きのう、仙台から帰還しました。
なんとか体調も持って、無事にToDoは消化。
で、本日はその疲れを休めながら、
土日二日間で風邪からの完全復活に努めたいと思います。
本日は、ここんところ読み続けている斉藤利男 弘前大教授の著作
「平泉」の読書感想です。著者の斉藤先生のご自宅について、
記憶では住宅取材したことがあるはずなのですが、
それは歴史や考古学での先生の事跡を知る以前だったので
いまは、記憶が定かではありません。今度、しっかり取材記録を確認し、
先生にごあいさつしたいと考えています。
平泉の奥州藤原氏、それに先立つ安倍・清原氏、さらに
後代の「日の本将軍」を名乗ったといわれる安東氏などの
北方に成立した地方権力について、先生は興味深い研究をされています。
近著のこの「平泉」は、最新の知見が満載で深まりがすごい。
とくにその平泉政権、奥州藤原氏の北海道・厚真に設けられた
「交易管轄施設」とおぼしき遺跡発見に関連した部分で
ほとんど目が点になっておりました。
以下、北海道新聞に掲載された先生発信の関連情報を抜粋します。
「平泉」の文化史的意義~世界遺産登録決定によせて
~斉藤利男 弘前大教授のまとめ
独立政権と北方支配~栄華を支えた蝦夷ヶ島~
・・・奥州藤原氏が権力を生み出した秘密はどこにあったのか?
通常であれば,北奥の金と馬を商品として得た富と答える。
しかし,平泉政権を支えた地域はもうひとつあった。
それは,蝦夷ヶ島,現在の北海道である。
・・・最近,北海道胆振管内厚真町の宇隆1遺跡で,
常滑焼の壺が出土した。時期は常滑第Ⅱ期(1150~74年)で,
北海道発の発見。入手ルートは平泉経由と考えられる。
壺の形状と遺跡の立地から,この地に作られた経塚の外容器の
可能性が高いと判断されている。
厚真は室町時代に和人海商の交易拠点が形成された鵡川に近く,
北は富良野・上川,東は十勝から道東に通じる陸路の結節点である。
これらのことから,この地に平泉時代,平泉政権から派遣された
和人が居住し,おそらく現地の首長たちと共同して鷲羽や水豹皮を
恒常的に入手するための交易センターを設け,
仏教の普及にも努めていたと思われる。
平泉政権は,「交易」を通じて北海道の蝦夷の人々を
管轄した権力であった。厚真での常滑焼の壺の発見は
新しい平泉像を開かせてくれるものである。<抜粋ここまで>
いわゆる「考古的遺跡」というイメージとは違って
これは「歴史」という、なまなましい人間活動の痕跡が
この平安末期に北海道で営まれていた事実を伝えてくれている。
1150~74年といえば、源平の争乱時期に相当してくる。
そういう時代に、平泉の政権は、北海道島でこのような交易拠点を
継続的に維持していた証拠になるのです。
ついに、というか、北海道中世が、具体的な年号特定される
歴史事実の発掘に至るのではないかと、ワクワクしています。
この辺を突破口に、歴史としての北海道史が見えてくることを
この地に住む者として、期待している次第です。
なんとか体調も持って、無事にToDoは消化。
で、本日はその疲れを休めながら、
土日二日間で風邪からの完全復活に努めたいと思います。
本日は、ここんところ読み続けている斉藤利男 弘前大教授の著作
「平泉」の読書感想です。著者の斉藤先生のご自宅について、
記憶では住宅取材したことがあるはずなのですが、
それは歴史や考古学での先生の事跡を知る以前だったので
いまは、記憶が定かではありません。今度、しっかり取材記録を確認し、
先生にごあいさつしたいと考えています。
平泉の奥州藤原氏、それに先立つ安倍・清原氏、さらに
後代の「日の本将軍」を名乗ったといわれる安東氏などの
北方に成立した地方権力について、先生は興味深い研究をされています。
近著のこの「平泉」は、最新の知見が満載で深まりがすごい。
とくにその平泉政権、奥州藤原氏の北海道・厚真に設けられた
「交易管轄施設」とおぼしき遺跡発見に関連した部分で
ほとんど目が点になっておりました。
以下、北海道新聞に掲載された先生発信の関連情報を抜粋します。
「平泉」の文化史的意義~世界遺産登録決定によせて
~斉藤利男 弘前大教授のまとめ
独立政権と北方支配~栄華を支えた蝦夷ヶ島~
・・・奥州藤原氏が権力を生み出した秘密はどこにあったのか?
通常であれば,北奥の金と馬を商品として得た富と答える。
しかし,平泉政権を支えた地域はもうひとつあった。
それは,蝦夷ヶ島,現在の北海道である。
・・・最近,北海道胆振管内厚真町の宇隆1遺跡で,
常滑焼の壺が出土した。時期は常滑第Ⅱ期(1150~74年)で,
北海道発の発見。入手ルートは平泉経由と考えられる。
壺の形状と遺跡の立地から,この地に作られた経塚の外容器の
可能性が高いと判断されている。
厚真は室町時代に和人海商の交易拠点が形成された鵡川に近く,
北は富良野・上川,東は十勝から道東に通じる陸路の結節点である。
これらのことから,この地に平泉時代,平泉政権から派遣された
和人が居住し,おそらく現地の首長たちと共同して鷲羽や水豹皮を
恒常的に入手するための交易センターを設け,
仏教の普及にも努めていたと思われる。
平泉政権は,「交易」を通じて北海道の蝦夷の人々を
管轄した権力であった。厚真での常滑焼の壺の発見は
新しい平泉像を開かせてくれるものである。<抜粋ここまで>
いわゆる「考古的遺跡」というイメージとは違って
これは「歴史」という、なまなましい人間活動の痕跡が
この平安末期に北海道で営まれていた事実を伝えてくれている。
1150~74年といえば、源平の争乱時期に相当してくる。
そういう時代に、平泉の政権は、北海道島でこのような交易拠点を
継続的に維持していた証拠になるのです。
ついに、というか、北海道中世が、具体的な年号特定される
歴史事実の発掘に至るのではないかと、ワクワクしています。
この辺を突破口に、歴史としての北海道史が見えてくることを
この地に住む者として、期待している次第です。
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