わが家は、札幌市西区の琴似に近い山の手にあります。
琴似というのは、明治の開拓の頃には「屯田兵」の集住が行われた地域。
すぐ近くに通っている通り、琴似栄町通というのですが、
事務所は、この通りに面しております。
この通りに沿って、屯田兵の家屋が展開していたのだそうです。
琴似神社という、最近はパワースポットとして名前が知られるようになったという神社は
この屯田兵のゆかりの神社で、
友人が氏子に加わっていて、よく嘆くのですが、
この開拓の頃の上下関係が執拗に重視されていて、
いまでもそういう家格を席順などに反映させられるのだそうであります(笑)。
琴似というのは、開拓本府・札幌からごく近い位置にあり、
全国から集められた屯田兵のなかでも、かなり優遇されていたようです。
開拓当初割り当てられた宅地が150坪、農地が15000坪ということです。
これに、家屋は給付されたのですね。
その上、支度料が2円支給され、この地に来るまでの日当と旅費、
一日33銭の支給があったということ。
自給自足が基本の経済感覚の時代、米の値段が60kgで3.5円だったということです。
今日の社会のように、すべてが貨幣に還元される時代とは違い、
そう大きくは貨幣が使われなかったのですから、
このような条件というのはまことに恵まれていたといえますね。
わが家などは、大正の初年に自己都合で北海道に来たのですが、
そういう人たちとはまったく違った条件の有利さだったと言えましょう。
最初の内こそ、農地の転売などは認められなかったそうですが、
すぐに認められるようになって
無一文に近かった人々が、大きな面積の土地の所有者、
それも札幌にほど近い有利な土地を得られたのですね。
北海道の開拓の初期には、このような恵まれた運命の人々も多かった。
すっかり、そういう経済面のことに興味が行ってしまいますが、
写真は、住居の開口部であります。
ガラスがまだまだ、住宅に使われない時代、
木製で、このような開口部を工夫していたのですね。
保存されて残されている建物で、いまでもきちんと開閉動作する。
ちょっと、感動してしまった次第です。
職人さんたちの仕事ぶりには、感嘆させられます。