三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【1085年前の建築大事故 陸奧国分寺七重塔に雷直撃】

2019年05月03日 02時22分04秒 | Weblog


平安期仙台の大きな自然災害による公共事業の大崩壊事件。
まぁ、現代で言えば東京スカイツリーがポッキリ折れたようなもの。
承平4年(934年)閏1月15日に、国分寺七重塔が雷火で失われた。
このとき塔頂の銅製飾りが落下し地中深く逆さまに突き立ったことが、
出土した現物によって明らかになったのです。
この当時は「高層建築」はこれだけだったでしょうから、
仙台平野の中心的ランドマークが一瞬で消滅してしまったということ。

わが社の仙台事務所からほど近くに、陸奧国分寺跡があります。
写真下は国分寺の復元模型で、七重塔は右側に建っていた。
最近遺跡整備が進んで旧南大門周辺に朱塗りの復元モニュメントもある。
国分寺の建設はときの権力の最大政策であり、国策そのもの。
その国分寺建築の象徴である七重塔が倒壊、焼失したというのですね。
この陸奧国分寺は陸奧国府が最初仙台市太白区に郡山官衙として開かれた際
それに近接して建てられたけれど、その後国府が多賀城に移転した。
それ自体、律令国家権力と「蝦夷」との緊張の高まりを反映していた。
なので、全国の国分寺には珍しく国府との距離がかなり離れている。
先の東日本大震災によって過去の大地震・大津波記録として
クローズアップされた貞観11年(869年)5月26日の「貞観大地震」でも、
陸奥国では大きな津波被害記録が残されている。
なんですが、それ以上に悲惨なことがそれから65年後に起こったのですね。
・・・この事実は、陸奧国分寺跡見学の時に知っていたのですが、
今回、仙台市博物館でその発掘時の写真が小さいながら展示されていた。
思わず、引き込まれてしまった次第です。
「七重塔檫管の出土状況」と題されていて、以下のような説明。
「檫管は塔の先端を飾る相輪の軸となる部分。現地表下60cmのところから、
真っ逆さまに地中に突き刺さった状態で出土した。
落下のすさまじさを今に伝えている。」という記述です。
っていうか、落雷でこの巨大な造形物は落下してから
1000年以上もそのままで放置されてきたことになる。
その後、陸奧国分寺自体、衰微していたとされるので、
その落雷出火ということが怖ろしげなることとして、禁忌化したのかも。
国府の置かれた多賀城も、貞観大地震で大きな被害も受け、
さらに10世紀半ばには廃絶したとされる。
ちょうど国分寺の落雷焼失とも時期が重なっている。
その時期には東北地域における実権は奥州藤原氏に移っているので
この落雷焼失は、まさに歴史的エポックだった可能性が高い。
そのありありとした動乱の光景再現が、この発掘調査結果といえる。
こういった歴史事実についてもっと深く知りたいのだけれど・・・。
という思いがますます強くなってきております。
コメント
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