唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐宰相一覧[除皇族]25.李勣

2015-01-06 10:05:00 | Weblog
李勣。字は懋功。本姓徐氏,本名世勣。曹州離狐人也。
父蓋は豪族であったが没落したとされている。
大業末に群盗翟讓に従い活躍する。
その後李密に従い東海郡公を称し、密に黎陽倉を取る
ことを進言する。
武二年密とともに唐に歸附するが自立。
黎陽總管・上柱國・萊國公となり、
ついで右武候大將軍・曹國公となり李姓を与えられる。
竇建に敗北し捕らえられるが、三年唐に復帰。
四年秦王に従い王世充・竇建徳を伐った。
その後、秦王に従い劉闥・徐圓朗を伐ち,左監門大將軍。
圓朗が再び反したため、河南大總管として平定。
七年,趙郡王孝恭とともに輔公祏を伐つ。
八年,突厥を防ぐ。
太宗が即位し并州都督・實封九百戶で突厥防衛にあたる。
貞觀三年李靖に従い通漠道行軍總管として突厥を伐つ。
光祿大夫,行并州大都督府長史。
十一年,英國公,世襲蘄州刺史。
本官を以って領太子左衛率に、しかし常に并州に居る。
十五年兵部尚書となるが遥領,朔州行軍總管として薛延陀を伐つ。
十七年高宗が皇太子となり、太子事兼左衛率,加特進同中
書門下三品として宰相に連なる。
十八年太宗に従い遼東道行軍大總管として高麗を伐つ。
二十年薛延陀を大破する。
二十二年太常卿仍同中書門下三品に転じる。
すぐまた太子事に復帰。
日頃太宗は勣に盛んに深い信頼を示していたが
二十三年太宗は病となると、宰相解任し疊州都督に逐った。
反抗すれば誅殺される所であったが勣は即日赴任した。
老耄した太宗の田舎芝居に付き合ったわけである。
高宗が即位すると洛州刺史、ついで加開府儀同三司令同中
書門下參掌機密として宰相に復帰した。
ついで尚書左僕射となるが好まず、永徽元年僕射を辞し、
開府儀同三司知政事。
四年房遺愛の事件の後、司空に昇進する。
外様の武官であるため長孫無忌等の貴族官僚とは合わず、
則天の立后に際しても独自の立場を取り、
結果的に擁立することとなった。
麟初に泰山封禪大使。
乾封元年遼東道行軍大總管として高麗を滅ぼす。
二年,太子太師を加えられる。
其年相のまま薨,年七十六。贈太尉、揚州大都督,謚曰貞武、
長子震は桂州刺史になるが勣より先に卒し、孫敬業が嗣ぎ、
則天に対して反乱を起こし誅殺。
[宰相履歴]
①貞観17年4月特進・太子事同中書門下三品~18年11月遼東道行軍大總管~ 21年3月復遼東道行軍大總管~23年5月貶
②貞観23年5月開府儀同三司同中書門下參掌機密~9月尚書左僕射同中書門下三品~永徽元年10月辞僕射~永徽4年2月司空~乾封元年12月遼東道行軍大總管~總章元年加太子大師~2年12月薨。
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