品~18年11月遼東道行軍大總管~ 21年3月復遼東道行軍大總管~23年5月貶
②貞観23年5月開府儀同三司同中書門下參掌機密~9月尚書左僕射同中書門下三品~永徽元年10月辞僕射~永徽4年2月司空~乾封元年12月遼東道行軍大總管~總章元年加太子大師~2年12月薨。