KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

そよ風吹くところ

2009-05-23 | KOFUKU日記
最近はPCの使える時間が限られている為、思うだけ使ってブログに書き込むことが出来ません。
夕べも使えたのが深夜だったのである程度まで書いて寝てしまいました(^^;)
今朝は起きてナナちゃんに会いに行き、それから洋酒付けプルーン入りのマフィンを焼いてPCに向かってます。

わたしのブログの特色はいちどアップしても、ある程度いいやーと納得できるまで内容がドンドン増えたり、書き直ししたりしているところかも知れません。
まさにつれづれ。それほどに想い湧き出る今日この頃なのです。

さて、昨日は原宿時代からご縁を頂いている、ダウン症の子ども達のお母様のご紹介で、早稲田の財団法人日本ダウン症協会(JDS)までお手伝いに行かせて頂きました。
JDSの本部は東京メトロ早稲田駅から早稲田大学文学部の前を通ってテクテク歩いていくと現れる大きな白いビル、全国心身障害児福祉財団ビルの中にあります。
お隣は日本基督教団の本部があって、ステキな洋館が建っています。
JDSはなんだかちょっとした隠れ家みたいな場所にあるのに、お庭付きって感じの環境で、光もいっぱい差し込むし、そりゃあ良い風が通り抜けるんです。
そんなお部屋がJDSの本部。
誠心誠意でダウン症の子ども達に向かい合っているスタッフの方々も皆さん、優しくて懐の広い方ばかり。
ダウン症の子ども達と同じように元気で明るいのです(^^)
みんな笑顔でおしゃべりしながらゆったり、ちゃきちゃき、黙々と仕事をされているのが印象的でした。
相談のお電話にも丁寧に丁寧に対応されていて、とても深い心使いを感じました。
個人的にも仲良くしていただいている、ダウン症児の医療では権威である長谷川知子先生もいらしておられて、心配でかけてくる親御さんのお電話に親身に対応しておられ、電話などで気軽にこんな素晴らしい先生と直接お話を出来るなっている。
会員でなくてももちろん対応してくださいます。
とても素晴らしい環境が作られているんだなと思いました。

自分の事は棚に上げまくって吐露してる私なんですが(^^;)、こういったすがすがしい環境に触れてなお感じることがありました。
最近とにかくコトバでは優しいことを言ったり、書いたりしていても、実は行動が伴ってないのでは?と人に感じる事が多くて、ちょっとココロが疲れ気味です。
もちろん、自分がいい人だから、そう感じるわけじゃないと思います。
どっちかって言うと、常にそういう疑いをもってしまう訳ですから、すさんでますね(--;)

私がそういう感覚を感じる方々は、なぜか常日頃から愛をテーマにお仕事をしておられる方に多く、当然ながらご自分がそうであることには全く気づかれていないと感じてました。
って言うか、私がそう想ってるだけで、相手は意識無いのが当然かもしれないですね。

ただこのところ色んなとこで出会う人、出会う人、そう言われている人、そう自分で言っている人に限って、そんな理不尽を感じたのです。
人は完璧な人はないといいますから、しょうがないのかもしれないんですけどね。

でもじーっと見たり聞いたりしていると、言ってる言葉も誰かの言葉の転用だし、やってることもかなりいいかげん。
たいそうなこと言ってても、結局、地位やお金を得るためにつなげてるんじゃないかと思えてしまう。
胸に手を当てて、本当に全て愛から生まれてますと言えるのか?と想ってしまう。
って言うか、ごめん、その生き方であなたそう言っちゃいますか?見たいな所まで~(笑)
偉そうですが、本当に私にはそう思えることが多かったんです。
特にその人たちに何か期待をしているわけではなかったはずなのですが。
ただどれだけ言葉にしていても、そのコトバや存在から愛のオーラや真の努力を感じない方々に「愛とはこうですよ、コレが愛なのですよ」、と口先でだけ語られても「なんだかなあ、どっか嘘なんだよなあ。ちっともそう感じないし、あなたがそう見えないよ」って感じで本当にガッカリしてしまうことばかりで。
とてもいい人だよ、ステキな人だよ、と言われても、会う人会う人そうだったりすると、なんかとってもとってもとっても悲しくなっちゃって。
まあね、そういう風にしか感じられないアタシの心の成長が未熟なだけなのでしょうが。。。

でも、このところはそんな人との対面が多すぎて、逆に偽善的で嘘っこな愛の主張をどれだけ聞いているよりも、困難や問題に精一杯立ち向かって、悩んだり、怒ったり、叫んだり、苦しんだりしている人の中にこそ真実の愛を感じてました。
表と裏、善と悪、そういった相反する二つのものが、本当に大事であることが心に大きな想いを投げかけていたのです。
なんと言うか、こないだも書いたんですが、自分の本当の部分と向き合うと言うかね。
だからこそ、人としっかり向き合って、お互いを大事にしながら会話をする大切さを感じていたのかもしれません。
人は、その時、その時で必要な要素や時間というものがあるのかもしれませんね。
いま、私にとって本能的で人間的な行動を体験したり、考えたりすることはきっととても大事なことなのでしょう。
そう感じるからこそ、目の前で起きることの相反する二つの要素がかけていたリ、バランスが悪いと「嘘」になるのが過敏に感じられるようになったのかも知れません。

確かに人は相手に自分の主張を理解をしてもらえたら楽ですよね。
だって自分が納得できる事だからとても気持ちがいい。
相手も私に自分が納得できるように理解して欲しい。
でも実際は難しいものです(^^;)何かと自分が邪魔をしてしまったりする。
愛しているがゆえにそうであることもあります。

ただ思うのですが、人間とは本能的に優しく居ることを知っているのではと思うのです。
だから本当は相手を受け止めることも簡単に出来るのかもしれない。
でも、あえてそうにはならないように造られているんじゃないかな?って。
なぜ、こうしたザワザワしたココロが生まれるんだろう?
そう考えたとき、「必要だからだな」、と私は思いました。
意味があって、大事だから、そうなるんだな、と感じたのです。
そして、たぶん、その見たくない部分に真っ直ぐに向き合わないと本当の穏やかさや、あたたかさや、優しさや愛には本当は触れられない気がしました。
暗いものを拒否すればするほど本当の美しさはきっと分からないのではないか?

ある時、シスターが教えてくれました。

「美しい蓮の花はドロの中から生まれて花を咲かせる。
神様は闇があったからこそ、光を作られたのですよ。
闇のなかに光が見えるように」

私も含めてですが、多くの人は善なる気持ちにあこがれます。
そして愛の美しさを謳うことに必死にもなったりする。
そして自分の日々の在り方とその愛の本質との違いに揺れたりもする。
特にそれが「仕事」になってくると、今度は「愛」であらねばならなくなってくる。
愛だけを考えて、本当に純粋にそれを行えているならきっと問題は起こらない。
ところが、それを行っているのは人間だったりもして、時にいい加減になってしまうこともあるのではないか?
でもそれを生業にしている人は、そうであってはいけない。
それを隠そうとしていると当然うそが生まれる。
でも仕事のため、つまり「愛の人」で居る為には愛や優しさと言う嘘の美しさだけを重ねようとするのではないだろうか。
でもそれを繰り返していると、本当の闇をみることはない。
だから、私が感じるようなことがおきるのではないか?とも思ったりします。
仕方ないことなのかもしれません。

安易かもしれませんが、大事な事を、大事な人に、どんなカタチでも一生懸命伝えようとする努力には愛が宿る気がしています。
こないだ書いた、善も悪になりえるし、悪も善になりえることもある、と言うのであれば。
本当に大切なこと。それを理解する為の、いろんなカタチの努力。
修羅な努力もして見ないと、きっと失敗も見えないから、それを治すことも出来ないのかもしれない。
ある意味、失敗という事にすら気がつけないで終わるとも言えるのではないか。
失敗は成功の母、とはよく言ったものです。
実際、自慢にはなりませんが私はよく失敗します。特に人間関係は下手。
一番身近なところでは家族との関係がありますが、その間柄の中でも上記のような会話が大事なんだなって思うようになりました。
嘘で愛を並べ立てるよりは、その方が愛と真実に近いんじゃないかと思うようになったんです。

昔のことですが、友人のご両親の話です。
周りからもご本人も愛に溢れていると常日頃から想われている、友人のお母さんの仕事は心のカウンセラー。
みんなの尊敬を浴びて、ご本なんかも書いていました。
お母さんはいつも優しく笑ってて、口から出てくるのは愛の言葉ばかり。
さすがだなあ、凄いなあ、と想っていたら、ある時、おじちゃんが私にそっと呟いた。

「俺達夫婦は子どもが居なかったらもう終わってるよ。
俺から見たらあの人は嘘だらけで不満しかわいてこないし、何を言っても聞かないし、思いやりもない。
構えば腹も立つからほっといてるだけなんだよ。
いいかい?大きくなったら、口だけの優しいコトバや、人が観ているときの行動だけ善く見せるのではなくて、本心から愛を実行出来るすてきな女性になるんだよ。」と。
そのお二人は子どもが居ると言う理由で離婚なさらず、人前では愛に溢れた夫婦、家庭内では絶縁の状態で過ごされていました。
大きくなって、家の中のいろんな嘘に気づいた友人はとても悲しそうでした。
でも本人は反面教師でとてもステキなお母さんになりましたけどね(笑)

実はこの台詞、この状況、この10年で複数の男性から聞いた事があるんです(^^;)
いずれも奥様や彼女さんは、それぞれの世界で才色兼備、性格よろしく、愛に溢れ、人を導くような仕事の方ばかり。
一緒に居ても素晴らしい人。だけど本当の姿をお相手に言わせると。。。。。
愛を唱えるけど、最終的に自分のやりたい事が一番大事で最優先する。
家事も出来るけど、それは家庭的とか周りに何らか賛辞を生ませるためのツール。
子どもは好きだが、子育ては好きではない感じ。
旦那さんが自分の思い通りに動いてくれないといつも怒っている。
賛同は喜んで聞くが、反対意見には耳を貸さない、そればかりかそういう人は悪い人だと判断する。
たくさんの事を知っているが自分の言葉はない。他人の言葉を自分の言葉として話す。
自分でも嘘をついている意識のない嘘が上手い。
お金儲けがすきで、お金儲けと愛を自分の中で上手に繋げることができる。
でも、本当にピュア。だから一番問題(笑)

確かにながーく居るとそんな風に見えてくる人が多かったのは事実です。
それも類にもれず、全員。何でなんでしょうかね~。
本当にいい人ばかりで、何でも出来て優しくて、純で。
だからその分、家庭でギャップが生まれるんでしょうか?
非凡でないからこそ生まれるものなんでしょうかね~。
でも旦那さんやこどものココロは遠くに離れていく。。。。みたいな。
たぶん、きっとそういう女性は持ってる才能が多すぎて、溢れちゃってんだろうな。
さっきも書きましたが、それが仕事なんかになっているから、そこに縛られたりもするのかな。
その為に嘘もついてしまったりしてしまうようになるのかな。
でもそれで家族がはなれていってしまったりするのを見ていると・・・悲しいですね。
親しい人が多いから、それだけに。
アタシってばココロが寒い上に、未熟なんで、そんな中で「愛の人」である相手を見ているとピエロさんに見えちゃう不心得者です。
でも、ほんとにみいんな根っこは本当にいい人だから、切ない。

愛は売り物ではないから、あえて愛を商売にするって言うのは、やはりどこかに問題がうまれるのかも知れませんね。
だからこそ、愛と仕事を重ねる時は、うそが生まれないように努力せねばならないのだと思います。
私はただ愛を唱える人だけにはなりたくないのかも知れません。
後悔したくない性格だから、私が他の人に思うようなことを思われない様な、どんな思いの中にも真実の見える人に、思いやりをもって、責任を大事に出来る人になれたらと憧れているんだと思います。

私はどっちかって言うと、人にだまって付いて行く方が好きだし、嘘をついても優しくいたいと思ってしまいます。
そんなエゴイズムのなかに居たので、私も昔は解りませんでしたが、喧嘩して言い合ったり、自分をわかってもらおうとか、相手を理解しようとかって、もがくって事が、今はすっごく大事だなって解ってきました。
そういうエゴって、それをめ一杯行使することで、最終的にそれぞれのエゴを取り払ってく為にあるのかもしれないなーって思ったり。
逆に「善」もまたエゴだよねーと想ったりね。
実際ですね、相方とは繰り返しいろんな事でお互いを主張しては激しくぶつかったりもしてきましたが(笑)、どういうわけかわだかまりは残ってないんです。
たぶん、お互いそうなんですね。
たぶん、バーンとぶつけ合うことで相手の何かを観ることが出来て、受け取れるようになるんでしょうね。
そうやって真面目にぶつかった後は、なぜだか理解が残るし、新たなものが生まれる気がしていますから、そうなんだと思います。
だから、どんだけ揉めたって嫌いにならないし、好きも大事な気持ちもまったく減らないのです。
それは、お互いがその場において自分にも相手にも嘘をつかないからなんじゃないかと思っています。
だから、いろいろ会ったとしても、いつも今日を覗いてみるとものすごく幸せだったりする。
それは何より幸せなことだと思います。
私たちは悲しい嘘をついてまで幸せを演出しなくてもいい。
それはほーんとに幸せだー。

このように私はいま恵まれて時間をたくさん頂いて、私を導く大いなるチカラとたくさんの会話をさせてもらっているのだと感じています。
いろんな考えが浮かび、今まで体験した現実世界でのこと、霊的経験によるもの、点と線が繋がったり、色が付いて無であった空間に何かが生まれたりしています。
だから私は、この生まれ来る経験や感情を何一つ無視せずに、ココロに湧き起こることのかけらを大切にしたいと思っているんです。
結局そうすることによって悩みもするし、考えもしますが、そうやって時には過敏になって本当の美を自分の心が追い求めるからこそ、相手も気がつかない細かい嘘にも気がつくようになるんじゃないでしょうか。
そして善や悪や美しさ、愛や真実にただあこがれて唱えているのとは違うという、しっかりした感覚が自分の中ではっきりと生まれてくるのかも知れません。
人間って存在として、おおいなる存在を見上げたり、小さなものに囚われたり、考えたり、愛だけに固執してみたり、最近はどれも素敵なことだと思えます。
他人から見れば、マトモや愛からかけ離れているように見えることもあるかもしれませんが、私は自分に直接与えられる大事な事に心を向けて行きたいなーと思ってます。
特にもうしばらくは。学びの時です(^^)

ちょうどそんな事を考えていた矢先のJDS訪問。
本当に久しぶりに、素直に人間的で、そして正直で優しい人たちに会った気がします。
嘘のない笑顔に出会った気がする。
笑顔やコトバを受け取るのに迷いがいらないこの感覚のすがすがしさ。
嬉しくて吹き抜ける風が本当にさわやかに感じられました。
わたしも誰かと触れ合う時にこんな風みたいな感覚を人様に持ってもらえる人になれたら幸せだなー。
ここに遊びに来たおかげで、一つの答えを貰い、そして決心し、行動できました。
本当に出会いと言うのは大事ですね。
わたしの手仕事や、コレまでしてきたこともまた、ここでのご縁が大きくしてくれそうです(^^)
感謝、感謝です。
JDSの皆様、ありがとう御座いました。また行きますね!

JDSはダウン症を持つ人たちとその家族、支援者で作られた会だそうです。
日本は裕福な国ではありますが、福祉の存在そのものに距離感がある気がします。
少しずつお互いが歩み寄って、理解を深め合っていけたらいいなあ、と思いました。
どんな障碍を持つお子さんにも、そして大きな方にも、もっと多くの支援が必要ですよね。
お金というわけでなく、たくさんの方の愛と思いやりによって、お互いが共生していけるステキな環境つくりとしての生活支援をしていけたら善いですね。
是非皆様、JDSへのご支援を宜しくお願い致します。

日々の出会いと気づきにココロから感謝しつつ。

ココロのジレンマと7つの思いやり

2009-05-21 | KOFUKU日記
ちょっと前、言葉は時に残酷で、無力だ。。。と、朝日新聞のCM「言葉のチカラ」なるものが話題になりましたが、ここんとこ「言葉」ってモノについてよく考えさせられることがあります。
と言うか、私はよくしゃべりますが、だからと言って「よく話せる」わけではありません。
人様とはすぐに仲良くなれますが、会話は超苦手です。特に自分の大切な事をしゃべることにかけては。
話すのは難しい上に恐怖感が伴います。
だからその恐怖感を回避する為に会話ないならないように一方的にしゃべっちゃったりします。
なぜ恐怖感が伴うかといいますと、わたくしボキャブラリィは少ない方ではないと思うのですが、真の意味でのコミュニケーション力が低いのか、伝達力に欠けるのです。
一生懸命話せば話すほど、闇にはまっちゃったり。。。つくづく「伝えるコトバを話す」ってのは難しいもんだなあ、と感じています。

ですからどちらかと言うと「書く」方が楽です。
コトバは一度口から放つと、その場で決定的な効力を持ってしまい、取り消すのは至難の業ですが、書き言葉は相手の目に届けるまでに書き直すと言う想いを巡らせる時間があるからだと思います。

でも~、やっぱり難しい、自分の思いを伝えるってのは。
会話って相手ありき、言葉を届ける人ありきだから、相手のコトバを受け止める器によっても、相手の見方によっても、その真意の伝わり具合が変ってくるからです。
出来るだけその人の事を考えながら文章を考え、理解してもらえる様に挑みますが、撃沈すること多しのアタシ(--;)
やっぱり、これは性格的に問題があるんだろうなあ。。。。と、最近は答えを出してますが…(悲しい・・)

問題点はワタシを伝えようとしてしまうところなんでしょう。
ううう、判っちゃ居るんだが、でも判って欲しいのよ、ソコは~、見たいな?(^。^;)
一番伝わらないのは、相手の意思とこちらの意志が違うものである場合です。
私は人が全員違うように、モノの考え方も感覚も違っていて当たりまえだと思ってますので、相手が自分と違う感覚を押し出してきても「ダメじゃん」とか「間違ってる」とかは思わないんです。
「うーん、アタシはやんない」とか「それはアタシには無理」と言う感覚ってだけの話です。
相手が自分が違うと思ったものを選ぶことを否定したりはしません。
それは相手しか選べない事だと思うからです。
そして、それを選んだ相手をそのまま受け入れたいと思う。
ただし、相手のしていることが自分の信念と違えば、ソコははっきり自分の考えを伝えて置きたいと思うんです。
お互いにとって、違うことを認めあうことはとっても大事なことだと感じているからなんですが。

けれど、大体8,9割の人は、違う意見を持っている、と伝えると「自分を否定された」と思ってしまうようなんです。
特に相手にこちらに対する善意があった場合は「自分の意志のせいで迷惑をかけた」とか「気分を害してしまって悪かった」とか謝られたり・・・・。
謝られても~(^^; ってか、なんで謝るの~。
私、責めてないし、否定もしてない。自分は違う意識もってるんですと言ってるだけだよぉ。
「そうじゃないんです~、ソレとコレは別なんですよー」、と説明してみても理解得られず。。。。
そして白髪が増えていく。。。
(私は悩むと鏡を見ているうちに髪がどんどん白髪に変色していくんです。化学実験してるみたひ・・・
気分は逃亡中のマリー・アントワネット・・・)
果てには、あなたがワタシを信じてたら同じことが出来るはずだ、信じてるとかいって出来ないのは信じてないから、とか真剣に言う人もおっしゃる。
そんなこと言ってたら世の中、自分と違う意識を持ってる人はみんな敵じゃないですか・・・
違うって事は罪になっちゃうじゃないですか・・・
肌の色も、コトバも、環境も、違うだけで戦争になっちゃうよ。。。
ああ、このままでは世界平和はこない(極端だってーー;)、、とシミジミしちゃったり。

って言うかね、いろいろ聞くとね、話をしてるお互いの相手の事を全然思いやってないコトバがドンどこ投げつけられるわけですよ。私にじゃないんですけど。
私は何よりもソレが苦手なんです。その相手を認めないって意識のボールが飛び交ってるのが。

まあまあ、私も自我の強い人間で、数年前までは本当に自分の世界観しか信じられなかったし、見えなかった。
だから人には言えないんだけど、大体そういう深い話をする人って言うのは信頼している大事なひとだから、誤解をされる事はかなり悲しいし、凹むのです・・・

今も私は頑固で短気ですが、本当にコレはほっといてはいけないって事以外の闘争心はかなり薄れてきた気がするんです。
もともとそうだったのだけど、生きていくには自分に嘘をついてでも恐れに強くいなければならない時期がありました。
が、それがなくなった時、私が一番怖かったのは「人の思い」でした。
わたしの持病のPTSDに伴うパニック症の原因は一般的な閉所恐怖とかではなく、人の特にマイナスな感情の波動を感じるからです。
マイナスの波動と言うのは、決して怒りとかだけで起こるものではないんです。
その人が善意を持っていても、相手を軽んじる意識があれば優越感となり、その波動は起こります。
私はそれを感じるのが、とても苦手なのです。特に争ってたりする波動を感じたら失神したり。
その頃は私にとって、外は戦場となんら変りませんでした。

そんなこと言ったら街歩けないじゃん、と言われそうですが、ええ、そうなの。
以前は全くあるけませんでした、街なんて。
そりゃ、もう見事に、撃沈でした(笑)
その頃に通わされたお医者さまの判断は「相当重度に心が傷ついておられるので、最低3年は仕事しないでくださいねー、無理すると死んじゃいますよぉ」と笑顔で(笑)
そしてヒッキー8ヶ月。
出かけたくても、恐怖と緊張から玄関で倒れてることもしばしばありました。

そんな私が何故、またこうして街を歩けるようになったのか。
これはあくまでも私に限ったことですが、私自身のココロに一つの学びがあったからです。

この数年で私が一番学んだ事は簡単に言うと、
「わたしの絶対は、誰かの絶対ではない」
「善悪は必ずしも分けられない」という事、
「光があって、闇があり、表があって、裏がある。それら二つが一つ」
「あなたはワタシ、ワタシはあなた」
という様な事でした。
これらはずーっと心の中にあったのに、結局ぜんぜん理解できてなかったんですよね、私。
今もソレが理解できているかって言われたら、どうなのかなーと思いますが、一つの答えは胸の中に存在していると思います。

私は今まで、自分が決めた事は何一つ後悔をしたことがありません。
やった事を後悔するくらいなら、最初からやらない。
だから何かを決める時は、死ぬ気でどんな結果も受け入れる覚悟を決めて行動にでます。
だから、決めたことをやるって時はものすごいパワーと信念をもって動いていると思うんです。
それは今も変りませんが、以前はそういう風に強い意志を持てるように敢えて自分を仕向けていました。
そういう風に自分を動かしている時は、何でも自分の意志とか感覚ってモノが最優先でした。
人間だから当たりまえでもあるのだけど、自分のフィルターを通してしか人も物事も見ていなかった。
だから自分と違うものは、全部間違っているように思えたし、自分は間違っていないと頑なに信じることが重要だと思っていました。
でもソレは変りました。

今も同じく、自分と言うフィルターを通して、モノを見、考えます。
ですが以前と大きく違うのは、目の前にあるものが必ずしも正しい姿ではない、ととらえるようになったことです。
「裏がある」と考えたりするのではなく、今、目の前に置かれている「結果」はどうしてそうなったのだろうか?と少なくとも想像できるようになったのです。
時には、まったくの悪に見えても、ソレが善から生まれたものであることもあります。
昔は「悪」の部分しか感じなかったので、間違っている所を責める一方でした。
わたしの絶対は宇宙の絶対だったのです。

けれども、いま大事にしている事は、間違っていると判断される事は確かに正すことが必要だけれど、ソレよりもその奥にあるその結果を生んだ理由を理解しようと勤めることだと思うようになりました。
例えば凄惨な殺人事件があり、人が殺されたとして、犯人が咎められるのは必定です。
けれども、もしその殺人に至る理由が、同じように家族を殺害された哀しみからであったなら、その悲しみの部分を手に取りたい、と思うようになりました。
それは、その犯人を許すこととは違うんです。でも、その人の悲しみを分かち合うことではあると思う。
分かち合うことで、その重みが軽くなっていくのではないか?
そうなれば、次にそういう事はなくなるのではないか?と感じるようになったわけです。
そして、ソレが全ての事に当てはまるといいなあ、と思うようになりました。
人も物事も光と闇の部分があってこそ一つなのだ、と思うようになったのです。

同じように、悲しみや苦しみの中から善なることを学ぶこともあると解りました。
悲しみは悲しみだけではないのだと。
暗闇は闇だけで出来ているわけでなく、光で織り成されているのだと。
それらは別れや死、たくさんの困難を通して感じたことです。

そして何より、その時々で目の前に立つ人に学んで来たのだと思います。
目の前に立つ人々は必ずしも自分に優しい人間ではありません。
時には本当に憎しみの対象ともあるときもあります。
けれど、そこにいるのは間違いなく、いつも「ワタシ」自身でした。
人は映し鏡となって目の前に立つのだ、と理解できるようになったのです。

シュタイナー学校にいた時、教師は子ども達にトラブルが起こると、何でこんなことするの?と言う前に「ワタシはこの子に対してどうだったのだろう?わたしの何がこの問題を起こしたのだろう?」と自分と向き合います。
そして、まずは自分を変えるのです。そうすると、子どもたちが変ってゆく。
この結果から、全ては繋がっていて、「どの人も私である」という事の証明に感じられました。
そうした神秘的とも言える経験が今の私を生んだのかもしれません。

同じように、この事から何かトラブルが起きたときは、自分にも、相手にも理由があるんだなと解ったんです。
噂しかり、中傷しかり。
世の中にはクレーマーと言う人もいるんでしょうが、普通に考えて、何もないのに文句を言う人はいませんよね?
何かがあるから、あったから、なにかの感情が生まれる訳です。
その理由を受け止める事で相手ならず、自分も理解することになるんだなあ、と。

だからこそ疑うことも大事なのだと知りました。
善意は時々、その疑いを見えなくしてしまいます。
善なる意志をもつ事は、ある意味で「楽」でもあるからです。
人はみーんないい人で、信じてあげれば、嫌な思いもしないし、そう思った人には悪い事は起こらない。
疑う事は心に痛いことです。信じられるまでは嫌な思いもします。
けれど、疑う事は相手をじっくり見つめる事でもあるし、自分を探ることでもある。
そして培った信頼はその分固く結ばれてほどけることがないのだ、とも解りました。
だから、それぞれの道を応援できるようになったんだな、と思います。
いろいろな考え方や生き方と言うものが、それぞれにとってとても大事だとわかりました。
だからこそ、自分にも大切なんだという事が。
でも、それは自分が相手の意見をそのままやる、と言うのとは違いますよね。
だから、ワタシは自分の意見をしっかりと伝えたい。自分の大事にしているものを。
人とちゃんと関わって、相手も自分も大切に生きて居たいからです。
相手の事を心底、愛したいからです。
それを伝える事は、自分を伝えることであって、相手の批判や差別では決してないのです。
それで、自分はこう思う、だけれどもあなたの意見もとても大事だし、選んだ人が育てて行けば善いと思う、とお話したくなるわけです。
が~~~、最初の部分に戻って、それがなかなか難しいので、時々凹んじゃったりするのでした。


最近は特にいろいろあったので、いろんな事を考えますが、よく話題にしているように、自分にとっての「富」と言うものをに付いてよく考えます。
安心とか不安とか、生きるとか、生活とか色々考えます。
やっぱり、今、一番に思いつく事は、「こころある暮らし」をしていきたいという事。
お金がなくちゃ出来ないことも一杯ある。
けれど、お金がなくても出来ることを、しないで生きていく人の方が多い世の中。
だったらワタシは今、この瞬間に出来る事をやっていける人になりたいと、今は強く思うのでした。
たくさんの人に出会いましたが、わたしの尊敬する人々は、心の豊かな人たちです。
そして、お金があろうとなかろうと、どの人も今の瞬間が平安に満ちています。
ワタシもそうでありたいなあと願っています。
そして少しでも、なにかのお役にたってこの世を去りたい。


さて、そんな真性ボンビーなワタシが一体何が出来るのか?
以前教えていただいた事を皆さんにシェアします。
仏教の教えに地位や財産がなくても、誰もがいつでも容易にできる布施の行,というものがあるそうです。
「無財の七施」といわれるものです。

1 眼 施 がんせ      
慈眼施ともいい、慈しみに満ちた優しいまなざしで、すべてに接することをいいます。温かい心は、自らの目を通して相手に伝わるのです。

2 和顔施 わげんせ     
和顔悦色施ともいいます.いつもなごやかで穏やかな顔つきで人や物に接する行為です。喜びを素直に顔の表情にあらわしましょう。

3 愛語施 あいごせ     
言辞施(ごんじせ)の別称もあります。文字通り優しい言葉、思いやりのある態度で言葉を交わす行ないをいいます。

4 身 施 しんせ      
捨身施ともいいます。自分の身体で奉仕をすること。
身体で示すことをさし自ら進んで他のために尽くす気持ちが大切です。

5 心 施 しんせ      
心慮施。他のために心をくばり、心底から共に喜び共に悲しむことができ,他の痛みや苦しみを自らのものとして感じ取れる心持ち。

6 牀座施 しょうざせ    
たとえば自分が疲れていても電車の中で喜んで席を譲る行為。また競争相手にさえも自分の地位を譲って悔いなく過ごせることをいいます。

7 房舎施 ぼうしゃせ    
風や雨露をしのぐ所を与えること。自分が半身濡れながらも、相手に雨がかからないように傘を差し掛ける思いやりの行為など。


いかがでしょう?これの一つくらいは皆さんも頑張っちゃえるんじゃないでしょーか?(^^)
ワタシもせめてこのブログの中で愛語を語って行きたいモノです。

ちなみに、この七施を教えてくださった人はカトリックのシスターなんですよ。
魂に優しい生き方に壁はないんですね。
国境も人種も何もかも、分けられていることが喜びとなるように、思いやっていけたらと思います。

ベビーシッター中(^^)

2009-05-20 | KOFUKU日記
原宿閉店から3ヶ月、毎日お家にいるおかげで、ここに住んで4年、やっとご近所様とも仲良く出来るようになってきた今日この頃(^^;)
数件隣のお友達がインドに行ってるので、ミニチュアシュナウザーの愛犬ナナちゃん2ヶ月のベビーシッター中。
なぜかぴーちゃんとその相棒のお兄ちゃんも一緒にナナちゃんのお世話中(笑)
いやいや、やっぱり赤ちゃんは可愛いー♪

人間の赤ちゃんでも、動物の赤ちゃんでも、見ていると本当に深い叡智を感じることがある。
例えば、委ねることや、任せるって事は受け入れるってことなんだなあ、とか。
本当に受け入れてるって事は、相手を信じるって以前に、疑いがないってことだなあ、とか。
無垢な魂は、無垢である事の大切な事を教えてくれる。
そんな深い叡智の源から生まれくる笑顔は本当に愛らしい。
そんな笑顔を見つめつつ、人間は考える葦であるからにして(笑)考えずには居られない訳だけど、時には魂の奥っかわにある、本当に本能から生まれ来るシンプルな思いに目を向けることも大事だな、と。
そこに大事な秘密があるような気がしてならないなあ、とか。

先日、この歴史的にも稀な不況の中でこれから大事なのは人間力です、とある経済評論家の方が言っておられました。
これからはどんどん職もなくなり、お金の感覚が変ってくる、と考えられる。
お金を持っていれば安心の時代はもう終わりを継げている。
それはお金おと言うものを基準にした、この世界の名だたるものが破綻して、なんの意味も成さなくなったことで良く解るでしょう、と。

では不況の時代に生きていく上で一番大事なものは何か?
不況の先には必要なもの。それは人間関係だ、と。
これからはお金を持っていても使えないような時代がやってくる。
その時に大切なのは、その手に幾らお金をもっているかではなく、どれだけその手を人とつなぐことが出来るかだ、と。
だから不況だと慌ててお金お金と騒ぐ前に、もっと人との愛を育みなさい。
人は極限に立った時、お金で動くのではありません、愛によって動かされるのです。
ましてやお金が意味を成さない時代になったら?
だから愛を育ててください。それが本当の意味で富を産むのです、と。

まあ、考え方は色々ありますが、私は何人かの、今後の社会情勢を考えた意見の中では、この意見が一番納得できました。
赤ちゃんや動物と言う無垢な魂を抱いていると、何がいい世界なんだろうと自然と考えます。
この子を幸せにしてあげたい、と思うからでしょう。
じゃあ、何がこの子は一番幸せ?と考えてみました。
そうしたら、自然とぎゅっと抱きしめていました。
腕に抱いた子はあたたかく、あまい香りがしました。
顔をみると嬉しそうにきらきらのお目めが見つめています。
ああ、可愛いなー、って。
幸せと言うのは、愛というのはそういったものなんじゃないかな、と感じた瞬間でした。
確かにこういった人間の奥深い部分を動かすものは、お金では決して買えないし、贖えないものなのかも知れません。

これから先の道、何が大事かを自分の胸の方向指示器にしっかりと手を当てて、あたたかく優しい思いが満たされる方に歩んで行きたいなと思います。

新しい出会いの幸せ~虹の架け橋

2009-05-18 | KOFUKU日記
会うは別れのはじめなり、なんて言いますが、反対を取ってみれば、「サヨウナラ」はまた会う日までの「コンニチワ」だったりするわけです。
もちろん、「コンニチワ」の中には「はじめまして」も含まれるわけですね。
まぁこの年まで生きてますから、友は少なし、、、とは言え、たくさんのコンニチワもサヨウナラも経験してきましたわけで~。
特にこの15年ほどは特に大きな出会いと別れの繰り返しが、まるで寄せる大きな波のように何度も私を飲み込んでいた気がします。
その姿こそが、わたしの人生の真実を表しているのかも知れません(^^;)

さて、最近も類にもれず、一つの終焉を迎え、新たな始まりに向けての日々を送っているワタシ。
今回経験したサヨウナラは、また今までとは違った「コンニチワ」に私を導いてくれた様です。
6年前もこんな大きな波がありましたが、その後の6年間で培ってきたものから考えると、自分でも想像し得なかった新しい出会いや経験が生まれている、この不思議のなせる業に驚いております。
ホント、生きていると面白いナァ、いろんな人が居て、いろんな生き方があるもんだナァ、って。。。
いろんな人のいろんな思いがあって、それら全てに意味があってと想うと感慨深いです(シミジミ・・・)


最近、石田さんという新しいステキな女性のお友達が出来まして、ご縁あってその方のNPO活動のお手伝いをさせて頂けることになりました。
とても感謝すべき、嬉しい出来事です。

もちろん、私は皆様もご存知の通り、自分の大事にしたい世界があるので、それを一番に優先して生きていくのでしょうが、その人生を生きていく中で、こうして頂いたご縁を大切に育てていく事はとても大事なことだと考えています。
ただ、一番に優先できないのであれば、分をわきまえた所でお手伝いをさせて頂きたいと考えています。
はっきり行っちゃうと本当に微々たるサポートしかできないのですが、お家で内職仕事したり、無理をしない範囲で世界と関わらせて頂ける事は本当にありがたいことです。

さて、この石田昌子(仁科友希)さんのやってらっしゃる活動はどんなことをなさっておられるかご説明しましょう。

石田さんの団体は「Ecocap World~エコキャップを世界に広げる会」といいます。
その中でCOHAS HOUSEと言うのもやってらっしゃいます。
以下はHPからの抜粋文

自然に優しく 
人に優しく・・・

私たちEcocapWorldは、
COHAS(Communication Of Health And Sustainability)

~地球環境保護と健康な生活を最優先し、
 人類と地球が共栄共存できる持続可能なコミュニケーション~

を提案致します。


と言う事で、とても真剣に前向きなエコ活動、NPO事業を行ってらっしゃいます。
エコキャップを集めて発展途上国の子ども達にワクチンをと言うだけではなく、国内のスペシャルニーズの子ども達やDVに関する活動も行われています。
オーガニックコットンのご紹介をしたり、箱根などの街の活性化に協力したり、今後は動物に関することも拡げて行きたいと頑張っておられます。

ワタシがなぜお手伝いできる事はしたいなあ~と思ったのか?と言いますと、彼女と初めて会った時、「あ、同じ星から来てるわ」(笑)と思ったことと、彼女の会話の中で「本当はエコキャップ自体がなくなっていく環境になったらいいと思う」という言葉があった事。
そして、快く「出来る範囲だけで良いんですよ」と言ってくださったこと、がありました。

ともすれば、こういった活動は設立する人が志を高くもって行うばかりに、周りに集う人にも魂預けないといけないみたいな風潮になりがちですよね。
正直、こういった活動に一生懸命になりやすい人と出会う機会が多いワタシは、周りに志が高いばかりに掲げた信念に縛られて、人の生き方にまで土足で踏み荒らすのが当たりまえ、相手も縛ってしまう。
知らない間に信念は創立者の嗜好の左右された視野の狭い意見に成り下がり、言葉は脅迫に。
挙句の果てには創立者の信念と参加者の想念の違いで内部分裂、もうボロボロ、、、なーんて本末転倒な結果を結構目の当たりにしてまいりました。
正直、団体ってモノは危険をはらむものです。
だからこそ、愛と思いやりと信頼が本当に大事になる。

常日頃、本当に世界に広げたいと思うなら「誰でも行える事」「気軽であること」であることが大事な事なんじゃないか?と考えているアタクシは、なかなかこういった団体へアシを踏み入れる勇気をもてませんでしたが、石田さんの「ほんとに出来ることだけ、出来る範囲でやってくれたらいいんです」という言葉と彼女の魅力に惹かれて仲間に入れてもらうことにしたのでした(^^)

このステキなお嬢さん、明るくて元気な石田さんは仁科友希さんと言うお名前で女優さんやラジオのパーソナリティなどもやってらっしゃる方でもあります。
ワタシから見ていますと、頭もよく、何より自分の中に熱い信念をもって居られ、そこに真っ直ぐです。
本当の意味でピュアな想いをお持ちの方に思えます。
そして、そのパッションが熱いがゆえに、ある種のカリスマ性を発します。
それはリーダーの資質が素晴らしいってことなのでしょう。
まだお若いのでいろいろな思いがこれから変化もしていかれると思いますし、人間的にももっともっと成長して行かれると思いますから、本当に楽しみな方です。

頭が良い方なので事業展開にしても、本当にご自分の活動に身を入れてやることの出来るブレイン的仲間が絶対的に必要で、かつ世界を形成している私たちのような「気軽な感覚」の仲間たちと良いバランスを保つことが、成功と世界への貢献に繋がっていくことを早いうちに学ばれていくんだろうなーと感じました。

仕事をする度にいつも思いますが、お互いが絶対的な信頼を持てる仲間を得る事は何よりも大事です。
人に恵まれるって事はまさしく成功の鍵です。
信念がある事柄ほど影となり、本体となり、お互いが歩んでいける人が中心に居ないと物事はスムーズに進まないものですし。
つまりどれだけ真剣に、中心に関わる人が仕事に愛を持てるかですよね。
特にミッションの中で経済を動かす人が、どれだけ設立者の考えを理解し、関わる人を思いやれるかによって、現実が大きく変ってきますよね。
わたしはここんとこ、そこにいた人に恵まれませんでした。
そこに関わる人が、どれだけやってる事を愛せるか、ほんっとに重要です。
ステキな団体さんであればあるほど、その様な素晴らしい人たちに恵まれることを祈りたいです。
石田さんの情熱に触れるたびに、その様にステキな事業となるべく願ってやみません。
彼女にはたくさんのステキな仲間たちがいるようでぜんぜん安心なんですけどね(^^)

昨日はその石田さんのお仲間、副代表の吉田さんとも仲良くなれました。
ほんと出会いって嬉し楽し~ですね~。
吉田さんはワンちゃんが大好きな優しい頭の良いステキな方で、箱根宮ノ下で「ギャルリー蔵」、と言うアンティークショップを経営していらっしゃいます。
あのステキな富士屋ホテルさんのすぐ近くの、これまたステキな西洋アンティークのお店です。
皆様、ぜひ箱根に足をお運びの際はお立ち寄り下さいませ(ぺこり)


いやー、不思議なんですよね。
実は4月にある場所でエコキャップのチラシを発見、これはやる価値があるなあと思ってたので、無理を言ってチラシを貰ってきたらこの出会い。
そして、この数ヶ月の間で2回くらい箱根を通りすがり、毎回入りたいナーと思っていたアンティークショップの店長さんと出会いました(^^)
出会いの不思議さに感銘受けうけ中です。
きっとこれは何らかの歯車がぐーっと動いてきてるんだろうなー。
うーん、面白い!!
皆様もぜひこれを読んでくださった機会にエコキャップ活動なんてのもあるのね~と考えてもらえたら嬉しいです!


最近、自分の事をよく考える様になったからなんですが、自分が昔とは随分違うなーって思います。
今まで年月のことや、年齢のことって殆ど考えたことがなかったんですが。
石田さんはわたしの若い頃見たいって思って、ああ、ワタシも時間を越えてきたんだなあって思いました。

大きな変化の一部を話すと、これはあくまでも私の中の感覚の問題なのですが。
今も思い立ったら吉日みたいな人間ですが、昔はもっといろんな使命感と言うか、自分が何かをすることで、人も物も「変えられる」意識が強かった気がします。
だから「助けたい」とか「変って欲しい」とか本当に真剣に思ってたし。
ところが、この数年、特に「あたしの力でこの人を何とかしよう」って言うような感覚はどんどんなくなってきたんです。
なんというか、人は人を裁けないって言うか、ワタシが変えようと思うものではないなーって強く感じるんですね。
相手がどうでもいいって訳ではないんですよ。
でもワタシがこの人を癒してあげる、とか助けてあげる、ってのは違うんだな、って。
たぶん、そう考えているうちは誰も助けてあげられないんだなーって。
上手くいえないんですが、たぶん、これは皆に当てはまるわけじゃなくて、ワタシはそうなんだな、ってね。
エゴって言うんですかね、そはそれであって全然良いと思うんですが。
ただ、やっている事柄が私の意志を通すと言う欲を満たすために働いてるものなのか、本当に相手の感覚まで思いやって、相手に必要なものなのかって様な事を大事とするようになりましたね。
昔だったら、こんな活動に参加したら、自分が先陣切っちゃうくらい、良かれと想って、自分の意見をガンガン言っていたのかも知れませんが、今はそれより見守ってて、疲れたらおにぎり作ったり、ほころび縫ったり、そんな仕事がしたくなりました。
きっと「正解」ってことが一つではない、まして自分の意見の中だけでは成立しない、と理解できてきたからなのかもしれません。
だからこそ、風の様でいたいと思うし、光のようでいたいとおもうし、雨の様にいたいと思うし。
今は出来るだけ受け止めて、そして自分の出来る事を大切に事を成していけたら良いと思う。
ワタシはこれからの人生、金字塔を建てるよりも、自分が信じられるものの間にかかる「架け橋」であれればと願っています。

人間って変れば変るのね、見たいな。
(いや、変ってんだかどうだかは不明、それも良い方向に変っているのかはもーっと不明^^;)

でも、どんなことにも意味があるとするならば、新しい出会いとは幸せの種である事は間違いありません。
大事に育てたいと想う、今日この頃なのでした。




アルタバルの真珠

2009-05-17 | KOFUKU日記
早いもので五月ももう半ばを過ぎました。
お昼と夜の温度差に風邪やインフルエンザが流行っているようです。
お知り合いの方が住まわれる地域で豚インフルが発生した模様。
地域の皆様が心も身体も早い回復をなされることをお祈りいたします。
皆さんもどうぞお体にはお気をつけください。

本題に入る前にエールを一つ贈りたいです。
子ライオンになるべくオーディションに立ち向かう小さいお友達「王子くん」と、同じく頑張る、そして頑張ってきた仲間たちに舞台の神様の愛が降り注ぎますように


昨日、どういうわけかたくさんの方からメールを貰いました。
そして、なぜかどのメールにもブログのことが・・・(^^;)
わたしの超毒舌あーんど超自己中発言集「なんとか生きてます・お知らせブログ(笑)」も多くの方が気に留めてくださっている様でとても嬉しく思いました。
改めまして、この場にご訪問くださっている皆様に心から感謝申し上げます。
ありがとう御座います~。
頂いたメールを読みながら、ああ、こんな風に文字や言葉を交わせるっていいなあ、と。
ここんとこ愛や友情や信頼のあり方なんてのを考えたりしていましたが、メール読みつつ、それこそ信頼や思いやりがあればこそ成り立つものなのだなあ、と感じました。
ありがとうございます。感謝。

さて、その様に人の関わり方や、思いや、嗜好、生き方と言うものは、時に自分だけでなく、周りにも大きな影響を及ぼすものですね。
私はたぶん、自閉症に近い精神の幼少~青年期を送ったせいなのか、ひとり内側でいろいろな想いを巡らせるのが好きです。
23歳くらいまで人様とも殆ど関わらず、会話もしなかったので、しゃべるよりも文字で書くほうが、想いを素直に表現できるのです。
そのせいか、目や耳、感触、人間の持つべき感覚をすべて使って感じることに感銘を受けやすく、同じことで伝えようとするようです。
言葉や色なども音色や視覚から、意味を感じたり考えたりします。
こんなですから、心と体全部を使わなくては出来ない役者と言う職業を選び、また物書きやプロデュースをやっているんだと思います。

創作的な仕事をしていると、そこに現れるものに、自分の内面を見ることがしばしばです。
これは人間関係も同じですね。目の前にいる人に、今の自分が現れます。
向かい合う人は間違いなく、自分の映し鏡なのでしょう。
そうして、いろいろな経験を繰り返し、いろいろとやってるうちに、好きとか嫌いとかが見えてきた気がします。

このところならず、ずっとブログでも呟いているように、私は「善なる」感覚に強く惹かれてます。
という事は、自分自身はそうじゃないってことなんですがぁ(^。^;)
音楽も、文学も、芸術も、そして演劇も、絵画も、映画も、何もかもにそれは影響しています。
そういった感覚の中で生まれた、私が特に好きなものを今日はご紹介したいと思います。

女性は光物(宝石)が好きと言われますが、私は特にジュエリーには興味ないのですが、石(パワーストーン)や自然界の美しい産物には深い興味があります。
中でも好きなものをあげろと言われたら、間違いなく「真珠」と言うでしょう。

これはブログでも幾度か書きましたが、なぜ真珠が好きなのか?
もちろん見た目もとても美しいのですが、その出来あがっていく過程が何よりも美しいと感じるからなんです。

真珠は貝の中に入り込んだ異物が時を経てカタチを変えたもの。
ある日、貝の柔らかな身体のなかに、何か傷つけるものが入り込みます。
けれど貝はそれを吐き出さず、身体の中に傷ごと受け入れます。
そして自分の体内を流れるもので幾重にも包み込み、
ある日、その「異物」はそれはそれは美しい柔らかな「宝石」となるのです。
相手から付けられた傷を宝石にする過程は、傷つけられた魂を自ら浄化する作業にも似て美しいものだと感じます。
だから、私は真珠が好きなのです。

この「真珠」にまつわる、わたしの大好きな一つの伝説があります。
クリスマスになると、東方から来た3人の王(賢者)の話をよく耳にされると思いますが、あのイエス様に贈り物を捧げた賢者達です。
この賢者は3人と言われていますが、実は4人だったと言う話があるのです。
私はこの真珠にまつわる話が好きで、元の話をベースに脚色しお芝居にも書いた事があります。
その中から、あらすじをご紹介したいと思います。

4人目の賢者の名前を「アルタバル」と言いました。
アルタバルはある大きな町一番の権力者で医師であったと伝えられています。
彼は生まれ来る救い主の話を聞き、彼に逢って捧げものをしようと、「せっかくの財産を勿体無い」と皆が止めるのも聞かずに、彼は迷わず生まれ来る救い主の為に全財産全てを真珠に変え、持ちうるすべての名声を棄て、東に輝く大きな星に導かれ旅立ちます。

ところがアルタバルは旅行く先々で様々な苦しみに逢う人に出会います。
彼はその人々をほおっておくことが出来ず、「救い主よ、お許しください」と祈りながら、持っていた真珠をお金に買えたり、食べ物に換えたりして、その人々を助けます。
そしてとうとう真珠は全てなくなり、気がつけば彼は苦しむ人々を救う為に時間を使い、三十年以上が過ぎていました。

今や、貧しい余命僅かな一人の老人となったアルタバル。
自分自身が貧しい身の上になっても、キリストへの弾圧から人々にさげすまれようとも、彼は周りのものを助け続けました。
ただ心の中にはいつも、人を救う為とは言え、贈り物を漬かってしまい。キリストに捧げることが出来なかった救い主への後悔の気持ちがありました。

ある日、もう長い命ではないアルタバルの耳に入ってきたのは、救い主イエスがゴルゴダの丘で処刑されると言う話。
アルタバルは最後の力を振り絞って、十字架を背負い歩くキリストに逢いに行くのです。

今や囚人となって追われ、傷だらけとなり、十字架を背負い歩くイエス・キリスト。
アルタバルはその姿を見るや、キリストを侮蔑する周りの人にも恐れず、キリストの前に進み出ます。
そしてひざまずくとキリストに言いました。

「我が主よ。どうか私をお許しください。
私はあなたがお生まれになった時、贈り物を捧げようとあなたの元に旅立ちました。
けれど、あなたのものであった贈り物を、私は全て使ってしまいました。
今はもう捧げるものは何一つありませんが、この世の最後にあなたにお会いしてお詫びしたかったのです。」

すると、イエス・キリストが笑顔を浮かべながら口をひらきました。

「アルタバル、お前がこれまでの人生の間、貧しく苦しい小さなものにしてきた事は、全てこの私にしてくれたのだ。
お前の真珠の一粒一粒は、お前が誰かの為に使うたびに愛という名の宝石に変ったのだ。
私は間違いなく、お前の心からの贈り物を受け取ったのだよ。
美しい贈り物をありがとう。」

アルタバルがその言葉に顔をあげてイエス・キリストを見ると、傷だらけだった彼が光り輝き、アルタバルが捧げた真珠を身にまとっておられるのがアルタバルには解った。

アルタバルはまもなくこの世での生を終えたが、その顔は輝く真珠のように優しく美しい喜びに満ちていた。
と、言うお話です。


私はアルタバル自身が真珠となったこのお話がとても好きです。
そして、私もまたそうでありたいと思う。
いや、願っている、と言うのが本当かな。

人は傷つくものです。
個々の感情を持つがゆえに、どんな人も傷つけるし、傷つけられる。
それが人間。
けれど、この傷を癒すのもまた、その感情ある人であればこそ。
アルタバルは時間をかけて、我が身の傷を美しい宝石に変えた。
その努力も、苦しい想いも、並々ならぬものがあったのだと思います。
けれど、美しい真珠に変えた彼には、その傷も痛みもありませんでした。

私もこの世での生を終わる時、願わくばアルタバルのようでありたいと思っています。
自分の行う一つ一つの出来事を愛というものに変え、自分の中の憎しみも悲しみも苦しみも美しい真珠に変えて生きる人生を歩みたい。

大きな事も素晴らしいけれど、小さなことこそを忘れずに。

マザー・テレサが言うように、何をどれだけしたかでなく、どれだけ心をこめたかを大切に。

生きているこの瞬間こそが過去と現在と未来をつなぐのだからこそ、いま私に出来ることを大切に。

こうしてモノを考え、感情を持ち、人として人や自然と関わり生きていくように生まれてきたならば、それをありがたく受け止めて、精一杯、悩み、考え、自分と常に対話しながら生きたいと願います。

アルタバルの真珠は全ての人の中に眠っている。
わたしはそう想うのです。


すべての人へ・・・捧げます
《八木重吉の詩から》

「心よ」

こころよ
ではいっておいで
しかし
またもどっておいでね
やっぱり
ここがいいのだに
こころよ
では行っておいで


「ゆるし」

神のごとくゆるしたい
ひとが投ぐるにくしみをむねにあたため
花のようになったらば神のまえにささげたい


「ねがい」

きれいな気持ちでいよう
花のような気持ちでいよう
報いをもとめまい
いちばんうつくしくなっていよう


「桃子よ」

もも子よ
おまえがぐずってしかたないとき
わたしはおまえに げんこつをくれる
だが 桃子
お父さんの命が要るときがあったら
いつでもおまえにあげる


「明日」(最後の7行)

ほんとうに
自分の心に
いつも大きな花をもっていたいものだ
その花は他人を憎まなければ蝕まれはしない
他人を憎めば自ずとそこだけ腐れてゆく
この花を抱いて皆ねむりにつこう