褚遂良。字は登善。
散騎常侍亮之子也。
太業末薛舉に仕えて通事舎人。
その後唐に歸國,秦州都督府鎧曹參軍。
貞觀十年秘書郎より起居郎。
文史に詳しく、特に隸書に優れ、太宗から虞世南の後継と
して遇された。
十五年諫議大夫兼知起居事。
太宗にしばしば諫言し受入れられたが、人を誹謗中傷する
こともよくあった。
ついで太子賓客になる。
十八年黃門侍郎參綜朝政として宰相に連なる。
加銀青光祿大夫。
二十一年檢校大理卿を兼ねる。
尋丁父憂解。明年,起復後に舊職に戻る。
まもなく中書令に昇進する。
二十三年太宗は死病となり、遂良と長孫無忌に対して遺詔
をして、太子の補佐を依頼する。
高宗即位後、河南縣公となる。
永徽元年郡公に進むが。地位を利用して他人の土地を押し
買いしていたことにより弾劾され同州刺史へ。
三年吏部尚書同中書門下三品監修國史・光祿大夫として
宰相に復するが、長孫無忌に頭が上がらなくなる。
其月太子賓客を兼ねる。
四年尚書右僕射依舊知政事。
六年高宗が皇后王氏を廃することを、無忌とともに諫め
るが聴かれず、さらに強諫して高宗を激怒させた。
遂良は高宗の劣弱な資質を読めず、諫臣に対しては我慢
強かった太宗へと同じような対応をした失策である。
潭州都督に貶され。
その後何度も謝罪をしたが、高宗=武后の怒りは解けなかった。
顯慶二年桂州都督へ、また僻地の愛州刺史に流され。
明年63才で卒する。
後二歲,無忌の失脚とともに弾劾され、削官爵,子孫配流愛州。
神龍元年復官爵。
[宰相履歴]
①貞觀18年9月黄門侍郎参豫朝政~22年9月中書令~永徽元年9月貶
②永徽3年正月吏部尚書同中書門下三品~4年9月尚書左僕射
同中書門下三品仍知選事~6年9月貶。
散騎常侍亮之子也。
太業末薛舉に仕えて通事舎人。
その後唐に歸國,秦州都督府鎧曹參軍。
貞觀十年秘書郎より起居郎。
文史に詳しく、特に隸書に優れ、太宗から虞世南の後継と
して遇された。
十五年諫議大夫兼知起居事。
太宗にしばしば諫言し受入れられたが、人を誹謗中傷する
こともよくあった。
ついで太子賓客になる。
十八年黃門侍郎參綜朝政として宰相に連なる。
加銀青光祿大夫。
二十一年檢校大理卿を兼ねる。
尋丁父憂解。明年,起復後に舊職に戻る。
まもなく中書令に昇進する。
二十三年太宗は死病となり、遂良と長孫無忌に対して遺詔
をして、太子の補佐を依頼する。
高宗即位後、河南縣公となる。
永徽元年郡公に進むが。地位を利用して他人の土地を押し
買いしていたことにより弾劾され同州刺史へ。
三年吏部尚書同中書門下三品監修國史・光祿大夫として
宰相に復するが、長孫無忌に頭が上がらなくなる。
其月太子賓客を兼ねる。
四年尚書右僕射依舊知政事。
六年高宗が皇后王氏を廃することを、無忌とともに諫め
るが聴かれず、さらに強諫して高宗を激怒させた。
遂良は高宗の劣弱な資質を読めず、諫臣に対しては我慢
強かった太宗へと同じような対応をした失策である。
潭州都督に貶され。
その後何度も謝罪をしたが、高宗=武后の怒りは解けなかった。
顯慶二年桂州都督へ、また僻地の愛州刺史に流され。
明年63才で卒する。
後二歲,無忌の失脚とともに弾劾され、削官爵,子孫配流愛州。
神龍元年復官爵。
[宰相履歴]
①貞觀18年9月黄門侍郎参豫朝政~22年9月中書令~永徽元年9月貶
②永徽3年正月吏部尚書同中書門下三品~4年9月尚書左僕射
同中書門下三品仍知選事~6年9月貶。