景雲三年/太極元年/延和元年/先天元年 西暦712年
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正月大赦,改元曰太極。
いいかげん平穏にして欲しいという睿宗の願いでしょうか。
正月乙未,戸部尚書岑羲、左御史台大夫竇懷貞同中書門下三品。
太平公主派が巻き返してきます。皇太子よりも彼女のほうがやり手ですので、文官官僚達はなびいていきます。
五月辛巳,大赦,改元曰延和。
六月甲子,孫佺、李楷洛、周以悌及奚戰于冷陘山,敗績。
相変わらず弱い唐軍、全滅に近い打撃を受けます。奚の背景には突厥がついています。
七月、なにをやってもうまくいかない睿宗、占者に彗星が太微に入るのを「皇太子が皇帝になる兆し」とか言われ、それなら位を皇太子に譲り難を避けたいと言い出しました。太平公主は猛反対しますが睿宗は楽になりたい一心で強行します。
八月庚子,立皇太子為皇帝,以聽小事;自尊為太上皇,以聽大事。
玄宗が即位しました。しかし太平公主が巻き返し、重要事項[三品以上の人事、刑殺]は睿宗が決裁するという骨抜きに成功しました。上皇の命は「誥」、皇帝は「制」といいます。玄宗は則天時の睿宗扱いで実権はありません。
八月甲辰,大赦,改元曰先天
また大赦、改元です。皇帝が変わったからです[崩御の場合は即位の翌年ですが]
八月戊午,流劉幽求于封州。
玄宗派の劉幽求・張垍等が羽林軍を動員して太平公主派を除こうとしましたが、事が洩れ不利になったため玄宗は幽求に責任を押しつけてごまかしました。
十一月乙酉,奚、契丹二萬騎寇漁陽,幽州都督宋璟閉城不出,虜大掠而去。
丁亥,誥遣皇帝巡邊。
奚、契丹は唐軍をなめきって侵攻してきます。
先天二年/開元元年 西暦713年
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正月乙亥,誥:「衛士自今二十五入軍,五十免;羽林飛騎並以衛士簡補。」
皇帝巡邊改期,所募兵各散遣,約八月復集,竟不成行。
敗戦が続いていたので動員をかけます。玄宗を辺地に出そうという太平公主派の動きか、兵力を集めて主導権を取ろうという玄宗派の動きかは不明です。
六月丙辰,以兵部尚書郭元振同中書門下三品。
太平公主派の勢力は拡大し、宰相の5/7、文武官僚の大半がついています。玄宗は傀儡のようです。しかし実働部隊の若手軍人達は玄宗を支持していました。
七月、太平公主派が羽林軍を率いて蜂起するという名目で、玄宗派は龍武軍を動員し、宰相竇懷貞、蕭至忠、岑羲を殺しました。太平公主は逃亡しましたが一党とともに殺されました。実働できる軍人を握っていた玄宗の勝ちです。
七月乙丑,誥歸政于皇帝。
睿宗は姉と子の闘争を傍観し、結果を追認し完全に隠棲することにしました。
開元四年[716年]55歳で没します。