三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

息子の友人たち

2011年03月21日 12時19分38秒 | Weblog






きのうは、息子の友人とその弟2人が
わが家にやってきて大騒ぎしながら、泊まっておりました。
中学校を卒業しての春休み、
羽を伸ばしたいのはわかりますね。
元気のいいこどもたちとふれあうのは楽しい。
夕食は、近くの(といっても、学区は違う地域)「焼き肉」店へ。
なんですが、評判の「おいしくて安い」お店は長蛇の列。
で、やむなく、そこの近くの似たようなお店へ。
90分1本勝負で、食べ放題ということで、
若さいっぱいの3人、わいわいがやがや、
大騒ぎしながら、気付いたら25人前くらいを平らげておりました。
でもまぁ、焼き肉だとそんなものかなぁ。
量よりも、時間定量性だと、大急ぎで食べることになって、
その分、あんまり多くは食べられないのではないかと思いました。
わたしとカミさんはひたすら、焼き肉焼き係。
旺盛な食欲にただただにこにことあきれかえりながら、
せっせせっせといそしんでおりました。
でもまぁ、50分経過くらいで、さすがにみんなお腹定量状態。
そこからは、カミさんとわたしの出番で、平らげておりました。

おかげさんで、夜中にはやや胸焼け気味。
毒掃丸を服用して、小康を得ておりました。
若さに付き合っていては、身が持ちませんね(笑)。
家に帰っても延々と坊主の部屋からは笑い声が響き渡っていましたが、
まぁ楽しいものであります。
でもまぁ、よっぽど積もる話でもあったようです。
今晩はきっとぐっすり寝られるでしょう。
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フクシマ50

2011年03月20日 07時17分18秒 | Weblog






福島原発。
連日のように危機が深まり、いまこの国の行く末が、
この1点に集中しているように感じられる。
大震災の被害の象徴として、
「日本がどうなっていくのか」の最大関心事。
現地で原発と向かい合い、戦っていたひとびとは、
地震発生後には800人いたが、
15日朝に4号機で火災があり、750人が退避。
監視などのために残った50人が、「フクシマ50」になった、とされる。
福島原発の状況は1日1日、刻々と状況が変化し、
その影響もいろいろに出てきているし、
この事故を受けて、今後のエネルギー政策がどう変化していくのか、
まったく不透明ではあると思う。
世界中が、注目してきているのも、
「では、大量エネルギー消費社会にとって原発なしの選択肢は、存在するのか」
という重い問題も含めて、人類の生存の根幹にかかわっていると、
本質的に理解しているからだと思われる。
だからこそ、世界中の人々が、この問題の象徴として、
現に今、その場所で驚異的な使命感と、職業的倫理、
そして任務に対する誠実を持って
「いま、できること」に努力している人々へ、
深い共感と連帯を示してきてくれているのだと思う。

15日時点の絶望的と思われた状況の中で、
しかしそこから、こつこつと、
その時点で可能なことに、わたしたちの社会の優れた部分は、
勇気を持って当たってきていると思う。
昨日の段階では、放水作業が一定の成果を見せてきているかもとされる。
使用済み燃料プールへの注水も見られたのだろうか。
東北電力の送電線からの電源確保作業も成果があったといわれる。
さらに6号機の電源も再起動を試みたら、立ち上がり
冷却作業が進み始めてきている、とされている。
うまくいけば、この危機に曙光が差してきたのだろうか?
一筋の希望が見えてきたように感じられる。

安定した社会の持続可能性を切り開く、最大の前提条件に対して、
このフクシマ50という象徴的命名に示された「世界の意志」に
わたしたち日本社会は、希望的未来を示せるのか。
このことで、わたしたちに今できることは、祈るくらいしかできない。
しかし、祈ることも、なにかの力にはなるかも知れない。
そう信じていたい。
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天災の歴史事実

2011年03月19日 10時54分03秒 | Weblog





なにげなく、日本史の「出来事」一覧を見ています。
基本は「日本の出来事」というWikipediaのデータをエクセルに取り込んで
その上で、その後、自分自身で書き込みを加えていって
重層的な事実や出来事の記録を作っていっているわけです。
だんだん、いろんなことを積み重ねていくと
そういう事実の相関関係も見えてくるようになるので、
複眼的な見方を養えるのではないかと思っている次第です。
そういうなかで、最近見ているのが、貞観津波のころのこと。

800年代後期気候の寒冷化
864年 富士山貞観大噴火
869年 陸奥大地震 貞観津波千人を超す死者
875年 渡島荒戎、秋田を襲う 秋田城の対北海道蝦夷の饗給の増大

っていうような記述を確認しています。
<いま、確認してみたら、Wikipedia本文にはないですね(笑)
その後、わたし自身での歴史研究でみつけたものですね。出典は、さてなんだったかなぁ・・・そうか、出典記録も必要ですね、これからの追加では>
歴史年代では、富士山は何回も噴火している。
平安時代の中期頃に相当しているのですが、
ここにある「貞観津波」というのが、今回の東北地方太平洋沖地震と
その後の大津波との近似性を指摘されているものです。
当時のヤマト政権の東北地方の「遠のみかど」多賀城の城壁が崩れ、
津波による死者が千人を超えた、とされ、
その地層的な証拠も発見されているそうです。
当時の(900年ころ)の東北の人口が60万人くらいという推計だそうなので、
その1/120程度の人口が失われた事態だった。
で、この津波は富士山の噴火がその6年前になっている。
連動関連性がどの程度なのかは分かりませんが、
歴史的には、こうした記録が残っている。

自然の大災害は、社会の構造変化を誘発するものでもあると思います。
その後の「渡島荒戎、秋田を襲う 秋田城の対北海道蝦夷の饗給の増大」
というのは、たぶん、北海道の檫文のひとびとが
秋田のヤマト朝廷側交易拠点を襲撃したということ。
そして、そういう圧力の元で
懐柔的な対応を、秋田城の側で行ったという記録なんです。
その後、「元慶の乱」という秋田での現地住民と北海道勢力も巻き込んだ
大きな戦乱が引き起っている。
今回の大地震・大津波、このころの争乱とはまったく規模が違う大混乱を
日本全域で巻き起こしつつありますね。


<写真は江戸期・天明飢饉の混乱状況絵図>
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危機と経済活動

2011年03月18日 06時38分17秒 | Weblog







大地震、大津波、原発危機、
大量死と救助活動、いのちを繋ぐ必死の努力。
出口の見えない状況に、いま、為すすべはないのだろうか?

やはり今回の事態は、太平洋戦争以来の国難だと見えてきた。
クライシスは、現に今進行している。
戦後の焼け野原の中の光景のような図が、そこかしこに見えてきている。
プロ野球の開幕を巡っても大きく揺れています。
25日というから、もう1週間を切ったタイミング。
被害がほとんどなかった地域がフランチャイズであったセリーグ側にとって
既定方針通りに開幕することは、自然であるかも知れない。
しかし、現実にこのまま、原発事故が終結できず、
停電が常態化していったときに
東京ドームで煌々としたナイター設備を使って
野球を行うことが、どういう光景になっていくか、
その社会的リスクは、かなり大きいものがあると思う。
今回の決定の声明文を見ると、
日本という社会が、世界に対してその安定性をアピールする、
というような論旨に貫かれていると思う。
いわば大義名分はそこにある、としていた。
これはひとつの決断であり、その推移を見るしかないと思う。
ひとは生きていくためにいろいろな経済活動を行わなければ生きていけない。
日本の経済にはさまざまな領域が存在し、
世の動きに連れて、そこにさまざまな栄枯盛衰がある。
安定した社会状況がその経済活動の前提である、という職種も存在する。
興業というビジネスにとっては、プロ野球の決断がどうなっていくのかは
まさに固唾をのんで見守っている状況でしょう。
危機の認識度合いもひとによって判断が違う。
今回のことは、一種の賭けではあるだろうと思います。
ここから1週間以内で、社会状況が変化しないとはいえない。
3月11日のカタストロフィから、よく考えたらまだようやく1週間しか経っていない。
まるで夢のように感じられる。
すべての光景が、まったく変化せざるを得ないことになってきた。
手探りしながらしか、
こういった状況の中では動き出せない。
経営的判断も、ほんとうに難しい状況ですね。
いつまでも茫然自失していられる企業は少ないでしょう。
さて、なにをどう取り組んでいくか、
まさにリスクと危機のなかの暗夜行路になってきたと思います。

<写真は、福島県相馬市の名産品販売所でのスナップ>
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今、できることを考えよう

2011年03月17日 15時35分33秒 | Weblog






建材メーカーの状況について
建材商社さんのまとめデータが送られてきました。
初期的な地震のダメージ、津波のダメージでやられたところも多い。
商品の倉庫、ストックヤードの製品も
そのまま出荷できない可能性があるそうです。
そしてそれ以上に、流通手段が圧倒的に限られている。
品薄になって、商品価格が上昇する、という事態もありそう。
さまざまなひとからの情報を総合すると
やはりここまで広域にわたっての被災想定が出来ていないので、
危機管理の能力でも、対応が出来ていないのだと思われます。
ようやく1週間掛かって、被害の全体像の輪廓が浮かび上がってきた。

さまざまな情報が錯綜している。
つぎつぎと明らかになってくる被災地現地の情報を整理しながら、
じゃぁ、こういった状況で、なにが可能なのか、
比較的、ダメージが少なかった北海道に住むわたしたちに可能なことは、
と考えて、スタッフと打合せをしております。
今は、やはりなにかの批判をするゆとりはないですね。
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子どものケータイ

2011年03月16日 06時43分22秒 | Weblog







きのう、わが家の坊主がなんとか無事に
中学校の課程を修了いたしました。
まぁそう大きくひねくれもせず、
父とも、ときどき腹を割って話すことも出来ているので、
いまのところは、円満な親子関係があると思っています。
もちろんときどき大声で叱ることもありますし
かれも反抗的な態度を示すこともあります。
しかし、なんとか、義務教育課程は修了です。
これからは、まだ学業を継続したい、という意志を示していたので
進学と言うことになります。
まぁ、それは行けるところに行くしかない。

そういうことはどうでもいいのですが、
きのう、親子で緊張関係が張り詰めました。
世間でよくあることでしょうが、ケータイの件であります。
以前、中学校進学の時にもケータイの希望は言われたのですが、
父としては、与えておりませんでした。
その折りに「少なくとも中学校では・・・」
というように言ったという経緯は確かにあったと思います。
子ども側としては、それは高校に入ったら、という期待値になったことは
ありえる展開だろうと思います。
で、父親としては、
ケータイはいいだろう、しかし、その使用に当たっての自己管理について
明確に自己責任意識を芽生えさせたいと
そのようにかれと向き合ってみているわけです。
費用の問題、使用用途の問題、インターネット接続のルールの問題などなど、
かれが自分自身で考えなければならないポイントは多い。
きのうはそういうことで、初めはブータレ状態から
自分の部屋で悔し泣き状態、
その後は感情アップアップ状態で、涙ながら状態、
で、ようやく落ち着いて話し合い状態まで、千変万化いたしました。
親としては、いい機会だと思って、じっくり話し込んでみた次第です。

結局、中学校を終わると言うことは、
これからは大人として扱っていくぞ、ということですね。
昔であれば、15歳は元服であり、
大人社会の仲間入りであるわけです。
そのときにあたって、親子の話し合いができたのは、よかった。
話が終わってから、いっしょにニュースを見ながら、
これからの世界、日本について、話したりしました。
かれが生きていく時代は、本当に厳しい時代だと思う。

ちょうど、震災後の瓦礫の山の中から、息子を探し続けている
老夫婦のことが流れていて、
その思いの痛切さに、思わず熱いものがこみ上げてなりませんでした。
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被災地からの連絡、14日時点

2011年03月15日 06時57分49秒 | Weblog





きのうは、大震災後の週の初め。
現時点での情報の集約と、直近の対策について打合せ。
東北で多くの案件を進行させていたので、
それらへの対策手当を考えていたのですが、
まずは情報からして、ようやくというレベル。
石巻在住のスタッフも、震災直後は会社事務所にいて連絡が取れていたのですが、
その後、一夜明けて自宅に帰ってから
ケータイの基地局が石巻周辺ではまったくダウンしていて
連絡がつかなくなっていたのです。
だったのですが、きのう、ようやく連絡がつくようになって
(会社車両で帰宅したので、そこからバッテリー充電できている)
その様子が伝わってきました。
スタッフのご主人は女川で被災し、
津波に追われながら、命からがらなんとか公共的コンクリート建物に逃げ込み
その屋上か、上階で救助を待っていて
ようやく助け出され、石巻に戻ってきたそうです。
お母さんは、勤務先の人たちといっしょに石巻市内の避難所に逃げ込んでいて無事。
その他の家族は、家にいて、中はぐちゃぐちゃだそうですが、
地震自体では、建物そのものは無事だったようで、全員無事。
きのうになってようやく、家族全員が家に帰宅できたそうです。
家族と一緒になれて、ライフラインはまったくない状態ながら、
とりあえず、生活再建のスタートラインには無事に立てたようです。
本当に良かった。
結果として、わが社のスタッフの家庭では、人命は失われませんでした。
本当に、奇跡的な部分もあって、話を聞いていて
胸が熱くなってしまいました。

しかし、まだまだ、取引先で安否の確認が出来ないケースが多数あります。
リアス式海岸線の数都市に多くの知人がいます。
胸がふさがれるような思いがこみ上げてきます。
知人は無事でも、ちょっと話を聞いたら、
その実家が津波で流されたとか、そういう状況が多い。
現在時点で、行方不明者が15,000人以上と発表されていますが、
まだまだ、祈るばかりという状況が続いています。
なにから、どう着手したらいいのか、
手探りしながらですが、
情報ラインも見通しがなかなか立たない。
仙台に行くにしても、いまのところ、ルートが確保できない。
支援物資の輸送ルートの確保もなかなかままならないのが現状のよう。
太平洋側の港湾がどの程度使えるのか、
仙台港の状況も、たぶん、石油コンビナートの火災の関係からか、
情報がまったく入っていない。
情報では、日本海側まわりの鉄道ルートは確保されたと言うことですが、
そこからは、たとえば秋田からどうやって仙台方面に行けるのか
石油は東北中央部では、入手がきわめて困難だ、というように言われています。
知人が、秋田から仙台の港近くに行けた、という話を聞きましたが、
一般道を通って8時間かかったということだそうです。
震災後初めての仙台駅構内、新幹線プラットフォームの映像が流れていましたが、
東北新幹線も、那須塩原までの運行を再開するという状況。
しかしそこから北方は、600箇所のダメージ箇所があるそうで、
資材と輸送ルートの確保の難しい中、
どれくらいで復旧できるか、まだまだ分かりません。
自治体職員自身も被災者、という状況の中、
情報の整理コントロールも、たいへん難しいのが現状のようです。
いずれにせよ、未曾有の事態、対応も本当に手探りしながらです。
しかし、みんな頑張りましょうね!

<写真はおとといと同じく、美しき気仙沼の06年の風景>
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敗戦と並ぶ民族体験

2011年03月14日 06時47分36秒 | Weblog






さまざまな動きが始まってきたと思います。
東京電力の「計画停電」がスタートする。
これは供給可能電力が3100万キロワットに対して、需要が4100万キロワット
という需給ギャップを解消するための作戦と言うこと。
その作戦が成就できるのかどうか、
きょうの推移がきわめて重要な意味を持つのだろうと思います。
朝から電車の運休情報が伝えられている。
首都圏に於いては、JR線も大幅な運休が発表されている。
電力の大口需要者に対しての説得が行われた結果の第1弾、ということでしょう。
それに限らずこのエネルギーを1/4カットする、という事態は、
いったいどんな社会になるのか、まさに未体験の社会に突入することを意味する。
そこでどんな変化が生まれ、どんな知恵が生まれてくるのか、
あるいは、絶望的な状況が生まれるのか、
まさに「やってみなければわからない」状況に突入していく。
原発の安全性についての疑念や危惧は当然だけれど、
わたしたちの社会は、それをすでに折り込んで営まれているのも
明瞭な事実として突きつけられている。
そして日本のエネルギーは、地震によって大きく変動してしまうのも事実だと言うことが
明瞭な社会変化として現れてこざるを得ない。
昔の政治家は、鉄は国家なり、と言ったそうだけれど、
今日世界ではまさに「エネルギーは国家なり」。

報道などでようやく、起こったことはなんであったのか、が
明瞭に見えてきたと思います。
今回の大地震の規模は、まさに世紀に数回程度しか起こらない規模の
地球的変動であり、わたしたちの社会に否応ない変化を迫っているのだと
ハッキリと認識しなければならない。
やはり、大地震とその後では、社会は大きく変化せざるを得ないと思われる。
その第1弾が、この「計画停電」の実践だろうと思います。
これがうまくいくのであれば、まずは第1歩をわたしたちは踏みしめられる。
エネルギー1/4カットが実現できれば、
今日の世界が求められている省エネ・省CO2をクリアすることも視界に入ってくる。
もちろん、緊急的対応だけれど、
本当に民族的規模で、「省エネ」ということに取り組む
世界初の国家・社会と言うことになる。
そこにどんな苦痛があり、困難があるのか、最大の学習機会だと思います。
日本社会は、いまフロンティアの立場に否応なく立たされたとも言える。
しかし、日本人の優秀さは、この時こそ発揮されねばならない。
なんとか乗り越えられれば、わたしたちは大きな自信を持てるのではないか。

わたしたちが解決すべき問題はきわめて多いと思う。
住宅建築という、わたしどもの領域でも、
今回の事態を受けて、本当に緊急に「なにを為すべきか」
論議を起こして、その対策を練り上げていかなければならない。
すでに、そういう動きに着手した人からの報告も受けている。
本当の、日本人のサスティナビリティを解決できる住宅とはなんであるのか、
大きなテーマに向かわなければなりませんね。

<写真は、北総研社屋>
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大地震、ようやく人の情報次々に

2011年03月13日 13時30分59秒 | Weblog






ようやく電気が通電した秋田から
知人の方から、情報が寄せられました。よかった!
秋田では、停電が続いていたけれど、大きな被害は見られなかったようで、
逆に、あした約束していたことで、
こちらの安否情報を心配されたりしておりました。
また、新住協の事務局も仙台の東部、国道4号バイパスに近い場所ですが、
内部はぐちゃぐちゃだそうですが、
スタッフは無事だったということ。
その他、いろいろなひとたちの安否情報やら、
連絡が入るようになって、いろいろな地域の様子が分かってきました。
建築的な被害状況はこれから明らかになっていくでしょうが、
まずは、生活基盤の立て直しに、みんな全力で立ち向かっています。
みなさん一様に、家の中はぐちゃぐちゃっていうことですが、
津波被害のあった以外の地域では、建物が倒壊するとか、
そういった意味合いは、そう大きくないように思われます。
それよりもライフラインのダメージが大きく、
道路や電気、ガス・水道といったライフラインの復旧が、緊急の課題だと思います。

ただ、今回の事態は、東北全域と関東の茨城に
広範に被害がわたったけれど、政府の側でしかコントロールできない
ことになっていて、情報の一元的収集にすら、大幅に手間取っていると思います。
東京霞ヶ関に一度情報を集めて、そこから各県に対策を協議する
というようなプロセスが目についていますが、
どうもそういう情報管理体制では、どこに誰を送るべきかの判断も出来ないのではないか。
仙台に政府機関の現地対策本部を置いて、
当面の間、枝野さんでも常駐させて管理させるべきではないか。
原子力保安院の「広報」のわけわかんなさを見ていると、
このまま、霞ヶ関の非効率でワケわかんない意志決定プロセスに、
今回のような国家危機に際しての機動的な判断は
出来ないのではないかと思われてならない。
ひたすら自分たちの官僚的領域での言葉的厳密性の世界に閉じこもり、
「で、どうすればいいのさ」
という結論については、意味不明の言葉をしゃべっている。
まさに、これが日本の再生にとって、一番の問題だと予感させてくれる。
非効率な情報管理のシステムから
もう少し、人間らしい価値判断が出来るシステムに
変更していかなければならないのではないか。
いま、東北全域の復興の対策を考えていくのに、
やはり現地対策本部のような地域主権組織に、大幅に権限を集約し移転して、
いまやるべきことはなんなのか、
目標を明確に出来る意志決定プロセスを確立すべきだ。

建築の世界で言えば、
あの津波被害を目の当たりにすれば、
耐震性能というのは一住宅建築の課題と言うよりは、
立地条件的に考えた「都市計画」が最優先に意志決定されるべきだと思う。
そこでは、最新の地震学などの知見を反映して意志決定すべきだ。
用途地域を明確にして、リアス式沿岸地域などでは
木造住宅の建築地域制限を考えるべきであって、耐震性能などをいくら上げても意味は薄く
いのちは違う理由で失われていることがハッキリしたと思う。
ああいう津波に、耐震性能をいくら向上させても
人の命とは関係がないのではないか。
津波被害に対する対策は、危ない地域に建てない、というのがもっとも合理的だ。
そんな思いが募ってくる。
呆然とした状況から、だんだん、「どうすべきか」に向かう必要がありますね。

<写真は、2005年の美しかった気仙沼の景色>
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大地震

2011年03月12日 08時10分10秒 | Weblog





なんとか、みなさん無事で生きていて欲しいと思います。
東北中のすべての知り合いのことが思い起こされて、
なすすべもなく、ひたすらご無事を祈っております。

地震発生後、仙台のスタッフと電話連絡が取れて
時々刻々と話し合ったり、情報を知らせたりしておりました。
2名の内、1名はなんとか家族と巡り会えて家に戻りましたが、
もう1名は石巻の在住と言うことで、
ようやくご家族と連絡もついたそうなのですが、
JRは不通で、たぶん、道路は信号も止まっているそうなので、
車で行くにも危険性も高い。
会社近くの避難所に入っている、という状況です。
まずは命に別状がないということで、ひとごこちがついています。
しかし、まだまだ全容の状況がまったく見えない。
東北中に多くの知り合いがいるし、
そのすべてのみなさんに、すべて連絡を取るわけにも行かない。
本当に心配です。

わたしも、きょう、夕方仙台に移動して
その後、岩手県・秋田県と用事があったのですが、
1日半ほどのタイムラグで、この大地震被害はまぬがれました。
そういうなか、日曜日の仕事先の方からケータイから電話もいただき、
当然ですが、予定キャンセルの連絡もいただきました。
まずは、状況の安定と把握が可能になることを祈っています。
被災されたすべてのみなさんに、深くお見舞い申し上げます。
とりあえず、安全の確保に、がんばってください。
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