らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

京都・東山を歩く(3)三年坂

2017-02-02 | 趣味

現役時代の同僚たちと歩いている「歴史探訪同好会」ですが、最近ではその目的が少し外れてきているように感じます。
と言うのも、参加者の殆どが70歳以上と言うこともあって、日頃の運動不足を解消するために参加している節があり、史跡を巡ることよりも同僚たちと歩くことに主眼を置いているようです。
史跡を巡りたい小生等数人には若干消化不良を起こしつつあります。
今日ご紹介する中の一つ、「高台寺」もそうです。折角、前まで行きながら素通りなのです。
参拝できなくとても残念でした。
今日は清水寺から高台寺までの街並み(祇園の奥座敷)をご紹介します。

「三年坂(産寧坂)」
三年坂は産寧坂ともいいます。
八坂から清水寺に通じる道路のうち、急な石畳の坂道約100メートルで、重要伝統的建造物群保存地区指定されています。
808年(大同3年)清水寺創建の際に開かれたことから、その名があるといわれており、古めかしい造りの土産物店が並ぶ京情緒あふれる地域です。

名前の由来は、豊臣秀吉の正妻(北の政所)「ねね」がこの坂の近くの高台寺に居を構えていたのですが、その「ねね」が子供の誕生を念じて(産・念)坂をあがり、清水寺にお参りしていたことからその名前がついたという説や、この坂の上の清水寺にある子安観音へ「お産が寧か(やすらか)でありますように」と祈願するために登る坂であることから「産寧坂」と呼ばれるようになったという説、更に、清水寺に参拝した人がこの坂道を通る際に念願を強くし、願いが叶ったあとで観音様への御礼に再度お参りする時に通る坂であることから「再念坂」と呼ぶようになったという説などがあるようです。



「二年坂(二寧坂)」
この坂道も古くからあったようであり、産念坂の手前の坂という意味でこの名が通り名となったそうです。
地元では、三年坂で転ぶと三年で、二年坂で転ぶと二年で死ぬと言われているようですが、これは「石段の坂道は気を付けて」という警句として語り伝えられているようです。
二年坂の中ほどには画家・詩人である竹久夢二が、1917年に数ヶ月をここで過ごした家の跡があります。



「一年坂(一念坂)」
高台寺から二年坂に向かう途中に一念坂(一年坂)の碑がありますが、石畳の道で坂らしさは無く、平坦な道です。
この道が整備されたのは1992年で、一念坂(一年坂)の名前もその時ついたものだそうです。
名前の由来は、三年坂、二年坂に続くことで名づけたのだろうと言われています。



「石塀小路(いしべこうじ)」
石塀小路には、明治末期から大正初期にかけてお茶屋の貸家が軒を連ねていたようですが、現在は、旅館や料亭、庭園が美しい喫茶店などが立ち並び、祇園の奥座敷の位置づけにあります。
路は曲がりくねっていますが通り抜けができ、高台寺通り(ねねの道)へと続いています。



「高台寺」
高台寺の石碑が参道入り口に建っていましたが、今回は参拝することなく通り過ぎました。
高台寺は1606年(慶長11)豊臣秀吉の正室北政所が秀吉の菩提を弔うため創建された臨済宗建仁寺派の寺院です。
伏見城の一部を移築、壮観を極めたが、火災に遭い、今は表門、開山堂、霊屋と茶室傘亭・時雨亭(いずれも重文)観月台等を残すようですが、歩く会のメンバーは史跡には関心がないのか、或いは歩き疲れたのか知りませんが、参拝しようとはしませんでした。
誠に残念です。


京都・東山を歩く(2)清水寺

2017-02-01 | 趣味

京都・東山の散策の2回目は、六波羅蜜寺から清水寺に向かう道筋をご紹介します。

「茶わん坂」
この坂道は通称「茶わん坂」と呼ばれて親しまれています。
清水寺に続く参道の一つですが、「清水焼発祥の地」としても知られています。
伝えによると8世紀の頃、奈良時代の僧「行基」によって清閑寺村茶碗坂で製陶されたのが始まりと言われ、16~17世紀の頃には「京焼」の中の一つである清水焼もこの地で焼かれるようになりました。
現在もこの坂には多くの陶芸家、窯元が活動拠点を置いているそうです。



「清水坂」
清水寺に向かう、参道です。
坂を上り切った先にある清水寺は「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されており、国内からの観光客はもちろん修学旅行生も多く訪れます。
また、近年では世界から観光客が訪れる名所となっています。
当日も中国人を始めとする外国人が多く見られました。



「仁王門」
清水寺の仁王門です。
応仁の乱(1467~1477年)によって焼失しましたが、15世紀末に再建され、平成15年(2003年)に解体修理されました。
清水寺の正門で、幅約10メートル、奥行き約5メートル、棟高約14メートルの、室町時代再建当時の特徴を示す堂々たる楼門です。
入母屋造り、檜皮葺(ひわだぶき)、鮮やかな丹塗りのため「赤門」とも呼ばれています。



「三重塔」
清水の舞台や音羽の滝などとともに清水寺のシンボルとなっているのがこの三重塔です。
この塔が建立されたのは847年で、時の天皇である嵯峨天皇の皇太子が生れたことにより、葛井(かどい)親王が勅命を奉じて創建されたと伝えられています。
その後、何度か焼失を繰り返し、現在の塔は、1632年に再建されたものを1987年に解体修理し、復元されたものです。



「随求堂(ずいぐどう)」
本堂の受付の手前に「随求堂」と言うお堂があります。
このお堂は清水寺の境内にかつて存在した「慈心院」の本堂(伽藍・塔頭)で、本尊は「大随求菩薩(秘仏)です。



「清水寺からの眺望」
本堂、清水の舞台は工事中のため入れませんでしたが境内から眺めた京都市街です。