KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

「いいかげん」と「善いかげん」

2009-05-11 | KOFUKU日記
昨日は母の日でしたね。
皆様はお母さんに思いをはせられましたか?
街では花束を持った人をたくさん見かけました。

世界で一番有名なお母さんといえば、イエス様のお母様「マリア様」ではないでしょうか?
ちょうどカトリックの教えでは5月はマリア様に捧げられる月で、マリア様に捧げられる薔薇の月だそうです。

実はこのマリア様、日本とは深い関係があるんだそうですよ。
マリア様ファンのわたくしが以前調べたところ、日本という国はキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルによってマリア様に捧げられたとか。
つまり、この国はマリア様によって守られているんだそうです。
そのせいか、日本の歴史的な出来事の多くがマリア様の祝日と呼ばれる日に起こっているのだそうですよ~。
「お母さん」を大事にする、母性豊かな日本の気質とあいまって、うなずけるような気がいたしました。
私の母は遠くの地で病床に臥している上に意識が定かでないので、何かをしてあげるという事は出来ませんが、今日、明日は時間があるので、今の母に気持ちの良いものを何か用意できたらいいなあと思っています。


さてさて、この週末は仲の良い俳優さんのコンサートで恒例のお手伝いをさせて頂きました。
たくさんの素晴らしい歌を聞かせてもらい、耳にも嬉しいお手伝いでした。
また、このお手伝いをする中で、自分のこれからの人生に大きな影響を及ぼすであろう、たくさんの気付きを頂けて、本当に心にも嬉しい週末でした。
この時間をいただけた事に心から感謝したいです。

原宿の閉店からこちら、この週末に起きた出来事も含め、このところ新しい出会いと過ぎた日々に培った繋がりの方たちとの間で深く考えさせられる出来事が続いています。
たぶん、わたしの人生において、大事な事は何かを深く考え、そしてその歩みに対してしっかりとした信念を持つべき時が来ているんだと感じます。
そう心に感じたので、起こること一つ一つをしっかり考える様にしています。

出来事に対して単純に何を感じたのか、
出来事を、相手に対してどう思ったか?
私に置き換えた時、自分はどうしたいのか?

思いは色々です。
ただ、はっきりと私が「好むもの」は見えてきた気がします。
そして「嫌だなあ」と思うことも。
考え方にしても、行動にしても、何にしても。
そして、自分が信じてきたものに対してどれだけの信頼があるかも。

どうやら私は「いいかげん」でなく「善いかげん」でいたいらしい。
これは「中道」と言うのとはちょっと違う感じなんですね。
バランスと言うものは本当に大切なんだけど、わかっちゃいるけど、なんですが(笑)
私よりの気持ちよさに順ずるものです。
まあ、自分勝手で自己中ってだけなんですが~(^^;)

じゃあ「善いかげん」でいるために、私自身は何をしたくないか?
絶対したくない事は?とここのところ考えてまして。
答え、それは「嘘はつきたくない」
じゃあ、あんたの嘘ってなんなのさ?と問いますと
「全てに対して誠実でないこと」に、行き着きました。
つまり、誠実でないから「いいかげん」になると感じてる私に出会ったわけですね。

つまり私にとって「いいかげん」って言うのは単純に「中途半端」ではないんです。
「相手に対して嘘のある気持ちや行動」を意味します。
「善いかげん」ってのは、向き合う相手に対して、それはモノでもヒトでも動物や植物に対しても、誠心誠意をもって、嘘のない気持ちを捧げていられる自分のあり方なんだと解りました。

あ、お断りしておきますが、これはあくまでも自分自身の心の事なので、決して人様がどうこうとかではありません。
なんで適当にスルーしてくださりませ(^^)
つか、他の方の生き方まで、考えている余地が、度量が~~~(^^;)
もちろん、自分の心を通して、周りにいる方のあり方に疑問を持ったり、心配したりすることもありますが、これは人間が人として関係を持つときに大事なことだと思ってます。
それがなくなったら人ではありませんし、エゴがエコを産むんです・笑。
(善くわかんないけどそんな感じ?)
ってか、万一、わたしの考え方を聞いて、あたしのことだわ!とか思う人がいたら、なぜそう思うのか胸に手を当てて見られると良いのかも知れませんけれどね~。


脱線しました。
なぜ、こういう風に考える様になったかって言うと、私個人の魂が「いいかげんだよなあ」って思うことに本当によく出会ったからです。
仕事でも、人間関係でも、家族関係でも。

仕事だったら、言葉だけは立派で、人様からお金を頂いているのにも関わらず、精一杯やっていない。
手抜きをしてても、自分に都合のいい言い訳を心の中に思い浮かべて納得する。
お金を得るために「善」を利用する。
人間関係でもこの人ならいいだろうと最初から手を抜いてみたり。
家族関係でも、まず自分のやりたい事や考えを優先して、それをやる事を正当化。
でも家族はじつは不満だらけ、とか。色々ありますね。
常日頃、言葉が立派であるヒトほど、それが起きた時、嘘が露呈する。

もちろん、私自身、じゃああんた完璧なのかよ!って言われたらごめんなさいデス(><)
全てに関して「いいかげん」なところも多々あり。
なんせ「ゆるい」のが好きなものだから。
けれども私は出来るかぎり、そうしたくないって思った、と言うお話なのでした。

ゆるいって言うのは、いいかげんじゃない。
「ゆうるり」と言う意味。
「メロウ」つまり「まろい」なんである。
私は「まろいまろい時間」が好きだから。
そこには嘘なんてあって欲しくないのかもしんない。


私はこれからも「まろい」時間を大切に生きようと思っている。
だから、今はこれから何をしようかなーと考え中。
何をするにしても、たくさんの方に自分の持っているものをシェアしていくことになるんだと思うけれど、それを仕事にするならば、特に嘘はつきたくないものだと思う。

心を大事に、相手を大事に、その間に嘘がないように。
私に関わる人が、みな、ハッピーに暮らせるように。
「善いかげん」のまろい時間を作っていきたいなあ、と思っています。

だってキレイ事のほうがいいんだもん

2009-05-06 | KOFUKU日記
こどもの日でしたね。残念ながら雨。
うちのおこちゃま「ぴーちゃん」は、こどもの日のお祝いの「こいのぼりタマゴボーロ」を抱えて一日ねんねしてました。
世の中の子供たちは今日も楽しい一日をすごしたかな。。

五月五日と言うと思い出があります。
私には一回り下の弟がいるが、彼が5歳のお節句の時どうしても祝ってあげたくて、こいのぼり型のケーキを買った。
お小遣いもない極貧の我が家で、食事を賄っていた私は食費や通学費の電車代を必死にためて、買ったのだった。
こいのぼりのカタチの可愛いデコレーションケーキだった。
きっと弟は忘れていると思うけれど、私は一生嬉しそうだった、あの時の彼を忘れないと思う。

あの頃は分からなかったが、この年になってよく解る。
親の愛っていうか、家族に対して愛を持って行った事って美しい思い出になるものね。
例え自分が周りから全く愛されてないと感じる人生であったとしても、自分が誰かを、何かを心から愛した事は喜びとして残る。
それは自分の中の愛されない思いを、少しづつ満たしていくことかもしれない。
私は今、それを美しいと思い、ありがたいと感謝できる。
愛されなかった、可哀想だったと思い続けて生きるのは苦しいものだから、一瞬でもそういう喜びに浸ることが出来る私は幸せなのだろう。

仕事柄、子どもと関わることが多いせいか、お母さんたちとも関わることが多いです。
私は年老いて、さらに共働きの親代わりで年の離れた兄弟の出産の手伝いから育児までをしたし、主婦的生活も長かった。
学校でも「育児で疲れてるから」と居眠り許可してもらえてた程である(マヂ)
だから普通の主婦より、主婦歴は長いといえる。
見た目がそう見えないので、何にも知らないだろうと思われることが多いけど、そうではない。
主婦業やってると大変なことも多い。子どもがいるとなおさらだ。
だから、世のお母さん達の苦労が良くわかる。
けれど、私は主婦業がめっちゃ好きだからかも知れないが、子どもがいて大変と思った事はない。

親がものすごくクリエイティヴであったせいかもしれないが、うちの兄弟は遊ぶことが上手だった。
親も一緒に居るときはとことん遊んでくれた。
独創的に遊ぶって事はどんなことか自然に身についた。
だから遊び上手になったのだ。
親も子ども達と遊ぶのは大変だとか、どこに連れて行かなきゃいけないから大変だとか口にした事は一度もなかった。
恵まれたことだと思う。

時々、幼稚園などで働いていると、お母さんたちが「家事が大変」「結婚するとただの奥さんやお母さんになって味気ない」と話すのを耳にしていた。
さらにお休み前とかになると「わ~、困った~」いうのも良く聞いた。
子どもたちも「何して遊んだらいいの?」と聞くらしい。
だから家に居ると困るから、学童や塾やお稽古事に行かせるんだと言う。
幼稚園で働いてる時、夏休みのお預かりも親が自宅にいる子どもばっかりだった。

家が大好きだった私はなんてなんて可哀想なことだろうと思っていた。
お母さんも、子どもも。お互いが目の前に居て大変だなんて不幸だ。

子どもが居て大変なら産まなきゃ良いのに、
お母さんになってお家の仕事をするのが大変なら最初から結婚しなきゃ良いのに、
ただのお母さんでなく、妻でなく、評価されたいなら、最初からその環境を作って、それをキープしながらお母さんも妻もしっかりやり切れる人で居るべきでは?

少々過激な意見かもしれないが、当時、シュタイナーの家庭や自然一番の愛に溢れた世界から、普通の、いや、なんちゃってシュタイナー教育をやってる幼稚園にやってきたシェアメイトと私は、子どもを疎んでは、自分たちの自由を主張する親たちを見て、シュタイナーとは名ばかりで子ども達が自分らの思い通りに動かないと憤る先生達を見て悲しかった。
納得して今があるのに、その結果に対して文句言うなんておかしなことだ、と話し合っていた。

その頃のシェアメイトは幼稚園で働いていると、結婚も子供を持つことも嫌になってくるといっていた。
日本の幼稚園って子どもの夢を壊して行くところなんだなーって、、。
いや、もちろん、私たちの事は棚に上げて言ってたんだけど(^^;)

でも、親にかまってもらえない子どもはかわいそうだ。
なにかにこう書いてあった、

「親にかまわれない子どもにとっては、愛されてないのと同じ。
親がどんなに愛していると思っていても。」

子どもと接していて私もそう思う。
親がどんなに愛していると思ってても、子どもがそれを感じてなければ、子どもにとっては辛いことだ。
孤独となんら変らない。
だって、相手はこどもなんだもん。深く相手の感情まではさぐれない。

こどもの日
せめて今日くらいは全てのママたちにこどもをちょっとでもいい、構ってあげて欲しいなと雨の音を聞きながらそう思いました。


さて、唐突ですが人には心に残る言葉って言うのがあるとおもう。
役者や物書きや物事を創りだす仕事なんてやっているせいか、そんな言葉に敏感なわたし。
最近は以前と打って変わって時間があるせいなのか、はたまたここの所のいろいろな経験がそうさせるのか、いろんな人に会うたびになにやら思う性分のせいなのか、「幸せってなんだろね?」と考えることが多くなった。
もちろん、わたしにとっての幸せの定義なんだけど。

私は映画が好きで良く見るけれど、昨日、今日はお気に入りの作品を見た。
「僕の大切な友達」というフランス映画。
そしてショーン・ペンの「I am SAM」
昔の映画だけど「真夜中のカウボーイ」
大好きな映画は繰り返してみるんだけど、これらもその一本。
どれも友情や親子の愛を描いた作品になっている。
映画を見ながら自分の心を探った。

私は恵まれていろんな方と出会わせて頂いている。
昨日も書いたが政治家の方から、宗教家、スピリチュアリスト、一流俳優に歌手、本当にスローライフを実践している人、お金持ちもいれば、生活困窮者もいる。
でも、多くの知り合いが私から見ても幸せな人が多いのはステキなことだなと思う。

中にはお金を持っていても、生き方も環境も本当にかわいそうな人もいるけれど。
そういう人とは自然とご縁が薄くなってゆく気がする。
もちろん、決して人の生き方を否定する事はない。
だが、おのずと自分の好きな人生の歩み方と言うのは生まれてくるものではないだろうか?
縁が薄くなってくるのは、単純にそれが私自身の魂が相手のあり方になじめないからだと思う。
その人を嫌いになっちゃったりするからでは決してない。
どーしても、その人の生き方に笑顔で踏み込めないだけだ。
そうしてるうちに疎遠になる、というか。。。
っていうよりか~、私たちが何か助けたいと思っても、そういう人たちは私みたいな考え方の人をおのずから切っていく気がするんです。
きっと何よりもその方たちの意図に反するのでしょう、こちらの生き方が。

不思議と長い縁が続く私の知り合いはお金よりも心で生きている人が多いんです。
親友なんてシュタイナー幼稚園で担任やってますが、あなた、お給料4万円ですよ、4万円!
それでも2万円アップしたの~と喜んでいる。
彼女は普段、福祉施設の調理に行って生活を立てている。
自分に出来る事を少しづつやって行きたいといつも笑顔を忘れない、とってもステキな女性。

過疎の村で畑耕して、米と茶だけあれば生きていける、といいながら生きてる若者達もいる。
お金はなくても明日は来るさ、それなら歌っちゃえ!見たいな(笑)
今は動けなくなったおじいちゃん、おばあちゃん達の畑を譲り受けて、大事に育てている。

よくコメントくれるリッキーもスローライフ提唱者だ。
オープンした整体のお店に来てくれた、たった一人のお客さんに笑顔満載で喜べる素晴らしい友である。

相方もそうだ。
彼は「生活の為に働くこと」はしない。
夢を叶える為に生きていかなきゃいけないから働く。
すべてを自分の夢に捧げている勇気ある人だ。
夢にはすべての人を幸せにすることが含まれている。

そうかと思えば、お金は余るほど持っていても、何かと不幸な人もいる。
そういう人は少しのものも失うことをとっても怖がる。
失わないためには人の心を踏みにじることも平気だったりするが、すでにそれが悪いとも思わないのだろうな。
そういう人は恐れているから、自分が恐れなくて良い正当な理由と言うものを必ず持っている。
そして、その理由を信じようとしてる様に私には思えるときもある。
そしてお金や名声ってモノに重点を置きすぎて、今持ってるものを失っていく事にすら気がつかないんだとおもう。
そういう人は「僕の大切な友達」主人公フランソワではないが、お金や地位で友情や愛が豊かに出来ると信じている気がする。
フランソワのように良い友達が居て気がつけば良いが、たぶん、殆どの人は気がつかないのかも知れない。
だってそういう人は、そういう人しか友達に選ばない。
私たちのように、誰をも友達にしないからだ。
私はそう思うのだが。
でも、ある意味、確かにそれが一つの幸せのカタチなのかもしれないけれど。

お金も環境にも立ちはだかる壁ばかりの私ではあるが、私って人間は、結局究極の所まで行ってみてもお金だけを中心に置く生活の波には乗れない様だ。
ほんっと貧乏性って損だわね(笑)

最近、相手の為にという善なる意識を持ってビジネスする人々の集まりに行ってみて本気でそう思った。
そこに居る人たちはステキな人ばかりだったのだが・・・・。
結局、私にはどーしてもそれが善からきている考えだとは納得に至らなかったし、なじめなかった。
ミリオネアになったらそりゃあ、なんでも出来てすてきだろうとは思うが、そこに行くまでのあり方が疑問だった。
その過程で関わったみんなを幸せにしてるとは言いがたかったから。
決して、真っ直ぐに幸せを差し出しているものではなかったし。
どっちかって言ったら、賭けをさせている気がした。
賭けに勝った人はそりゃあ嬉しいし面白かろう。
勝てば良いだろうが、そうでなかった人は?と思ってしまった。
人は良い時ばかりじゃないから。

問題はその時だ。
その時にその人たちは、その相手に対してどうするのかが大事なところだと思うのだが。
けど、その現場には賭けに負けた人はいなかった。
少なくとも賭け続けている人と勝ってる人しか居なかったのだ。
まあ、その人たちに言わせれば「選んでもらうもの」だから、こないのは選んだ人の責任ってことか~と思ったけど。

ひねくれモノで斜めにモノを見ている私は、この状況って賭けに負けちゃった人の面倒を見てないって事じゃないのか?と思っちゃったんである。
だって、本当に心救われる場所なら、みんな、そこに集ってるはずと思ってしまった。教会やお寺みたいにね。

けれど、前に立って話す人は皆がみんな、ビジネスを成功させたことしか話さない。
幾ら売りました、私は誰だれの為にこれを頑張っています、とそれの繰り返しだった。
本当に相手を思ったビジネスなら、相手がこのように喜んでくれたとか、そのことによって、その人がこのようになって嬉しいとか、話すんじゃないかとおもった。

でも個人的な話の中で、「この仕事を正しく理解できない人は離れていく」的な言葉は聞いたが、皆で幸せ説を話していた彼らの中に「ここにきていない誰の為に、こうしましょう」って話をする人は一人もなかった。
それがちょっと残念だった。

まあ、彼らには彼らの信じるところがあるし、私の意見が正しいわけでもない。
私がそう思ってしまったってだけなんだけど。

それよりも今の私には親友たちのような生き方のほうがステキに思える。
なぜなら、そういう人たちはとても自分の生き方に責任を持っているし、何より勇気を持って潔い生き方をしている。
自分の人生と言うものを全て使って、物事に取り組んでいる。

人は生きていくことを先に考えるものだ。
だからいろんな躊躇をする。
「食べる為に我慢して仕事する」とか「結婚する為に妥協する」とかと言う風に。
そういったものを失う事はとても怖いものだ。
それは当たりまえだが、仲間たちの生き方の多くはそうではないのだ。
その恐れを乗り越えている。

かといって決して未来を楽観していたリ、今さえよければ良いと思っているわけじゃない。
皆がみんなと言って良いほど「未来」に向かって前向きに歩んでいる。
ちゃんと意味があるのだ、全てにおいて。覚悟があるから出来る。
怖いのは彼らだっておんなじなのだ。でもそれを選んだのだ。
だから人生の全てを捧げられるし、棄てられるのかもしれない。
それはとっても勇気の居ること。
小さいことだが、一つ一つを大事にカタチにしていく事は素晴らしい事だと思う。
未来の為に今日の一歩を大事にしているのだ。
山火事の時、くちばしに水を蓄えて、消火にあたったハチドリの一滴のように。

ネイティヴ・アメリカンたちは今日やる事を決めるのに7代先の子孫達を想った。
自分たちの成す事が7代先の子孫にとって幸せなものとなるかどうかを考えた。
それは、今、わたしの中にある善意に嘘がないかを問うことでもあると想う。
自分の生き方に、やっている行動に嘘がないかを。
それは決して完璧であることではない、と想う。ただ思いは大事ではないか。
私も出来るだけ、自分に嘘をつかず、行うことに覚悟と自信を持っていたい。

スピリチュアルな話になってしまうが、私は怖がりのせいか、他人のそういう嘘がよく解るのだ。本当か嘘か。
そして、わたしの経験上、統計的に言って、そういう嘘を持っている人は大いなる力によって結果を与えられる事になっていると想う。
だから不思議なこともたびたび目にする。
偽って善を語っている人が触った本の真っ白なページが真っ黒になってしまったり、触ったモノが腐敗したり、料理がこげて黒くなってしまったり。
大体、そういう人は自分の行いを悪いと思ってやっていない。
気がつかないうちに、欲や何かに埋もれてしまうんじゃないかと想う。
そして、気がつくと「嘘」を語っているのだ。自分も知らないままに。
そういう事が多い気がする。
こういった不思議な事柄はメッセージなんだろうな。
たぶん、経験上、そういう事がカタチとして起きるときはかなり危ない時。
答えが下りてくる前なのかもしれない。
そういう人に会うと、あ、ヤバイかもと想う。そしてわたしのこの勘は良く当たる。
お天道様はなんでも見ていなさるってことだろう。
そして、それを横に居て体感するのは、また私にもメッセージが与えられていることだと想う。
だから、時おり、自分も気をつけなくてはいけないと身を正すことがある。

もちろん前出の方々は本当に善を思って動いてらっしゃるのだろう。
同じように未来を見据えているからやっておられるわけだ。
何も悪くない。
でもわたしの心の奥の何かが大きく違うなと感じたのだった。

例えば、「安定」とか「一般的な認識」と言う、人間であれば棄てるのが難しいものを、潔く捧げて生きている友人達の姿の方が私は好きなのだろう。
大きなこともステキだが、小さな事を大切に出来る友人達の方が好きだと思う。
そして、そういう友人達は、決して弱いものの事を忘れないとも感じる。

自分の中のブームで世界を渡って行く人は信念があるようで、そうではない気がする。
そのブームの源に信念があればいいが、そうでなければ心も流れるように変っていくからだ。

けれど、小さな幸せを生きられる人は違うと思うのだ。
そこには揺るがない信念と理由がある。
私もその様に生きていたい。
たとえ、苦しい身の上であれ、最後の日、この信念は私に喜びと感謝の心を生み出してくれることを、私は自然の内に理解している気がする。

まあ、色々書いたけど結局は根っからの貧乏性なだけってことだな(^。^;)

こんなわたしに「そんな奇麗事ばっかりじゃ生きていけないよ」と人は言う。
そうかもしれない。でも、まあ、それもいいと思っている。
それで生きてきたし、それがあたしなのだ。

仮面ライダークウガでこんな台詞があった。

「だからこそ現実にしたいじゃない。
だってきれいごとのほうがいいんだもん」

私もそう思う。実現させるならきれいごとのほうがいい。

そして、人生の終わりには尊敬する愛の冒険家ムーミンパパのようにこう言いたいものだ。

「最後に私に影響をおよぼし、
わたしの人生を芸術作品たらしめてくださったみなさま方に、
心からの感謝をささげたいとおもいます。」

私はきれいごと満載の愛に溢れた潔い冒険人生を送りたい。


ホーホケキョ♪

2009-05-04 | KOFUKU日記
GW、片づけしてたら懐かしい写真を発見。
むか~し昔、その昔の赤子の頃の一枚である。
場所は車のボンネットの上。
今じゃすっかりヤサぐれたあたいもかわゆい時があったのね(笑)

さて、この写真はなんと選挙運動の時のものだったりする。
選挙って、あんたまあ、何言っちゃってんの?と言われそうなぐらい、政治とあたしって結びつきませんが、なんとなんと、わたしのおじい様のお一人は議員でございました。
見つけた写真はそのおじいーちゃんの選挙運動のときに撮られたもの。
ハイ、いつの時代も可愛い(?)お子様は客寄せにされるのね(笑)

懐かしい思い出といえば、私は以前、「ウグイス嬢」なるものをやっておりまして。
まあ、そんなに昔でもないんですが~。
横浜で何期か、北の地在中の頃もお手伝いをしてました。
ちなみに~、ホケキョってた方々はそん所そこらの政治家ではなかったりする。
お国を代表する人になったあの方とか、あの方とか、あの方とか(笑)
なんか縁があるのか、そういう方のお子さんとも良く出会いを頂きます。
最近も良くテレビでお名前を拝聴する、日本を代表する政治家の息子さんとお友達になりました。

その昔、ノーベル平和賞にも何度もノミネートされている平和活動家の方とお会いして「コミュニケーション&ネットワークの重要性の何たるか」をお話したことがあります。
その際、
「あなたは国を代表するトップにたどり着くまでに何人の人を介していますか?」
と聞かれました。
つまり、誰々のお友達は誰々さん、と言うようにたどって総理まで考えてみるわけですね。
私はその時は「一人です」と答えて、一斉に「おおおおお!」と声を頂いた経験があります。
単純にその時の総理の息子さんと知り合いだっただけですが(^^;)
けれど、それで周りの人が総理まで間に二人と距離が縮まったんで盛り上がったと言うわけでした。
その時、その方に「それがあなたのネットワーク力です。それを使うことで世界をかえられる」といわれたのを印象深く覚えています。
なんせ、ノーベル平和賞候補者くらいになると、この人が動けば困る輩もいるらしく、マフィアやCIAが動いていて、いつ暗殺されるかわかんないと言う、嘘のような本当の話があって、世界の政治的力ってのは本当に映画みたいなのねえ~と思ったのでした。

こうして振り返ってみると、あたしの人脈も棄てたもんじゃないのかも(笑)

それで以外にも政治家の方にはこれまでいろいろお世話になっているわけなんですね。
正直、政治的権力的なものって苦手なので、極力お力添え賜る事はないのですが、今回は訴訟やなんかの件もあって、相手が法とお金を盾に向かってきたので、対抗する為には~と相談に乗っていただいたりもしました。
ご相談すればあっという間に僅かな時間でウン万円、って方に無料で話しさせてもらえたりすることなんかは、さすがです。

皆さん、政治家ってどんなイメージですか??
やっぱりアクどい感じですか?(笑)

確かに昔は政治ってすごい影響力あったんだなあと思います。
うちのそのおじいさんは昔は教育者だったそうで、校長先生から教育委員会の委員長って奴を経て政治の道を進んだらしいですが、なんと高校の校長先生の恩師でもあって、入学式の日、校長先生が「お孫さんですか。ようこそ我が校へ!」ってあいさつにこられたときにはマジでビビりました(^^;)
田舎って、そんなもんです。封建社会(^^;)

でも今はもっと気さくな感じがしますよねー。
なんせ、あたしの友達は親はお偉いけどフリーターですもん(笑)
それも政治家や司法士目指すフリーターちゃん。
日本も変りましたね。(笑)

大きくなって出会った先生方もなんか面白い人ばかりでした。
もう皆さん、絶対知っている人なんですけどね。
政治家さんって以外に面白いんですよ。
あくどい人ばっかりじゃありません(笑)
ウグイス嬢やってると候補者と同じく闘志が芽生えてくるんで、余計なのかもしれません。
朝早くから駅で宣伝の準備とかして、雨の日も雪の日も頑張っちゃうわけですから当たりまえかもしれないんですが。
選挙事務所なんかでの奥様の活動とか見てると、アメリカドラマによくある、内助の功なんかも目の当たりにするし、政治やるのもホント大変だと思います。
思わず幼き日、選挙カーの上で歌い踊らされたあの日を思い浮かべまたりして(笑)
思えばおじーさんのお家の家族もねえ、学者や医者ばっかりで、世間体がある為かその道しか許されてなくってホント大変だよなあ、って思ってました。

そうそうウグイス嬢やってるとき、車で他の候補者とすれ違うとエールを送りあうんですが、これがですね、相手より先にエールを贈ったほうが善いとされているんですね。
それもかっこよくね(笑)
あたくし、これが得意でございましたー。
対向車線に宣伝カーを見つけると、マイクを握っているウグイス嬢の口に注目するわけです。
で、相手が声を出す一瞬前にアナウンスを入れるわけですね。
「○○党の○○候補、頑張ってください!」とかってね。
ホントなつかしいなあ。

写真一枚からいろんな思い出やつながりが(笑)
人生、いろいろな経験してみるものですね。

木箱とシルクのストールと手しごとと

2009-05-03 | KOFUKU日記
GWの日曜日、あちこちできっとにぎわっているのでしょうね。
我が家ではベランダで木工仕事の音が響いております。
いまのところ、我が家の悩みは家中荷物が溢れていること。
それで相方がそれを収める箱をせっせと製作中。
ベランダといっても狭いので悪戦苦闘しております(^^;)
隣ではチェアに相方の愛娘ぴーちゃんが座って日向ぼっこしながら光合成中(笑)
(このひと、本当におひさまを浴びると巨大化するんです。
チワワサイズを越える日も近いかもしれない。。。
なのに抱っこ大好きと来たもんだ、、、)

この材料は、お店を閉店時、コストを下げる為に自分たちで店を殆ど解体したのですが、産廃煮出さないで全ての材木は再利用しようとせっせとカットして箱を作ったのです。
でも解体時間を急がされてしまい、全部作れなかったのです。
でもその材木の残りも一つ残らず棄てずに自宅に運び込んだのでした。
おかげさまで相方の部屋は半分が材木置き場と化しています~。
でも、いい香りがする。神宮前のお店のあたたかい香り。
手仕事のあたたかなぬくもりの香りがします。
そしてちょっとほっとします。
ぴーちゃんもおんなじ気持ちなのか、いつもこの材木の前で遊んでいます。
とにかく、荷物が多すぎて片付かないのですが残して置きたいものが多いので、この箱は重ねられるので、この箱に移し変えて積んでおこうという作戦です。

まあ、こんな調子なので、本当に家にはスペースがなくって、糸紡ぎをしたくても糸車を廻す場所がないし、ストックの羊毛を置くのが精一杯。。。
ああ、寂しい。糸つむぎの時期なのにい~。
ってか、時間もあるせいか、いい加減、手仕事がガンガンしたくなってきてます(笑)
美味しいご飯や保存食つくりも楽しいのですが、もっと手を動かしたいなあ~と。

私は人の為に手を動かすことに燃えるので、滅多に自分の物をつくらないのですが、相方の木工作業に触発されまして、せっかく神様に与えられたこののんびりした時間(って、無理やりのんびりしてるんですが~)を感謝して、この機会に何か一つ自分の物をつくってみようと思い立ちました。
それで、以前紡いでおいたシルクやアルパカの細い糸を使って自分の為にストールを編むことに。

シンプルなシルクの直線編みのストール。
シルクは軽いけれど、どっしりとした特有の重みがあるんです。
ですから身に着けると身体にぴったりと添うようになっています。
そして肌に触れてもとても優しいし、何より付ける時期を選ばない。
こんなシルクの糸はシンプルに編み上げるのが一番キレイだとおもいます。
糸のツヤや糸のでこぼこすらもきらきらとしてきれいです。
今回はうっすらベージュの生成りのタッサーシルクです。
シルクって細く強く紡ぐので、幾ら糸車を廻してもな~かなかボビンに糸がたまらないんですよね。
でも大きな玉になっても軽くって、きらきらしてて糸に出来上がると嬉しいものなんです。
インドシルクは紡ぐ前の綿上のときにゴミがイーッパイ入っているので、それを取り除きながら作るのもまた大変ですが楽しいものです。
それを編んでいくのも楽しい。
いま、半分くらい編みあがりました。

シルクを編みつつ、飽きっぽい私は細かいお試し紡ぎで紡いだ糸なんかも籠に入れて整理したり、お友達への贈り物も同時進行で製作中。
何が出来るかは愛する友を想像しながら、あとは天に任せつつ手を動かしております。

てしごとの講師をしたり、お店でも手を動かしては来ましたが、こうして家の中にいながら手を動かしていると、手しごとって家庭の中にあってこそだなあとつくづく感じます。
一番ちかくにいる大事な人に、私の手と心を動かして捧げられる大事な仕事。
それをやっていると、おのずと大地とつながり、天とつながり、いろんなものが見えてきて、そして家族以外のおおきな宇宙家族の為に心と手を使えるようになる。
それが良くわかります。
てしごとは美しさを生み出し、美しさを学ぶ、善き仕事です。
そして、手仕事とは決して糸車を廻したり、お料理を作ることだけではないと私は思うのです。

素朴なものごとに心を動かされる人、
きらめくカタチに心を動かされる人、
人が何かに動かされるポイントは違うと思いますが、「心が動く」ことは同じですよね。
どのあり方にも美しさを選ぶ大きな力があります。
素朴なものに惹かれる方はそのように、
きらめくものに惹かれる方はその様に手を動かせば良いと想います。
買ってきたものを並べてくっつけるだけだって善いんです。
缶詰料理だって全然OK!
大事なのはそこに「愛が在ること」だから。
ただ一つだけ、どちらも自分の中のエゴに囚われないように気をつけて、自分の欲望の為だけでなく(それも悪くありませんが)、大きな愛の中で行えるように祈りたいものですね。

どうぞ、このGWにお時間があったら、ご自分の美しいと感じるものに触れてみてください。
素朴なものに惹かれる方は、素材に触れたり、形作ってみたり、きらめくものを手に入れることが喜びの方は、ショップで美しいものに触れたり、写真集で憧れのものを眺めてみるのも良いかもしれません。
きっとあなたにあった美しさに出会えることと思います。
自分の美しさに出あったら、出来る事はやってみたり、その気持ちを育てたり、シェアしたりすることをイメージしてみたら如何でしょうか?
きっと、あなたの中の手仕事のカタチが見つかると思います。

貧しくささやかな暮らしでも、こうして五月のさわやかな風に吹かれながら、家族と共に穏やかに手仕事が出来るこの時間を与えられてることに深く感謝する今日この頃です。

sakura omusubi~愛を結ぶ

2009-05-01 | KOFUKU日記
五月になりました。今日はすずらんの日、幸せの日です。
お花といえば、そろそろ日本の北の端まで桜の花便りが届く頃ですね。
昨日、桜のご飯を楽しみました。

え~、怒涛の冬からハルへの移り変わりを経て、
失業保険で仕送りから生活まで工夫の毎日を過ごしておりますが、
「おいおい、お金ないし、食べ物も底をついちゃったよ~ん」な時も
「お米」があれば何とかやっていけるのがジャパニーズの良いところではないでしょうか?
そんなGWの昼下がり。(笑)
先日、仲良しの祐美母さまから、九州の美味しいお米をおすそ分けに預かりまして、早速美味しく炊いてみました。
おかずが乏しい時はご飯を美味しく炊くのがよろしいかと(^^)
森のイスキアの佐藤はつめさんのように、手のひらでお米をすり合わせながら丁寧に洗って、少しだけお酒を入れて炊きます。
そうするとふっくらして美味しく炊けるんですよ。
うまみがもっと欲しい時は昆布と上等のオイルを少し入れると更においしい。
ご飯が炊き上がるまでに、わかめとタマゴのお味噌汁を作りました。
そして今日は炊き上がったご飯をおむすびにすることに。
う~ん、なにを入れようかなあ、昆布?梅干?と考えていましたが、
「桜の塩漬け」を入れる事に(^^)
桜の塩漬けをそのままみじんに切って、炊き立てのご飯に混ぜ込みます。
それをそのまま、きゅっきゅと結べば出来上がり。
お味がしっかり付くのでお塩をつける必要もありません。
おにぎり、って言葉もイトオシイですが、私はおむすびって言葉も好きです。
おむすびは「お結び」
幸せの縁を結ぶというところから来ているそうです。

真っ白なご飯に桜の桃色がキレイです。
香りもハルそのものです。

もちろん、美味しく頂きました。
ああ、日本人に生まれてしゃーわせ♪
皆様もぜひお試しあれ!

さて、このところ、いろんな方に出会う機会を頂きます。
まさに愛を結んでいただく毎日です。

子どもさんから大人まで、本当に出会えば出会うほど、人にはいろんな生き方があり人生があるのだと感じずに居られません。
善い感覚で感じられる時もあれば、ふと考えてしまう時もある。
すこし心が過敏になっているのかもしれません。

いろんな人にあって思った事は、全ての人とは言いませんが、多くの人と言うものは、その生きているステージからみえている世界を全てだ(最高だ)と思ってしまうものなんだな、という事。
よく言えないんですが、成長をする「人間」である以上、それが当たりまえでもあるので、悪いとか思もうわけではないのですが(笑)
ただそれがほんの少しだけ残念に思う事があります。

私は思うのです。
それが当たりまえにある世界でも、相手のステージを想像できる人間でありたいなあ、と。

数年前ですが、一人の友人が現世から遠く離れた世界の住人になってしまいました。
死んだわけではなく、心が遠くに行ってしまったのです。
その友が最後にまだ友達がこの世に心があった頃、私にこういいました。

「私、一生懸命頑張ってるって言ってるのに、みんな、頑張れっていうのよ。
そんなんじゃダメだって。もっと頑張れって。
本当のあなたは、昔はもっと頑張ってたじゃない、って。
本当のあたしって何?
今のあたしはあたしじゃないの?頑張ってないの?
みんな、私を心配して言ってくれるのはよく解ってるの。
でも皆はわたしの居るところを見ようとしない。
私が出来る事は何かを知ろうとはしない。
自分の居るところから自分が出来ることを言ってくれるだけ。
でもそれは、あたしの出来ることじゃない。」

それから、彼女は遠い世界の住人になった。
私はその時、私自身が苦しんでいて、彼女の助けになれなかった。
たぶん、彼女の周りの人もそうだったんでしょう。
だから、彼女はひとりで心を守れるところに行った。

私は彼女の気持ちがわかる気がする。
彼女はただ今居るところはどんなところか聞いて欲しかったのではないか。
それだけで、彼女は階段を上ることが出来たかもしれない。

私は良く本を読むが、多くの啓発本などでは、いろんな人がご自分の苦しい体験をもとに成功をご本に書いていらっしゃる。
そして、苦しみを持っている人を助けたい、と書き、苦しみは乗り越えられると書く。
あなたは必ず出来ますよ、と。
けれど本当に苦しみのある人を分かっている人はまずいない、と感じてしまう。
なぜなら、大体それを書いてる時は書いている本人のステージがすでにあがってしまって、その高いところからの意見を書くからだ。
それは苦しみを越えたものの意見で、もがいている人の助けにはあまりならない、と私は思うのだ。
本当に苦しい時、闇にいる時、光は見えない。
そんな時、心に明かりを照らす、と言う行為は決して頑張れとか出来ますよとか、私はこうでしたと話すことではないような気がする。
暗闇の中、そっと声をかけ、私がここに居ますよと話し、そっと手を取ってあげることの方がよっぽど安心するのではないか。
そうすることで誰かに明かりを照らしてもらい、周りを見渡せるようになるのではなく、自分の力で心の中に明かりを灯せるんではないか。
私はそんな気がする。

シスターの渡辺和子さんがおっしゃっている。
彼女はとっても頑張りやのシスターだ。
バリバリのキャリアウーマンだった人だ。
何でも頑張って前向きに生きてけばやれない事はない、
出来ない人はポジティヴじゃないし、頑張ってない。
あたしに頑張れるんだから、みんなだって頑張れるはずなのに、と思っていたと。

そのシスター渡辺はある日、病気を患った。
そして誰よりもポジティヴだった彼女が欝になり、自殺を考えるまでになった。
その頃、何を言われても辛かった。
たくさんの方の協力もあり、その暗闇から回復してやっと
「頑張っているように見えていなかったから、
頑張ってないんだろう、そんなのはダメだと人を判断していた自分」
に気がついたそうだ。
そして、人には「苦しい」と言う気持ちが存在する事を知った。
それから、ああ、これまで私は善意と言うエゴで思いやりのなさでどんなに人を傷つけていたんだろう、思ったのだと。

いま彼女はまず、耳を傾けるそうである。相手の苦しみに。
そして、頑張れと言葉を放つ前に、相手の苦しみに身を置いて想像してみるのだと。

私も人に対してそうでありたいと願っている。

私も目に見えない心の病を持っている。
心のトラウマに起因する病気たちは繊細でなかなか癒えない。
治ったと思っても、すぐに何かがきっかけとなって、また迷路にはまる。
わたしの場合も結構、深刻なのだが見た目は元気なので、遠くに行った友達と同じ事を言われることが多い。
これこれが難しいと説明しても「そんな風には見えないわ」、つまり、そんなことないんじゃないの?とか(^^;)、都合よく具合悪くなるんだから贅沢病だよね~、とか?(笑)

おかげさまで今はそう言われてもそうね~とか、ありがたいと思えるようになった。
だからこうして生きていられる。
けれど、それまでは言葉を不用意にかけられることは本当に辛かった時期もある。そうやって言われるたびに、わたしの苦しみは誰も解ってくれないのだ、という孤独感がますばかりで悲しかった。

もしあの時、誰かが「頑張れるよ、大丈夫だって」、と言うかわりに
「それってどんな風に辛いの?あなたはどういう風に感じるの?
どうしてあげたら一番いい?」
と聞いてくれたらどんなにか安心しただろう、と思う。
きっと、この人には何を話してもいい、と思い、それだけで病は癒えていくだろう。
心の病とはそんなものだったりするんじゃないかな。

天国に戻ったわたしのソウルメイトはそういうところに長けた人だった。
決して自分の居るところから人を判断する人ではなかった。
まず、相手を認めて、相手のやる事、信じることを尊重した。
その上で
「大丈夫。お前がダメでも俺がやるから平気だ」
といってくれる心強い、素敵な人だった。

今のソウルメイトは一番辛かった時こう聞いてくれた。
「何がいちばん君の幸せか?」と。
それも素敵な言葉だと思った。

私もそんな風に人の一番大切なものを思いやれる人間でありたい。

宗教家のダライ・ラマが言っている。
「愛と思いやりがあれば宗教も思想もいらない」と。
愛こそ全て、は真実だと思う。
だから人を愛し、思いやりを捧げられる人間になりたい。

私もシスターみたいに生きていた。
特に苦しい環境下に生まれた私はそうだった。頑張るしか生きていくしかなかったのだ。
わたしの環境下で頑張らないは「死」を意味すると言ってよかった。
それが当たりまえだったから、みんな、頑張ってなさすぎなんだ、弱いよなと思っていた。
世の中、ポジティヴに頑張っていれば何とかなるんだと信じていた。
でも、ある日、弱い心の部分が自分で理解でき始めた時、そうではないんだと思った。
そして「弱い」ことは悪でもなんでもないと知った。
でも病も生きる苦しみも過酷な環境も私に大きなものを与えてくれた。
真実に愛する事は何か?本当に思いやるという事は何か?という事を。

誰かと共に生きる時、自分の納得できる思想や言葉をただ与えるのではなく、
誰かが本当に求めている何かを共に探し、捧げられる人間に私はなりたい。
口先で頑張れと励ますより、心の痛みを共に感じられる人でありたい。

今はいつもそう祈っています。