三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

クマさんに出会った

2008年10月12日 08時07分36秒 | Weblog



800年から1200年頃の北海道中部低地帯での暮らしぶりを研究しています。
時代考証していく手がかりがなかなかない。
でも断片的には文字記録のものも残っている。
また、江別や恵庭には古墳が残っている。
古墳って、要するに一定の有力者の存在をうかがわせるもの。
古代のヤマト権力が、連合的な国家を形成するときに
各地域の有力者に対して古墳という祭祀形態を与えたと考えられるもの。
まぁ、どのような経緯でこうした祭祀が広がったのかは定かではないけれど、
日本中にこの形態の墳墓が盛んに作られて、
北海道の中央部でも造営されたことがわかってきた。
ということは海の道を通っての交流が広くヤマト側となされていたことを表している。
また一方で、積丹半島北部側では、北東アジア世界との交流も特定できる痕跡が多く
この地域が、さまざまな交流・交易が
活発に行われていたことを指し示していると思われます。
ちょうど、北東アジアの「渤海」から
727年~919年の間、
何回も北の日本海ルートで使節が来ているし、
日本側からも使節が派遣されている記録がある。
ヤマト政権側としては、正規の外交ルートは博多の太宰府なので
そちらに来なさいと何度も伝えるけれど、
渤海側は、それを無視して、北からのルートを下ってくる、ということ。
きっと、そのルートが安定的な航路を保証してくれていたのでしょう。
アムール川河口域からサハリン西岸を南下して、北海道を西海岸を下っていく。
そして、最後の難関が津軽海峡だったのでしょうが、
たとえば松前と竜飛岬は天気が良ければ、一気に渡れる近さ。
そうすれば、常に陸地を見ながら、万一天気が悪くなってくれば
陸地に接岸して天候の回復を待って航海することができる。
そういったルートが交流ネットワークとして当たり前に存在していただろうことを示している。

こんなような背景を想定して、
当時の北海道人の暮らしように思いを巡らせているのです。
そんなとき、ちょうど見たのが写真のジオラマ。
狩猟採集は基本的な生業手段ですから、
こんなようにクマさんの生活領域とバッティングしたでしょう。
クマさんもびっくり、人間もびっくりという様子が伝わってユーモラス。
なんですが、こういう危険が日常茶飯だったことでしょうね。
後の時代のアイヌの儀礼でクマの存在感が大きいのはこういう事情でしょうね。



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