三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

またやってますね、Jobsさん

2007年01月11日 06時10分04秒 | Weblog

年明けのこの時期になると、アップルの新製品発表があります。
いまや、コンピュータメーカーという範疇を超えつつあるアップルですが、
こんどはケータイ端末を発表しましたね。
iPhoneという名称のケータイデバイス。
まぁ、いつも物づくりへの探求心と、こだわりの徹底ぶりを見せつけられるのですが
今回のものも、いわれているまんまだとすれば、面白そうですね。
タッチパネル操作でいろいろな機能を複合的に使用できる
すごいデバイスになりそうです。
宣伝での画像を見ると、この小さいデバイスで
インターネットのリッチコンテンツも閲覧可能なようです。
価格が、日本ではどうなるか不明だけど、6万から7万円ほど。
2年間のキャリアとの契約込みで、ってことだけれど、
iPodとケータイの両方に使えるというメリットを考えれば、
さて、市場はどのように動いていくのか、
アメリカの株式市場関係は、株価8%上昇ということのようなので、
おおむね、成功すると見ているように思われますね。
ただし当面は規格の関係で日本市場には投入されない。

会場にはソフトバンクの孫さんの顔も見られたそうで、
このデバイスを日本でのキャリア戦争に勝つ、キラーデバイスにしたいのでしょうね。
以前も、Jobsに日本で直談判して、アップルのケータイデバイスを
嘱望していた、という報道がありました。
日本市場投入は1年以上先のようですが、
これから、アメリカ市場での動向もにらみながら、
このデバイスの評価・市場に与えるインパクトをみんなが計る展開が予想されます。
あれだけの機能を詰め込んで、軽快に、耐久性も確保して
ほんとうに実用化できるのか、
まぁ、興味津々というところです。
ふつうに考えれば、誤操作の連発になるんじゃないか、と思われるんですがね・・・。
しかし、毎度のことながら、自社の単なる新製品発表に
これだけ世界の耳目を注目させる、
プレゼンテーターとしてのJobsさんの価値観の高さは、すごい。
朝日新聞デジタル版でも、一時はトップニュース扱いだったほどなので、
こういうメディア露出のすべてのパブリシティ効果は、金額換算すれば
いったいどれくらいに相当するのか。
こういう奇跡的な製造業の起業家精神・個性を
同時代に見られるのは、たいへん刺激になります。
ビジネスへの取り組み方という部分で、単純に驚かされる次第。
日本で発売される頃には、・・・やっぱ、物欲、刺激されるでしょうね(笑)。
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広い玄関土間の効用

2007年01月10日 06時11分14秒 | Weblog

写真は建築家・圓山彬雄さんの設計住宅から。
氏は、よく設計する住宅に広い土間を提案されるケースが多い。
北海道の家は、断熱気密の性能が向上してきて、
外部は比較的に単純な形態を志向するケースが増えています。
そうするほうが、エネルギーロスが少なくて済むわけなのですが、
その結果、内部のボリュームっていうか、
一体感がすごく大きくなってきます。
温熱的には、強く単純な外皮があるので、
内部はあんまり区切らない、おおらかな空間が特徴的。
そういう方向で、室内デザインが展開されているケースが多い。

そうすると、内部の使用用途にも
もっと柔軟な考えがあってもいいのではないか、
というような提案として、こうした広大な土間が出てきたのですね。
この家では、玄関を入っていきなりこんな空間が広がるので、
外から帰ってきても、「家に入る」という感覚よりも
「家が迎えてくれる」という開放感の方が大きいと思います。
家の中での暮らしが、閉鎖的でなく、アクティブになる、
というような感じでしょうかね。
寒さを気にすることなく、こういう空間を冬期に利用可能なわけです。

ぜひこういう空間利用が、もっと広まって欲しいものだと思います。
ここには逆転の発想があって、
北国の住宅が獲得した性能が、暮らし方も変えられるというメッセージが
いっぱいに情報発信されているからですね。
こういう空間で、もっと外部的な楽しみ方が
北国の暮らし方として取り込まれるのではないか、という期待がふくらみます。
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正月休み仕上げのプチリフォーム

2007年01月09日 06時01分54秒 | Weblog

ことしのお正月休みは、思い切って長めに昨日まで。
さて、きょうから今年の仕事もスタートです。
ことしは、どこにも外出もせず、旅行にも行かず、
のんびりと楽しく家の整理整頓に勤しんでおりました。
で、最後に残っていた玄関ホールの収納棚を整理しながら、
やはり玄関なので、いきなり収納物が目に飛び込んでくるのは・・・、
ということで、カーテンを購入してきて、整理してみました。
本当は木製の扉が似合うのでしょうが、
そこはプチリフォーム、外部のプロに頼むのではなく、
自分で出来る範囲に、無理はしませんでした。(笑)
お気に入りになった、ジョイフルAKに行って、まぁ、一番無難な黄色を選択。
このジョイフルAKさんって、知人の木村さんという方がはじめたDIYホームセンターなのですが、
アメリカンスタイルのホームセンターで、
建材と言えるモノはほぼ、なんでも揃ってしまうお店です。
アメリカに広く展開している「HOME DEPOT」と同じようなコンセプト。
もともと、建材商社さんなので、本職の大工さんたちが
けっこう大型自動車で乗り付けては、木材などを購入したりするほど
価格も、かなり説得力がある。
オープンしてからもう3年くらい経っているのですが、
いまのところ、札幌市内で2店舗にとどまっています。
なんとか、こういうお店が全国に出来ると家のことが趣味になってしまう、
という一般消費者のみなさんへのいい影響も期待できると思っているのですが。

行ってみると、ホントになんでもあります。
好きな人なら、見ているだけで、お、これ面白そうだからやってみるかなぁ、
と、家を良くしたくなってくる気になるはずです。
日本人って、どうしても、自分で家のことを楽しむって
あんまりしないものなんですが、やってみると、絶対面白いです。
百姓、という一般人を指した言葉には、
なんでもやる、百くらいの仕事をこなす、という意味もあるんだそうで、
昔は確かに、農業土木から、家の造作、農工具の整備と
一般人がなんでもやっていたはずなんですよね。

まぁ、わが家の例を見て、これじゃあんまり意味がないかな、と
やる気が起こらなくなるかもしれませんが、(笑)
ぜひ、みなさんも挑戦してみると面白いですよ。
さて、黄色には金運がある(笑)、ということですので、
ことしはいい運が開けてくるでしょうか? がんばりましょう!
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おもしろい玄関ドア

2007年01月08日 07時00分47秒 | Weblog

きょうは、住宅取材ネタで。
ごらんの写真、なんだかわかりますか?
って、ブログのタイトルでバレバレですから、そのまんまなんですけど(笑)。
札幌で活躍している建築家・ヒココニシさんの自宅玄関ドアです。
取っ手の部分を拡大したものなんですけど、
取っ手から右側が玄関ドアで、左側は建物の外壁です。
ごらんの通り同じ木張りに仕上げてあるんですね。
まぁ、外壁の側はそういう仕上げにすればいいのですから、簡単。
もう一方の玄関ドアの方、こっちがおもしろい。

まぁ、住宅の用途では木製ドアの方が味もあっていいのですが、
わたしどものような事務所だと、開け閉め頻度の多さで
どうしても、木製ドアは狂いが生じてきますね。
玄関ドアって、スチールやらの工業製品の方が、
そりやねじれといった、木製品の欠点を補って有利であることは否めません。
でもせっかく、他の外壁をいろいろに工夫しているのに、
ドアだけが浮き上がってしまうのもシャク。
そういうことを踏まえて、
このドアはなんと、スチール製品表面に木を張ったのですね。
なものですから、他の外壁とちょっと見にはまさに一体。
ポンと、このドアノブだけが見えてくる、という次第なんですね。
こういうビジュアルも、なかなか、洒落ていて実にいい。
コロンブスの卵。
たぶん、問題点があるとすれば、木と金属の接合をどうやるか、
というポイントでしょうが、残念ながらその点は聞いておりません。(笑)
なんとなく、その辺がノウハウのポイントの気がして、
聞くのを逆にためらったような記憶があります。

これだと、そりやねじれでの開閉上の不具合などは
なさそうな感じですね。
やはり現代生活、なんでも癒しっぽく、素材感で選択はできない。
基本的な使い勝手では、やはり工業製品的な耐久性が
しっかり担保されている必要がある。
そう思っております。
その意味で、こういう工夫に拍手したいですね。
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移動の快適性と都市環境

2007年01月07日 08時17分07秒 | Weblog

現代人を過去の人類と特徴的に分けるとしたら、
「乗る」という行動が飛躍的に増大した人類である、という説があります。
たぶん、1日の自分の行動を考えてみて、
それをたとえば、江戸時代の一般庶民の暮らしと比較してみれば、
すぐにでも理解できますね。
わたしの行動で見てみても、ちょっとした買い物でもなんでも、
自動車が必須の生活ぶりになっています。自宅からほんの200m程度の距離に
事務所があり、その前にセブンイレブンがあるのですが
そこに行くにも、どうしても車を利用しています。
子どもの時には、こういう距離は絶対に歩いていたものですが、
現代人と「移動」手段は、もはや切り離せないほどの関係になっているでしょうね。
日常的な都市生活、映画を見るとか、食事に行く、買い物をする、
といったごくふつうの行動でも、移動というのが前提になっていて、
消費行動時間を計画し、一日の暮らし方を考えている。
そして乗り物は、そのすべての局面で行動の必需品であって、
日常的な快楽感をもたらしてくれていると感じます。
公共的な電車や地下鉄などでも、基本的にそのスピード感がもたらす快楽、
次々と展開する都市の光景を眺める快楽、
雑踏の中の、ある種の無名性の開放感、
いろいろな姿形のひと、異性を見ることによる、スピード感の中の快美感など、
いろいろな要素で形作られているけれど、
そうした一切が、移動の中に快楽感として詰め込まれている。
たぶん、少なくとも、現代人は過去の人たちと比較して
視覚的な刺激とか、こういうスピード感において、すごい体験を
日々、享受しているのだと思います。

江戸時代でも、権力によって庶民の移動は制限されていたけれど、
それでも、宗教という隠れ蓑を使って、たとえば「伊勢参り」「四国霊場巡り」
などの移動・観光ツアーが大人気だったそうです。
移動することによる、非日常的な体験こそが、その快楽の根源的な要素だったわけですね。
ひるがえって、現代の都市には、そういう非日常性がふんだんに展開されており、
そのなかでも、その最大のスケールの首都圏では
たぶん、人類史上でも希有なくらいのレベルの非日常性快楽が存在している。
都市に暮らす、ということの快適性の中に、
こういう部分の「潜在的な快楽性」というものが、相当大きな部分を占めている、
そのように思えてならないのですね。
そして現代人にとっては、そういう快楽との「アクセス」という
ことのほうが、「住む土地選び」の大きな要素であるとも言えるのです。
一歩、家の外に出れば、豊富な興奮すべき快適性が存在するので、
そういう刺激に満ちた環境の中では、家に対する欲求も変わってくるのではないか。
どうも、わたしが首都のど真ん中で「ふるさと回帰」フェアに感じた違和感って、
こういう現代都市の刺激的快楽性に対して、
自然に帰る、みたいな単一に近いコンセプトで立ち向かおうとしているような
無力感を漠然と意識していた、ということのようなんです。
そりゃぁ、ドンキホーテじゃありませんか、っていうような。
たしかに豊かな自然には、ゆったりとしたリズムがあり、
そういうリズム感と時間感覚の中で、十分に充足できる暮らしの悦びはあるけれど、
さて、この現代最先端の都市快楽感のなかにどっぷりと浸かった人は、
そのように価値転換できるのでしょうか。
っていうような疑問点が、ふくらんできてしまったのですね。

で、こういう現代都市のなかでの暮らしのなかで、
現代の住宅って、いったいどういうことが求められていくのか、
というポイントになっていくのですね、わたしとしては。(笑)
このブログで、こんなことを書き連ねているのは、そういう目的です。
さて、さて、どんなふうに展開して行くのでしょうか、不安です(笑)。
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住む土地を選ぶということ_2

2007年01月06日 07時27分24秒 | Weblog

歴史的に見て、現代のわたしたちのように
戸建て住宅の用地を「自由に」選択しているというのは、珍しいことに違いない
ということは、前に考えてみたとおりです。
そして、都市の位置の選択、という部分では現代の都市は
多くは、近代以前からの選択の結果を引きずってきている、というのも事実。
そういう前提に立って、考えを進めていきたい。
次の考察ポイントとして、
わたしたちの住宅地選択の大きな要素になっていること、を考えてみます。
歴史的には、生産労働との直結性が住宅敷地の当然の前提。
現代での、そのポイントを考えてみたとき、
しかし、移動手段の飛躍的な高度化、
アメリカ的な車通勤の実現や、大量輸送手段での「通勤」スタイルの確立、
といったことの結果、一定の時間地理範囲なら
「生産労働との直結性」が拡大してしまった、といえるでしょう。
やはり「移動の快適性」の、量的な、そして質的な拡大が、
この点をほとんど無意味なものに変えてしまった、といえるでしょうね。
この変革が一番大きい部分なのだと思います。
で、付随的に、移動の快適性というものが、あたらしい都市生活享楽として生まれたのではないか?
というのが、ポイント。
もちろん、その負の部分、交通渋滞であるとか、
通勤地獄といわれるすし詰め電車状態などの社会的問題も生み出した、とはいえますが。
でも、日常的に仕事場に通う、ということだけでも
大変なエネルギーコストを掛け、すごい社会システムを構築したと言えるのですね。

この移動の快適性の実現が、
都市のまったく新しい生活上の魅力を生み出しているのではないか、
そして、そのなかでも、もっとも「都市基盤」が重点的に整えられた首都圏が
飛び抜けて「快適な現代生活環境」を作り上げているのではないか、
そういうように思えるのですね。
よく言われるように、現代生活は時間が最大の価値、という側面が拡大しています。
その点で、たとえば世界最先端の文化や情報に、
その現場に、思い立てば、ほんの短時間で「移動可能」である、
ということの「快適性」について、もっといろいろに論証・研究すべきだと思います。
現代で、「人間が暮らす」ということの快適性の多くの部分と、
このポイントの相関関係が、もっと厳密に論議されるべきだ、ということ。
戸建て住宅を取材していて、その快適性向上の側面では、というか
ボックスとしての生活快適装置としての完成度は、むしろ
寒冷地である北海道の方が進んでいる。
しかし、総体としての「住み暮らす満足度」は、そういうボックス性能を
超える部分こそ、本当には高いのだ、と思い知らされるワケなのですよ。


ブログ表現での、無謀とも言える日々、考察の試み、
さて、どういうように展開していくか、自分でも、まったく先は見えません。
自分の考えをまとめていくプロセス公開みたいなものですね。
こうしてすこしずつ、書いていくのって、
面白いスタイルになるかも知れません。
でも、原稿を丹念に完成させるようには出来ないので
飛躍しすぎたり、するかも知れません。
まったく書き進められなくなったら、まぁ、ちょこちょこ、
食べ物やら、日ハムやらに回り道して、のんびりしていきます。どうぞよろしく。
写真は吹雪の中、移動車両からの夕景。完璧手振れでの芸術写真(笑)。
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感動の大型ゴミ処理

2007年01月05日 08時26分12秒 | Weblog
ことしは仕事始め、来週9日からと、ゆったりしています。
おかげさまで、どこにも行かずに家でゆっくりと過ごす休みを楽しんでいます。
なのですが、そうやって休みを取ると、家の中のことを
いかにほったらかしにしていたことか、と思い知らされます(汗)。
そういう罪滅ぼしを兼ねて、年末から大掃除、模様替え、プチリフォームと
家のことを楽しく、やっております。(笑)
って、これがやると本当に、面白いんですよね。

年末押し迫ってから大掃除に着手したもので、
その間に出てきた大型ゴミのたぐいは、残念ながら物置や家の中で年越し。
それで、インターネットで調べて、大型ゴミをゴミ処理センターに
年明け、稼働が始まるきのう、4日に持ち込むことにしていたのです。
去年の分の大型ゴミは物置にも入れておいたので、
その物置の大掃除も、未着手。
って、そこまでやるかどうか、気が重い感じがしていたのが実際。
燃えるゴミは朝のウチに収集場所に出したので、
持ち込むことにしたのは、大型ゴミ、あるいは燃えないゴミ。
で、調べたとおりに札幌市西区の発寒清掃工場へ。
4WDの日産EXTRAILなのですが、後部座席を収納して、
大型ゴミを満載で出発。
やはりひとりでは積載も大変だったので、カミさんとふたり。
はじめていくのですが、工場は車でのアクセスを考えてあって、
標識がわかりやすく整備されていました。
入り口では、車ごと大型の秤に乗せられて、重量検査されます。
大型ゴミは重量で課金するシステムのようで、
どうやって計るのか、素人には想像も付かなかったのですが、
そうか、なるほど、と一発で納得させられました。
って、まぁ、だれでも一日くらい考えれば、同じような結論は出るでしょうけれども・・・。(笑)
そのゲートでの計量を終えて、車線に沿って進入していくと
自動ドアが開いて、係の方から誘導指示があります。
屋内は広大で、札幌ドームくらいの広さはあるでしょうか。
大型ゴミが山積みされた場所に移動して、ゴミを降ろします。
ここで、最終的に燃えるゴミなどと仕分けさせてくれます。
一部、燃えるゴミと認定されたものは、別の場所に置きます。
でも、自分たちで処理する必要はなく、職員のみなさんが整理していただけます。
「これは、プラスチックだからここじゃないのかなぁ」のように、
ゴミ分別って、けっこう考えさせられますが、
その辺はあまり素人が悩む必要はないようで、
どんなものも、スムーズに受け入れていただけますね。
家電品も、テレビなどの4品目以外は問題なく受け入れていただけました。
生ゴミや、可燃ゴミなどが注意を要する、ということのようです。
こうして出来上がったゴミの山を大型重機で整理して、地下の方に持っていって
処理するようになっているようです。いや、合理的。
無事、ゴミ降ろしが終わると、軽くなった車ごと出口に移動。
ここで、再度車ごと重量検査して、入り口との重量差で、課金金額が確定。
支払いを済ませて、それで、帰る、ということになります。
ゴミ重量は、110kgで、金額は1430円也、でした。
って、実はこの大型ゴミについては夫婦でずいぶんと悩んでいたので、
案外のラクチンぶりに、。思わずにっこりしてしまいました(笑)。
「こりゃぁ、らくだよね」という次第。

なものですから、すっかり大掃除が楽しくなってしまい、
懸案だった、物置の整理整頓、大掃除片付けにもやる気満々になりました!
考えてみたら、仕事の忙しさをいいことに、もう3年近く片付けもしていなかった(汗)。
それが、大型ゴミ処理のスタイルが、こうして確立したとたんに
意欲が出てくるものなんですよ。(笑)
ついでに、っていうことで、使わなくなった建具やらの処理、整理作業もやってしまいました。
そうして、また出てきた大型ゴミも、同様に運び込んで家中がすっきり。
とはいっても、一発で全部が終わりはしませんが、
すっかり、積年の鬱が晴れ渡るような心地がいたしました。

日頃、税金の使い道について、悪し様なことばかり思っておりましたが、
いろいろ考えて、合理的なシステムが運用されているのですね。
いや、たいへん勉強になりましたし、家はきれいになっていくわ、で、
大変有意義なお正月を過ごしていますね。(笑)
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住む土地選びの基準って?

2007年01月04日 07時05分40秒 | Weblog

さて、土地って、みなさん、どのように選んでいるのでしょうか?
人口の都市集中が始まるまで、って、たぶん江戸期以前までさかのぼるか、
しなければならないと思いますが、
そういうころは「住宅を建てる土地を選ぶ」、
というような概念は、あまりなかったのではないかと思います。
それぞれの「生産労働」のための土地との関係の中で
ほぼ自動的に決まっていたのだろうと思います。
武家はその主君である殿様の居場所までの距離自体が、身分をあらわすものであった。
したがって、必然的に屋敷地は決まっていた。
農家は、その先祖伝来の土地、生産手段そのものに縛られて家を持った。
漁家は自らの漁業権の浜に建物を建てて住んでいた。
町人は比較的に自由であったように見えるかも知れないけれど、
商人は、体制が定めた「街割り」で、同業者が一定地域に居を定められていた。
はるか後年の札幌の街割りですら、そういう機能集中都市の考えがあります。
その配下の使用人、一般的な町人はその商家から遠くない
共同住宅・長屋に暮らしていた、というのが一般的だった。
交通の手段が徒歩の範囲に基本的に収まっていただろうから、必然だった。
あそこよりはこっちがいいかな、というくらいの
2~3の中からの選択くらいはあっただろうけれど、
そういう住むための土地選択の自由という概念はたぶん、なかった。
どうもそう思えます。

生きるための土地選択、というより大きな意味では、それが日本の戦争の
基本原因である、経済的欲望それ自体ではあったと言える。
そういう部分というのは、権力抗争の結果であって、選択の自由という概念ではない。
そういう武将同士の戦略部分って、たぶん、それぞれの条件の下で
誰が考えても、同じような結論に至ったような部類のことだったのだろうと思います。
伊達政宗は仙台をそういう土地と考えたし、おおくの地方権力者は
それぞれの条件の中でもっとも農業生産性の高い土地を
「血眼で」奪い合ったことでしょう。
秀吉は政治経済両面での日本制覇を考えて大阪を拠点とした、ということ。
ただ、秀吉が、家康に江戸を首府とすべきだとアドバイスした、
という歴史上の経緯は、たいへん面白いと思う。
なぜ、この土地に秀吉は着目したのか、ということはもっと研究されていい。
国の発展のポイントとして、首都の選定って
きわめて重要なポイントだろうと思うのですが、現代日本の
この点での選定作業って、この2人の時代までさかのぼって決定されているんですよね。
経済というものを相当敏感に扱っていた権力者、秀吉にしてみれば
関東の首府は、絶対に江戸でなければならなかったのでしょう。
そういう経済的発展の基盤を、かれはリアルに見定めていたのだろうと思います。
たぶん、かれの選定ポイントから推定すればやはり水利の優位性、
そして、耕地利用可能な後背地の広さというポイントが大きいのでしょう。
徳川政権崩壊時に、慶喜が江戸での戦争を考えもしなかったのは
江戸という都市が、防御的な性格を持たず、主に経済的な面での
「利便性」から選択されていた、ということを深く理解していたことも
大きかったのではないでしょうかね。
って、すぐに脱線するなぁ(笑)。

きのうから、「都市の快適」研究、みたいなカテゴリーテーマを考え、
このブログに書き留めていきたいと、はじめたところですが、
まぁ、ブログなんで、あっちこっち行きながら、楽しく考えをまとめられたらいいなぁと
のんびり行こうと思っています。
ブログって、結局は自分自身のために書き続けるものですよね。
さてさて、土地選びの基準って、どうまとまることやら・・・。

写真は、中国の巻物に描かれた墨絵のなかの住宅。
文とは無関係(笑)、ですね。
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都市という快楽環境

2007年01月03日 05時59分15秒 | Weblog

最近、いろいろと感じることで、一番興味を持っているのが
都市環境という、そのものの持っている快楽性ということ。
住宅という、それも注文戸建て、というのがリプランやわたし自身のフィールド
と思ってきたのですが、やはりそれを取りまく環境というものの影響力の大きさに、
いまさらながら、思いを抱かざるを得ないというわけです。

脳の研究者で、「バカの壁」でベストセラーを飛ばした養老孟司さんの
ご意見によると、都市とは人間の生み出した快適環境装置であり、
都市とそれを取り巻く周辺・田舎との関係は
脳と、他の体の器官との関係に似ている、ということだそうです。
人間の近代以降の歴史は、ひたすら都市化による類としての人間の快楽の追求であった、
というように、読み取らせていただきました。
まぁ、先生の御説はしっかり読んだわけではなく、
インターネットで読める範囲で知ったものですが、
先生のご意見ばかりではなく、今日の日本の状況、東京一極集中の進展による
「景気回復」「いざなぎ超え」というようなアナウンスの実感のなさ、を見るだけでも
十分に、体感させられる部分だなぁと、思います。

昨年、「ふるさと回帰フェア」みたいなものに参加したのは、
このブログでも触れたとおりです。
で、その会場がこれもまた、東京の都心・大手町だったのですが、
その会場に押し寄せる人の波を見ていて、
田舎の実態も知る側として、本音の部分では大きな疑問も感じざるを得ませんでした。
所得税とか、消費税とか、一応、税には地域間格差というのは存在しませんが、
その収受、配分の結果としての、富と快適性の格差は明瞭です。
単純に、東京が消費しているエネルギーの大きさに
快適性・快楽性は、はっきりと比例していると思います。
飛行機や、鉄道、公共交通手段の圧倒的な質量的快適感は比較のレベルを超えている。
都市内部の移動の快適性も、もちろん。
そして、そこで消費される文化享受にいたっては、他地域との比較など無意味です。
衣食住、といいますが、現代生活ではそれはたいした意味を持たず、
広い意味でのこうした「利便快適性」の方が、大きな問題です。

現代の都市というものが、もたらした人類史上でも希有な「快適性」というものを
もっときちんと把握する必要性があるのではないか、
こういう「富」の偏在、というものから、社会システムを再構築する必要があるのではないか、
そんな思いがどうしてもしてくるワケなんです。
大手町の「ふるさと回帰フェア」会場に、地下鉄駅からあふれ出してくる人並みを
会場側として受け入れながら、奇妙な違和感がわだかまっていったのですね。
もちろん、こういう都市環境がもたらすストレスというものもあり、
そのレベルも相当な高まりを見せていて、
飽和寸前であるという意見もそのとおりではあるでしょう。
しかし、総体としての都市性の貸借対照でいえば、
圧倒的に、この利便性の享楽のほうが巨大であることはあきらかでしょう。

戸建て住宅をほぼ中心的な興味分野として
出版をメインに活動してきているわけですが、だんだん、こういう部分が
実は、「人間・暮らしの快適環境」のなかで占める割合が
より大きいのではないか、と思いこむようになってきた部分があるのです。
まぁ、テーマが巨大なので、断片的にしか捕まえようがありませんが、
すこしずつ、ブログ書きながら、こんなこと、考えていきたいなと
ことしは考えはじめております。
さて、どんなところからはじめればいいのでしょうか、ね。ふむふむ。
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IT時代的除夜の鐘

2007年01月02日 06時53分50秒 | Weblog

どうもテレビを見続けるというのが出来なくなっているので、
最近は年末年始の番組って、あまり興味がありません。
そんななかで、わたしとしては、紅白が終わったあと、大体決まって日本各地の寺の
「除夜の鐘」を中継する「行く年来る年」が好きなんです。
っていうような人間、けっこういるものなんですね、
サンケイさんが面白い企画をやっていて
題して、「年末年始コンテンツ・叩けば鳴ります除夜の鐘」
というネット利用の企画をやっています。
期間限定とかで、1月いっぱいまでなんだそうですが、
http://event.sankei-digital.co.jp/nenmatsu-2006/jyoya/jyoya.html
これが面白い。
クリックすると、日本各地のお寺の梵鐘の音色が楽しめる。
まぁ、楽しめるっていうのは、罰が当たるかも知れませんが、
やっぱり面白い。除夜の鐘というヤツはその寺でしか聞けない。
大体がひとつしか聞けないのが普通でしょうから、
「聞き比べる」という楽しみが出来るのは、まず企画の勝利。
ひとに迷惑もかからずに、好きなだけ叩いて、煩悩を清めています。(笑)
叩いてみて、お寺によって、
こんなにも梵鐘の音色は違うのか、と再発見でした。
まぁ、デジタルなので、周辺の空気感、とでもいえるような
音の余韻、みたいな部分は感覚出来ませんが、
IT利用としては、中高年齢層をうまくターゲットにしていますね。
ビジネスとしてはどういう意味があるのか、???ですけど。

きのうは天候に恵まれて北海道神宮の参拝。
警備の警察のみなさんも大変だったことと思います。お疲れさまでした。
でも、マイクで「一番前の、テイダンだけ、入ってください」とかと、
アナウンスされまして、まぁ、なんとなくは理解できるけれど、
たぶん、軍隊的な用語なんでしょうね、
テイダン、なんて、ふつうは使わないでしょう。
なんだそれ、みたいな一般市民の反応がありましたね。(笑)
でも、そういう言葉を使ってでも、整理しないと大変なくらい多くの人出だったようです。
わが家も、娘の後厄の御祓いをお願いしたら
こちらも大賑わいで長蛇の列。慣れない巫女さんもてんてこ舞いでしたね。
あれって、みんなアルバイトだそうですから、ちょっと可哀想でした。
というようなことで、のどかな日本的年末年始休日を楽しんでおります。
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