唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

中宗睿宗史をアップしました。

2020-07-16 10:00:31 | Weblog
今までの 高祖~則天、肅宗~懿宗史 に穆宗・敬宗史を
PDF形式でデータをアップロードしました。
そのまま玄宗史を始めます。
高祖史
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高宗史
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景雲三年/太極元年/延和元年/先天元年~二年/開元元年 西暦712~13年

2020-07-15 10:00:20 | Weblog
景雲三年/太極元年/延和元年/先天元年 西暦712年
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正月大赦,改元曰太極。
いいかげん平穏にして欲しいという睿宗の願いでしょうか。

正月乙未,戸部尚書岑羲、左御史台大夫竇懷貞同中書門下三品。
太平公主派が巻き返してきます。皇太子よりも彼女のほうがやり手ですので、文官官僚達はなびいていきます。

五月辛巳,大赦,改元曰延和。

六月甲子,孫佺、李楷洛、周以悌及奚戰于冷陘山,敗績。
相変わらず弱い唐軍、全滅に近い打撃を受けます。奚の背景には突厥がついています。

七月、なにをやってもうまくいかない睿宗、占者に彗星が太微に入るのを「皇太子が皇帝になる兆し」とか言われ、それなら位を皇太子に譲り難を避けたいと言い出しました。太平公主は猛反対しますが睿宗は楽になりたい一心で強行します。

八月庚子,立皇太子為皇帝,以聽小事;自尊為太上皇,以聽大事。
玄宗が即位しました。しかし太平公主が巻き返し、重要事項[三品以上の人事、刑殺]は睿宗が決裁するという骨抜きに成功しました。上皇の命は「誥」、皇帝は「制」といいます。玄宗は則天時の睿宗扱いで実権はありません。

八月甲辰,大赦,改元曰先天
また大赦、改元です。皇帝が変わったからです[崩御の場合は即位の翌年ですが]

八月戊午,流劉幽求于封州。
玄宗派の劉幽求・張垍等が羽林軍を動員して太平公主派を除こうとしましたが、事が洩れ不利になったため玄宗は幽求に責任を押しつけてごまかしました。

十一月乙酉,奚、契丹二萬騎寇漁陽,幽州都督宋璟閉城不出,虜大掠而去。
丁亥,誥遣皇帝巡邊。
奚、契丹は唐軍をなめきって侵攻してきます。

先天二年/開元元年 西暦713年
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正月乙亥,誥:「衛士自今二十五入軍,五十免;羽林飛騎並以衛士簡補。」
皇帝巡邊改期,所募兵各散遣,約八月復集,竟不成行。
敗戦が続いていたので動員をかけます。玄宗を辺地に出そうという太平公主派の動きか、兵力を集めて主導権を取ろうという玄宗派の動きかは不明です。

六月丙辰,以兵部尚書郭元振同中書門下三品。
太平公主派の勢力は拡大し、宰相の5/7、文武官僚の大半がついています。玄宗は傀儡のようです。しかし実働部隊の若手軍人達は玄宗を支持していました。

七月、太平公主派が羽林軍を率いて蜂起するという名目で、玄宗派は龍武軍を動員し、宰相竇懷貞、蕭至忠、岑羲を殺しました。太平公主は逃亡しましたが一党とともに殺されました。実働できる軍人を握っていた玄宗の勝ちです。

七月乙丑,誥歸政于皇帝。
睿宗は姉と子の闘争を傍観し、結果を追認し完全に隠棲することにしました。
開元四年[716年]55歳で没します。
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景雲元年~二年 西暦710~11年

2020-07-14 10:02:44 | Weblog
景雲元年七月以降 西暦710年
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七月庚戌朔,贈韋月將宣州刺史。
追復故太子重俊位號;雪敬暉、桓彥范、崔玄暐、張柬之、袁恕己、成王行里、李多祚等罪,復其官爵。
中宗時代の処置の全否定が行われました。

七月丁巳,洛州長史宋璟を宰相に
八月癸巳,罷斜封官凡數千人。
宋璟・姚元之により、売官数千人が取り消され、綱紀粛正が始まりましたが、これは太平公主の干渉により中途半端に終わります。

八月、庚寅,譙王重福及汴州[沅州]刺史鄭愔反,伏誅。
韋后により均州に幽閉されていた重福に、失脚して不満な愔達が結びつき東都で蜂起しました。洛州長史崔日知が奮闘し鎮定しました。

丁酉,以幽州鎮守經略節度大使薛訥為左武衛大將軍兼幽州都督。
節度使の名称の始まりです。

景雲二年 西暦711年
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正月己未,温王重茂為襄王,充集州刺史,遣中郎將將兵五百就防之。
幽閉です。中宗系統は皇位から排除されていきます。開元二年[714年]七月重茂は死にます。殺されたわけではないようです。

太平公主と皇太子[玄宗]の間に軋轢が生じ、公主に附かない韋安石が排除されたり、太子交代[宋王成器へ]の噂が撒かれるたりし、優柔不断な睿宗は狼狽します。

二月、太子派の宰相姚元之・宋璟等は諸王を刺史に出し、太平公主を蒲州に安置しようとしますが、公主の反撃に遭い解任されます。

四月、紛争に嫌になった睿宗は譲位を言い出しますが、公主派に止められます。

十月、劉幽求,魏知古,崔湜、陸象先を宰相に。韋安石、李日知、郭元振、竇懷貞、張說を解任。
嫌になった睿宗は宰相達を一気に入れ替えます。しかし事態は変わりません。
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景龍四年/唐隆元年/景雲元年六月 西暦710年

2020-07-13 10:00:08 | Weblog
景龍四年/唐隆元年/景雲元年六月 西暦710年
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当時の情勢
・周囲の蕃族達は、弱い敗戦続きの周/唐軍をなめきっています。突厥・突騎施・契丹・奚・吐蕃などは実質自立しています。

・韋后や安楽公主、上官氏達の女性権力に対して、少壮軍人達は強い不満を抱いています。彼らは男系の相王の息子達に期待しています。

・韋后の一族[韋溫等]や関係者が登用されていますが、あまり能力はありません。武氏も三思が殺されて以降は迫力がありません。

・相王の子達や取り巻きは、太子重俊の乱後、自分達への余波を警戒し、先手を打とうとしています。

・売官により官吏が濫造され、財政的困難が生じています。

・宰相達、高級官僚は中宗をなめきっていて、則天時代の方が良かったという感覚です。

六月、韋后・安楽公主は中宗を毒殺すると、宰相を招集し、諸府五万人を韋氏一族に分担させ警戒を強めました。安楽公主を皇太女とし即位を狙っていました。

・裴談、張錫を宰相にし、張嘉福、岑羲、崔湜を要所に配置しました。

・相王の娘太平公主と、中宗の妾上官昭容[則天の有能な側近でした]は、安楽公主の即位を阻止するため、中宗の遺制を偽作し、温王重茂為皇太子,皇后知政事,相王旦參謀政事としました。上官氏は相王系にすりよろうとしていました。

先手をうたれた韋后は宗楚客を使って相王を外させましたが、公主の即位は諦めざるえませんでした。

・甲申,集百官,發喪,韋皇后臨朝攝政,赦天下。韋温總知内外守捉吏馬事。
韋后は実権を得て、一族の溫に軍事を総覧させました。

・丁亥,殤帝[溫王重茂]即位,時年十六。尊韋皇后為皇太后;立妃陸氏為皇后。
傀儡を擁立、重茂は韋后の子ではありません。

・韋后派は一応軍事を抑えたようにみえますが、実戦部隊である羽林などの軍人には不満が高まっていました。そして相王の子臨淄王隆基[後の玄宗]や兄弟達、太平公主達は彼らとつながり金銭を援助し、蜂起を指嗾していました。また少壮官僚や處士達もまたこれについていました。

・庚子,隆基は羽林・萬騎を率いて、韋后・安楽公主・韋溫・武延秀・宗楚客等を斬り、韋氏一族を族滅しました。上官氏も斬られました。韋氏政権は宰相等幹部だけの党派で実働部隊を持たず、蜂起に対して諸軍はまったく動きませんでした。

・癸卯,太平公主は少帝に命じて、相王に帝位を譲らせ、睿宗が即位しました。
相王の子隆基、成器、成義、隆範、隆業達が軍事を分担し防衛に当たりました。

羽林の將士に厚賞を与え、既存宰相達の大半を解任しました。
李日知や鐘紹京をいきなり宰相に補任しました。しかし行政的には無能でした。

・丁未,立平王[臨淄王]隆基為太子。
睿宗の長男は宋王成器でしたが、功績のある三男の隆基が太子となりました。相王の子達はめずらしく仲が良く[共通して則天・韋后の迫害に耐えていたからかも]、相続争いは起きませんでした。

・追削武三思、武崇訓爵謚,斫棺暴屍,平其墳墓。
・越州長史宋之問,饒州刺史冉祖雍,坐諂附韋、武,皆流嶺表。
やっと武氏の影響を遮断する決断を下しました[相王系も武氏なのですが]

・旧宰相姚元之・韋嗣立・蕭至忠・趙彥昭・崔湜を宰相に戻しました。
成り上がりの鍾紹京だけでは行政が回っていかなかったので再任しました。

・相王の娘太平公主は男子同様に活躍し、成器・隆基など弟達を指導し事に当たらせていた。その勢力は強くなり、その政治力・決断力を評価して官僚達が周囲に集まり、三子がすべて郡王になり、皇族に準ぜられるようになりました。
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睿宗前史

2020-07-12 10:00:04 | Weblog
睿宗前史
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相王旦[睿宗]は高宗と則天の末子、則天の立后以降の高宗の他子は、則天により密かに処理されたのでしょう。

龍朔二年[662年]七月に生まれ、十月には殷王となった。その後豫王、冀王、相王、豫王と次々に移り、改名も輪、旦と変わります。

嗣聖元年[684年]二月中宗が廃されると代わって即位しました。もちろん則天の傀儡でなんの権限もありません。

天授元年[690年]九月則天が即位する。皇帝から皇嗣に降り、賜姓武氏となりました。

長壽二年[693年]正月妃の劉氏と竇氏を則天に殺されました。

一月、裴匪躬や范雲仙が則天の許可を得ず皇嗣に謁見したとして殺され、皇嗣も取り調べられました。
工人安金藏が誣告に憤慨して切腹するという事件に則天が驚いて事なきを得ました。

萬歲通天二年[697年]來俊臣が皇太子・皇嗣・武氏を誣告するが成りません。

聖暦元年[698年]兄廬陵王が赦され入京しましたので、皇太子[皇嗣]を譲り、相王に降ります。
いろいろな元帥・大将軍・官職に就くがすべて虚名です。

神龍元年[705年]正月中宗が即位し、號安國相王,太尉同鳳閣鸞台三品となるがすぐ辞します。

神龍三年[707年]皇太子重俊の乱に坐していると韋后派の蘇珦に弾劾されますが、中宗は採りません。

景龍四年/唐隆元年[710年]六月、韋后等が中宗を毒殺し、溫王重茂を擁立し、安國相王を參謀政事としますが、すぐ太尉へ。その後子の臨淄王隆基等が蜂起し韋后派を殺害し、父相王を即位させました。

彼は中宗ほど腑抜けではないようですが、母則天を懼れ、ひたすら危険を伴う権力から逃避しています。
この再度の即位もありがた迷惑であったかもしれません。
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景龍三年~四年 西暦709~10年

2020-07-11 10:01:44 | Weblog
景龍三年 西暦709年
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二月己丑,及皇后幸玄武門,觀宮女拔河,為宮市以嬉。
中宗が皇后・娘達や女官を引き連れ遊びに出ます。

丙申,監察御史崔琬對仗彈宗楚客、紀處訥潛通戎狄,受其貨賂,致生邊患。
宰相楚客、處訥が戎狄から収賄し外交をねじ曲げたと弾劾されます。中宗は怒りますが、楚客等は中宗を馬鹿にしているので承服しません。中宗はなあなあで収めます。

三月戊午,宗楚客,蕭至忠,韋嗣立、崔湜,趙彥昭、韋溫、鄭愔など宰相が濫造されます。

五月丙戌,貶崔湜為襄州刺史,鄭愔江州司馬。
調子に乗って収賄しすぎだ宰相二人が処罰されますが、女官の援けで左遷されるだけですみます。

濫官充溢,人以為三無坐處,謂宰相、御史及員外官也。
売官により官吏が溢れて職務が不足する事態です。

十一月乙丑,有事於南郊,以皇后為亞獻,大赦。
韋后はもはや則天気取りです。

景龍四年 西暦710年
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正月丙寅夜,中宗與韋后微行觀燈于市里,又縱宮女數千人出游,多不歸者。
また女官を引き連れて遊行します。規律は弛緩し宮女達が多く逃亡します。

二月、上命紀處訥送金城公主適吐蕃,處訥辭;又命趙彥昭,彥昭亦辭。丁丑,命左驍衛大將軍楊矩送之。
吐蕃の侵攻を防ぐため公主を送ります。宰相達に随行を命じますが拒否されます。中宗の命に従おうとする宰相はあまりいません。

五月、燕欽融が韋后の密通、安楽公主の淫乱、楚客の横暴を弾劾。
中宗はそれが事実である事を知り、さすがに懊悩します。韋后や安楽公主は中宗の状況を見て危機感を抱きます。

六月壬午,韋皇后弑中宗,矯詔立溫王重茂為皇太子。
韋后一党は中宗を毒殺し、幼帝を立てて則天同様の権限を握ろうとします。さすがに安楽公主の即位は困難です。
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神龍三年~景龍二年 西暦707~08年

2020-07-10 10:00:03 | Weblog
神龍三年/景龍元年 西暦707年
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二月丙戌,復武氏廟、陵,置令、丞、守戸如昭陵。
韋后と武三思が結託し武氏復權が図られていきます。

七月辛丑,皇太子以羽林千騎兵誅武三思,不克,死之。
皇太子は韋后・安楽公主・武三思から軽視され、廃位の危険を感じていました。しかし羽林軍など軍人達からみて、軟弱な中宗や韋后など女性の専権は苦々しく、大將軍李多祚以下は太子側にあり、宰相魏元忠も後援していました。太子は蜂起して武三思・崇訓を殺し、中宗に迫りましたが、中宗は韋后・安楽公主に擁され、皇帝を敵とした立場になり敗死してしまいました。

八月、魏元忠罷。
影で皇太子を応援していた元忠が逐われました。

九月丁酉,吏部侍郎蕭至忠為黄門侍郎,兵部尚書宗楚客,左衛將軍兼大府卿紀處訥:同中書門下三品。
辛亥,楊再思為中書令,韋巨源、紀處訥為侍中。
韋后・武氏連合勢力が次々と要職を占めていきます。

韋后・安樂公主派は相王・太平公主と皇太子が通謀していると誣告しました。しかし蕭至忠に諫言され、さすがの中宗も帝位を譲ってくれた弟を猜疑するということには躊躇しました。

景龍二年 西暦708年
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十一月庚申,西突厥寇邊,御史中丞馮嘉賓使于突厥,死之。
癸未,安西都護牛師獎及西突厥戰於火燒城,死之。
西突厥[突騎施]が復興し唐朝軍は敗北しました。もはや西域でも唐朝は舐めきられています。

是歲,皇后、妃、主、昭容賣官,行墨敕斜封。
韋后以下女性達は売官してその売り上げで豪奢な生活をします。官吏[免税]は急増して国家財政は破綻していきますが、中宗は放置するしかありません。また高位官僚には實封をばらまいてご機嫌取りをしその面でも財政は苦しくなります。
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神龍元年~二年 西暦705~06年

2020-07-09 10:00:03 | Weblog
神龍元年 その2 西暦705年
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六月、韋安石為中書令,魏元忠為侍中,楊再思檢校中書令。七月太子賓客韋巨源三品,西京留守如故。
再興の功臣を逐い、則天時代の旧臣が続々と復帰してきます。

十一月壬寅,則天崩于上陽宮,年八十二。
則天が亡くなりました。中宗はどれだけ安心したことでしょう。これでその怠惰な気持に歯止めがなくなりました。

十一月壬午,及皇后享于太廟,大赦。己丑,幸洛城南門,觀潑寒胡戲。
韋后もやりたいことが出来るとはりきりました。

神龍二年 西暦706年
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閏月丙午,公主開府置官屬。
則天による女性解放の傾向は続きます。韋后の娘安楽公主達は男性[親王]並みの待遇を要求しました。

二月、僧慧范等九人並加五品階,賜爵郡、縣公;道士史崇恩等三人加五品階,葉靜能加金紫光祿大夫。
中宗・韋后は仏教・道教への信仰にのめり込みます。

四月、處士京兆韋月將が、武三思と韋后が密通していると上訴しました。中宗は懊悩しながら月將を流し殺させました。

六月戊寅,貶敬暉為崖州司馬,桓彥範瀧州司馬,袁恕己竇州司馬,崔玄暐白州司馬,張柬之新州司馬。
武氏の復仇により再興の功臣は処罰され、流され、殺されます。不死の鉄券などなんの意味も持ちません。定見の無い中宗は官僚達に舐めきられることになります。

七月戊申,立衛王重俊為皇太子。
韋后には男子はありません。それでも「唐」の永続保証と、弟相王旦への牽制のために皇太子を立てねばなりません。甘やかされまくっていた安楽公主は自分が皇太女になれないのに不満です。

十二月己卯,靈武軍大總管沙吒忠義及突厥戰于鳴沙,敗績。
丙戌,以突厥寇邊、京師旱、河北水,減膳,罷土木工。
則天時代以来唐朝軍は弱体で敗北が続いています。
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長安五年/神龍元年 その1 西暦705年

2020-07-08 10:00:04 | Weblog
長安五年/神龍元年 その1 西暦705年
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正月癸卯,宰相張柬之、崔玄暐等は羽林軍を率いて蜂起し、則天の寵臣張易之・張昌宗等を殺害。
丙午,皇帝復于位。丁未,則天を上陽宮へ遷す。
則天皇帝も老齢から病となり、易之などの寵臣のいいなりになっていました。男系への復帰を謀った宰相柬之や玄暐等はためらう皇太子[中宗]を擁立し、孤立した易之・昌宗を殺害して、病中の則天を廃位しました。「周」から「唐」へのクーデターですが、中宗は則天の子ですので母を殺す事は出来ません。

正月丙午,大赦,,改元。
「周」代の官制・典礼を「唐」のものに戻しました。本来武氏を族滅すべきであったわけですが、中宗や相王[睿宗]など李氏皇族と武氏は重複してしまっているため手の付けようがありません。則天の徹底した李氏絶滅策により、名目上の「武唐」ができあがったのです。

正月庚戌,張柬之、袁恕己同鳳閣鸞台三品,崔玄暐守内史,敬暉為納言,桓彥範守納言。
クーデター組はお手盛りで宰相に連なりました。

二月甲寅,復國號唐。
貶韋承慶為高要尉,流房融于高州。姚元之罷。
正式に国号を「唐」に戻し、則天派の宰相を排除しました。元之は本来クーデター派なのですが、則天への愛惜を示したというので左遷されたわけです。

正月甲子,皇后韋氏復於位,大赦,賜酺三日,復宗室死于周者官爵。
韋氏が皇后に復帰し、李氏皇族や韋氏の復位や生き残った者達の登用が行われました。

正月丙寅,太子賓客武三思為司空、同中書門下三品。
丁卯,右散騎常侍附馬都尉武攸暨為司徒。
武氏一族も登用されました。すべての罪は張易之等におしつけたわけです。優柔不断な中宗が母や母の一族[自分も含まれる]を罰することはできません。

正月、貶譙王重福為濮州刺史。
韋后は自分の子卲王重潤等が殺された件に、重福が絡んでいると思って恨んでいました。

三月甲申,詔文明後破家者昭洗之,還其子孫廕。
則天時代の冤罪を回復する処置がとられました。酷吏一族は嶺南に流しました。

四月丁卯,高要尉魏元忠為衛尉卿、同中書門下平章事。
失脚していた大物宰相元忠が復帰してきました。

五月甲午,敬暉,桓彥範,張柬之,袁恕己,崔玄暐が郡王に昇格。
中宗や武三思などは、再興の功臣であり反武氏派のうるさがた宰相達を排除するため、宰相を兼任できない郡王へ昇格させる策を講じました。無能軟弱な中宗にとっても、復位は怖い則天からの解放で有り難いのですが、治政の重任はありがた迷惑だったかもしれません。
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中宗前記2 廃帝以降は廬陵王

2020-07-07 10:00:09 | Weblog
中宗前記2 廃帝以降は廬陵王
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嗣聖元年[684]二月戊午に則天により廃位され、名目上は弟相王[睿宗]に譲位させられました。

子の皇太孫重照は庶人とされ、皇后韋氏の一族は欽州に流されやがて殺されます。

四月、廬陵王に降され、山西の房州から均州へ流されます。ここは太宗の子魏王泰が流された所です。

九月、淮南で李敬業[勣の子]が反乱しますが、名目は中宗の復位です。

垂拱元年[685]三月房州へ遷されます。

垂拱三年[687]九月虢州人楊初成が中宗の復位を唱えて蜂起しますが誅殺されます。

萬歳通天二年[697]、酷吏來俊臣が武一族・睿宗・中宗を含む大規模な誣告をしますが、さすがに則天も認めず俊臣のほうが誅殺されます。

聖暦元年[698]宰相達や則天の寵臣張易之・昌宗等は武氏からの立太子を懼れ、廬陵王の召し返しを勧めます。老齢で弱気になってきた則天も同意し、三月廬陵王は東都に戻されます。

九月、皇嗣[睿宗]の辞退があり、廬陵王が皇太子に戻されます。復名顯。

大足元年[701]九月、張易之の誣告により、皇太子と韋氏の子邵王重潤と妹永泰郡主、主婿魏王武延基が謀叛の罪で殺されます。韋氏[韋后]としてはただ一人の男子でした。

廬陵王[中宗]は元々軟弱なうえ、長い配流生活などで、勅使が来る度に脅えて自殺を試みるなど精神的にスポイルされた人間でした。強気な妻の韋后に励まされなんとか生きて来ました。[将来復位することあったら、お前になんでも好きなことをさせてやる]というのが口癖だったと言われています。
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穆宗敬宗史を追加しました

2020-07-06 10:00:42 | Weblog
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寶暦元年 西暦824年

2020-07-05 10:00:39 | Weblog
寶暦元年 西暦824年
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正月大赦,改元。

鄠令崔發が横暴な宦官を処罰したことを怒った敬宗が、發を捕らえて宦官達に殴打させました。宰相達が諫め釈放を請いましたがなかなか敬宗はききませんでした。

正月乙卯,牛僧孺罷。
敬宗の馬鹿さ加減に呆れた僧孺は、自ら鄂岳節度使に出ました。

九月壬午,昭義軍節度使劉悟卒,其子從諫自稱留後。
本来、昭義節度使は河北と違い内地の方鎭であり世襲は許されません。悟が死んだ後從諫の多額の贈賄を受けた宰相李逢吉や宦官王守澄等は世襲を認めてしまいました。

宝暦二年 西暦825年
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正月甲戌,發神策六軍穿池於禁中。三月戌寅,觀競渡于魚藻宮。
敬宗は、仲間の宦官とポロや力士[レスリング的なもの、敬宗も参加します]毎日遊びほうけていました。

四月戊戌,橫海軍節度使李全略卒,其子同捷反。
昭義節度使に許されるなら我々もと横海同捷が世襲を要求してきました。当面放置です。

李逢吉等の牛党の立場としては、金がかかり軍人達が増長する軍事行動をできるだけせずに、財政再建に努める[宦官・官僚の腐敗により建前だけですが]というのが方針です。また愚帝続きではどうしようもなかったとも言えます。

五月庚辰,幽州盧龍軍亂,殺其節度使朱克融,其子延嗣自稱節度使。
自立したと言え人望がなかった克融は殺されました。一応少子の延嗣が継承することになりました。唐朝口出しする権利も意志もありません。

六月辛酉,觀漁于臨碧池。甲子,觀驢鞠、角牴於三殿。八月丙午,觀競渡于新池。
九月甲戌,觀百戰于宣和殿,三日而罷。
お遊びはよりエスカレートしていきます。敬宗は仲間とふざけあい、ちょっと気に入らないと処罰するというどうしようもない馬鹿です。

九月戊寅,幽州盧龍軍兵馬使李載義殺朱延嗣,自稱留後。
やはり子供では幽州節度使はつとまりません。載義は唐朝にすりよる傾向を示します。

九月壬午,李程罷。十一月甲申,李逢吉罷。
牛党宰相が解任されていきます。

十二月,中官劉克明反。辛丑,皇帝崩,年十八。
遊びほうけていた敬宗は仲間に殺されてしまいます。克明等の遊び仲間は慌てて絳王悟を擁立しようとしますが、王守澄や梁守謙など宦官主流派は真面目な江王[文宗]を擁立し、克明等を誅殺します。敬宗の馬鹿さ加減は宦官達からみても行き過ぎだったのでしょう。
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長慶三年 西暦822年

2020-07-04 10:00:26 | Weblog
長慶三年 西暦822年
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三月壬戌,御史中丞牛僧孺為戸部侍郎、同中書門下平章事。
逢吉についで僧孺と牛派の全盛です。

四月甲午,陸州獠反。七月丙寅,黃洞蠻陷欽州。
嶺南地方で獠が蜂起しました。地方官による収奪に我慢できなくなったためでしょう。

四月、工部尚書鄭權,家多姬妾,祿薄不能贍,因注通于守澄以求節鎮。己酉,以權為嶺南節度使。
腐敗していくのは宦官のせいだけではありません。官僚達も地方官は収奪としか思わず赴任するのです。權は妾が多いので生活が苦しいと宦官に贈賄し、実入りの多い嶺南節度使を求めたのです。

長慶四年 西暦823年
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長慶四年正月辛未,以皇太子權句當軍國政事。壬申,皇帝崩于清思殿,年三十。
丙子,皇太子即皇帝[敬宗]位於太極殿。
ずっと病であった穆宗が亡くなりました。宰相は敬宗が幼少のため郭皇太后の称制を求めましたが、郭氏は則天の例を指摘して断りました。

二月丁未,擊鞠于中和殿。戊申,擊鞠於飛龍院。己酉,擊鞠,用樂。
穆宗の喪中であるのに馬鹿息子敬宗は遊びに夢中です。

三月上視朝每晏,戊辰,日絕高尚未坐,百官班于紫宸門外,老病者幾至僵踣。
怠惰な敬宗は朝廷に出て来ません。群臣は待ちくたびれて不満を噴出させています。

四月丙申,梁坊匠張韶反,幸左神策軍,韶伏誅。
韶は宮廷染坊の職人です。占師蘇源明から「お前と俺は殿上で会食すると占いに出ている」と言われ、仲間百人とともに武装して宮廷に突入しました。「あの馬鹿でも皇帝なら俺でも」と思ったのでしょう、突入は成功し韶と源明は殿上で会食しましたが、計画はそこまでで、態勢を立て直した親軍に誅殺されました。敬宗は逃げ惑うばかりでした。
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長慶二年 西暦821年

2020-07-03 10:00:26 | Weblog
長慶二年 西暦821年
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長慶二年正月庚子,魏博軍潰於南宮。魏博節度使田布自殺,兵馬使史憲誠自稱留後。
河北三鎭のうちで唐朝方に残った魏博節度使は、李愬が疾辭[まもなく卒]したあと田弘正の子布がついだが、軍を掌握できませんでした。それでも無理に征討に出ましたが牙軍は従わず、憲誠を押し立てて退却しました。布は責任を感じて自殺しました。唐朝はどうしようもなく憲誠の自立を認めました。これにより憲宗が努力した自立藩鎭の統制がわずか二年で崩壊します。

二月甲子,赦成德王廷湊。
ついに廷湊まで自立をゆるすしか有りません。

二月辛巳,宰相崔植罷。
対処の方策なく無能な植は辞任します。

二月戊子,昭義軍節度使劉悟囚其監軍使劉承偕。
悟もまた唐朝の指示を舐めきって従わなくなります。

三月乙巳,武寧軍節度副使王智興逐其節度使崔群。
徐州武寧軍でも智興が自立します。ドミノ倒しです。

三月戊午,裴度を宰相とし、王播を淮南節度使に戻します。
単なる文官の裴度を押したてても対処の方法は立ちません。

四月壬戌,成德軍節度使牛元翼奔于京師,王廷湊陷深州。
深州に籠城し唐朝方に残っていた元翼が、廷湊の包囲が緩んだ隙に脱出させてもらいました。山東節度使に移ります。

六月癸亥,宣武軍宿直將李臣則逐其節度使李愿,衙門都將李介反。
淮南からの漕運の要地である汴州宣武軍にも反乱が起きました。節度使李愿[晟の長子です、愬と違って軍才はありません]の失政ですが、さすがに唐朝もこの地を失うわけにはいかず必死になります。

六月甲子,裴度、元稹罷。兵部尚書李逢吉為門下侍郎、同中書門下平章事。
裴度と元稹が争い両者とも陥れられて罷免されました。
牛李の党争の端緒となる逢吉が宦官達の支持を得て登用されました。

七月丙辰,兗鄆節度使曹華,忠武軍節度使李光顏討之。
八月壬申,宣武軍節度使韓充又敗之于郭橋。
唐朝は総力を挙げて征討します。汴州を失うと財政的にやっていけなくなります。
韓充は宣武軍節度使に君臨していた弘の弟で、軍内に人望がありました。興味深いのは自分も自立した武寧軍節度王智興も討伐に協力していることです。自分に影響が及ばないようにと言う賢明な立ち回りでしょう。介の乱は周囲に支援する藩鎮がなく意外にスムーズに鎮圧できました。以降宣武軍はおとなしくなります。

九月戊子,鎮海軍將王國清謀反,伏誅。丙申,德州軍亂,殺其刺史王稷。
動乱の余波は続きます。

十月己卯,獵於咸陽。十一月庚午,皇太后幸華清宮。癸酉,迎皇太后,遂獵於驪山。
馬鹿な穆宗達はまだ遊んでいます。華清宮は温泉です。

十二月宦者擊球于禁中,有宦者墜馬,上驚,因得風疾,不能履地。
癸巳,立景王湛為皇太子。
穆宗は事故のショックから重度の体調不良になります。官僚はこれさいわいとすぐ長男を皇太子[敬宗]を立てることを建議し押し切ります。でもこの景王がまた大変な少年です。
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長慶元年 西暦821年

2020-07-02 10:01:00 | Weblog
長慶元年 西暦821年
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正月大赦,改元
恒例の即位翌年の改元です。

正月壬戌,蕭俛罷。
二月壬午,段文昌罷。杜元潁同中書門下平章事。
俛や文昌は自分達が凡才であることを自覚し、避退しようとしました。自覚のない杜元潁が代わって就任しました。

二月己卯,劉總以盧龍軍八州歸於有司。
丁巳,赦幽、涿、檀、順、瀛、莫、營、平八州死罪以下,給復一年。賜盧龍軍士錢。
河北三鎭で最後に残った幽州劉總が帰順しました。總は父や兄を殺害して自立したことを悔い、自責の念を逃れるため出家を強く希望していました。總は幽州軍の統治が困難な事を熟知していましたので、不満分子達を京師に送り神策軍にいれること、幽州を三分割して弱体化させることを提案していました。
◎劉總を天平節度使(赴任できず、中途で亡くなりました)
◎張弘靖 宣武節度使から幽州節度使へ(元宰相で、韓弘のあとの宣武軍をよく慰撫していました)
◎盧士玫 權知京兆尹から瀛莫觀察使へ
   
しかし無能な穆宗皇帝と、元潁・崔植などの高官は、思い上がりと財政の回復のみを憂慮し、幽州の不満分子を送り返し、幽州は二分割だけとし、不満の残る成徳軍節度使田弘正の親衛軍の経費を削りました。

七月甲辰,幽州盧龍軍都知兵馬使朱克融囚其節度使張弘靖以反。
弘靖は有能な官僚でしたが、3代宰相が続く名門貴族の出身であるため、幽州軍の特殊性を理解していませんでした。そこでは主帥と兵士達の関係が民主的で、主従の関係ではありません。弘靖の幕僚達も、唐朝麾下の方鎭での治策がそのまま通用すると思っていました。京師から手ぶらで帰された克融達は、劉總が危惧したように不満をつのらせて蜂起しました。

七月壬戌,成德軍大將王廷湊殺其節度使田弘正以反。
成徳軍は敗北したわけではなく野性味をつよく残していました。節度使田弘正は魏博出身のためその危険性を十分承知していて、魏博から親兵三千を引き連れ護衛させていました。ところが唐朝の宰相は理解せず、その経費を削ったため解散させねばならず、それを知った廷湊達が蜂起したわけです。廷湊達は幽州克融と事前連携していたことは間違いありません。

八月壬申,朱克融陷莫州。癸酉,王廷湊陷冀州。
丙子,瀛州軍亂,執其觀察使盧士攻,叛附於朱克融。王廷湊寇深州。
反乱はたちまち拡大し、幽州・成德は失われていきました。
唐朝は昭義節度使劉悟を幽州節度使にしましたが、討伐不能とみた悟は断りました。

八月丁丑,魏博、橫海、昭義、河東、義武兵討王廷湊。
唐朝は狼狽しましたが、穆宗即位後のバラマキもあり財政困難です。金がないのでは征討軍も本気で動きません。

十月丙寅,諸道鹽鐵轉運使、刑部尚書王播為中書侍郎、同中書門下平章事。
財政屋の王播を登用し軍費調達をしようとしました。

十月、河東裴度為鎮州西面行營都招討使。左領軍衛大將軍杜叔良為深州諸道行營節度使。
文官裴度と、神策出身の叔良では討伐できるとは思えません。本来主帥となるべきは魏博李愬でしたが、愬は重病でした。弘正の子布に交代しなければなりませんでした。

己卯,柳公濟及朱克融戰于白石,敗之。橫海軍節度使烏重胤及王廷湊戰于饒陽,敗之。
十一月甲午,裴度及王廷湊戰於會星,敗之。丙申,朱克融寇定州,義武軍節度使陳楚敗之。
唐朝軍のいつもの「勝ちました」が続きます。恩賞狙いの報告です。

十二月庚午,杜叔良及王廷湊戰於博野,敗績。
征討主力軍は大敗して、無能な叔良は遁走しました。

十二月乙酉,赦朱克融。
幽州・成德の両方は無理とみて、帥を殺害せずにいた克融のほうだけ赦します[節度使就任を認める]が効果はありません。
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