三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

屯田兵屋の開口部

2011年06月20日 05時05分18秒 | Weblog






わが家は、札幌市西区の琴似に近い山の手にあります。
琴似というのは、明治の開拓の頃には「屯田兵」の集住が行われた地域。
すぐ近くに通っている通り、琴似栄町通というのですが、
事務所は、この通りに面しております。
この通りに沿って、屯田兵の家屋が展開していたのだそうです。
琴似神社という、最近はパワースポットとして名前が知られるようになったという神社は
この屯田兵のゆかりの神社で、
友人が氏子に加わっていて、よく嘆くのですが、
この開拓の頃の上下関係が執拗に重視されていて、
いまでもそういう家格を席順などに反映させられるのだそうであります(笑)。
琴似というのは、開拓本府・札幌からごく近い位置にあり、
全国から集められた屯田兵のなかでも、かなり優遇されていたようです。
開拓当初割り当てられた宅地が150坪、農地が15000坪ということです。
これに、家屋は給付されたのですね。
その上、支度料が2円支給され、この地に来るまでの日当と旅費、
一日33銭の支給があったということ。
自給自足が基本の経済感覚の時代、米の値段が60kgで3.5円だったということです。
今日の社会のように、すべてが貨幣に還元される時代とは違い、
そう大きくは貨幣が使われなかったのですから、
このような条件というのはまことに恵まれていたといえますね。
わが家などは、大正の初年に自己都合で北海道に来たのですが、
そういう人たちとはまったく違った条件の有利さだったと言えましょう。
最初の内こそ、農地の転売などは認められなかったそうですが、
すぐに認められるようになって
無一文に近かった人々が、大きな面積の土地の所有者、
それも札幌にほど近い有利な土地を得られたのですね。
北海道の開拓の初期には、このような恵まれた運命の人々も多かった。

すっかり、そういう経済面のことに興味が行ってしまいますが、
写真は、住居の開口部であります。
ガラスがまだまだ、住宅に使われない時代、
木製で、このような開口部を工夫していたのですね。
保存されて残されている建物で、いまでもきちんと開閉動作する。
ちょっと、感動してしまった次第です。
職人さんたちの仕事ぶりには、感嘆させられます。
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家の整理整頓

2011年06月19日 05時57分50秒 | Weblog






今週末は、ひたすら原稿書きの日々であります。
まとめなければならないのが、3本ほどありまして、
幸いにして、じっくりと腰を落ち着けていられるので、進んではおります。
って、まぁ、そこそこには、です(笑)。

で、そういうことで、書斎を見回してみると
やや手狭な感じもしてきたので、
いまのところあんまり使っていないわが家の1階に移動しようかと。
わが家は以前、職住一体の兼用住宅だったのですが、
その後、仕事関係のスペースがどうにも手狭になったので
思い切って移転して事務所を新築した経緯があります。
したがって、残されたわが家は、無駄に広いということになっている。
1階で25坪ほどの広さが、ほぼ未利用の状態なんですね。
ちょうどいいからと、壁一面の本棚の整理からはじめて、
一日中、気のつくところをあちこちあちこち、
「あ、ここはこうしよう、あそこはこうしよう」
というように、楽しく整理整頓をしておりました。
その間、気晴らしに庭の、虫の食害にやられた葉物植物をレスキューしてやったり、
ということで、一日中、ハウスキーピング作業であります。
きらいではない。
北欧の人たち、家のことが大好きで、そのメンテナンスを楽しみにすると聞きますが、
わたしも、その人種のひとりだと確信いたしております。
おかげさまで、しばらくほったらかしにしていた本棚は
その様相がまことに綺麗になりまして、
自分とカミさんの趣味志向が如実にわかるようになっております。

でもまぁ、まだまだ整理しきれないものも多く、
途中経過ではありますね。
しかし、先日友人が来てくれたときに、
一部屋を麻雀ルームにしようか、という盛り上がりだったのですが、
そのメドが立ってきましたので、通販で卓を購入(笑)。
全自動は、すぐに壊れるのでメンテナンスが大変、ということで、
「やるんならやっぱり、麻雀は手積みだよ」
という意見から、格安のそういうタイプを手配。
いろいろと計画が進行して、楽しみが倍増して参りました。
あ、そうそう、
原稿書きだった、やばい、頑張らねば(汗、汗)。

<写真は故あって撮影の必要が出来た近所の「屯田兵屋」内部です>
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草戸千軒・英賀千軒

2011年06月18日 05時02分26秒 | Weblog




きのうの続きであります。
瀬戸内海世界では、とくに本州側・山陽地区、近畿地区は
瀬戸内海に向かって河川が、水運が流れ込んでいる世界。
したがって、この河口地域を抑えれば、
必然的に経済の物流を抑えることが出来る。
そして、その要衝地には必然的に常設の「市」が立てられ、
繁盛するようになる。
写真は、播州平野の西の際に位置する「英賀」の周辺河川の様子。
たしか、「夢前川」というロマンチックな名前。
この周辺は、「英賀千軒」という名前も残されていた。
播州平野や後背の中国山地のさまざまな生産物資がこの川を下って
瀬戸内海に出て、そこから大阪・堺に運ばれていったルートが
見えてくるようです。
同様に、広島県の福山市周辺の「草戸千軒」遺跡も、
こうした河川の中州に営まれていたのです。

で、わが家の遠いご先祖さんたちは、
こういう世界に生きていた方たちだったようなのですね。

遠く北海道から訪れてみると、
その陽光の照り返しのまぶしさにくらくらとしてきます。
ヨーロッパの地中海世界に出自を持つひとが、遠くスカンジナビアに移住したような
そういうことに近かったのだろうなと思います。
しかし、考えてみると、
ごく近しい存在として、高田屋嘉平のことも聞こえてくるわけで、
こうした世界は、遠く蝦夷地との「北前船交易」とも太いつながりがあった。
高田屋嘉平の全盛期には、この瀬戸内海世界は
空前の好景気に沸いていた、というようにもいわれています。
尾道などでは、そういう好景気の商人たちが
サロンを形成し、頼 山陽などの知識人を囲んでいたといわれます。
そういう雰囲気の中で、次第に「尊皇攘夷」という
アルコール純度の高いイデオロギーが形成されて、
幕末の動乱に繋がっていったのだと思います。
経済が人の世を作り、雰囲気を決定づけていく中から、
動乱が発酵していく、そんな夢想が沸き起こってきます。
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中世商業都市の風景

2011年06月17日 05時08分48秒 | Weblog






写真は、広島県福山市の歴史博物館のもの。
中世の瀬戸内海交易、というか、歴史年代に於いて
瀬戸内海世界がどのような世界であったか、
そういう姿を明らかにしているのが
「草戸千軒」遺跡です。
「千軒」という表現は、たくさんの商業者の集まり、というような意味合いで
多くは海洋や河川でなどの流通拠点に成立し、
常設的な「市」が営まれたに相違ない、日本における都市の原型。
この博物館では、「草戸千軒」遺跡の再現展示が行われているのです。
博物館というのは、どうやっても権力者側の歴史認識から自由ではないのですが、
この博物館の展示は、民俗学的であり、
政治的な時代区分とはまったく違った歴史認識をもたらせてくれる。
こういう窓を開けて外の様子を見るという空間体験をしていると、
つい親しい友人のことが思い起こされて、
この家にいて、零細商業を営んでいるわたしを
かれが訪ねてくるような、そういうシーンが目に浮かんでくる。
河川の中州という立地条件は、境界地域であって、
誰のものでもないという空間性を持っていたように思われます。
多くの人民が公地に縛り付けられて公民にさせられていた時代から、
こういった地域では、それ以外の生き方が日本人に普遍的に存在した。
歴史年代を通して、日本人にはこういう自由な生き方が
ある意味で、保証されていたものと思います。
商工業者という、非農民としての生き様が明瞭。
歴史を考えていく、ひとつの典型的な立場を体験できて
非常に興味深く感じた次第です。

また、単純に、こういう開口部って、なかなか味があるなぁっと。
しばらくこういう時空間に浸っていたいと思ったワケですね。
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ヤマボウシ

2011年06月16日 07時32分53秒 | Weblog







事務所の植え込みにはシンボルツリーとして
ヤマボウシを植えております。
新築当時は、植え込んだばかりであまり気付くことがなかったのですが、
最近、その成長ぶりに驚かされる日々であります。
事務所は、建ててから10年くらいになるのですが、
この木ばかりでなく、他の植え込みの木も
その成長ぶりが、大変実感されるようになってきた。
やはり時間の経過というのは、自然の営みというのはすごい。
当初は、園芸業者さんに造作してもらったので、
あんまり気にもしていなかったのですが、
メンテナンスを考えざるを得ず、手を加えている内に
愛着がどんどんと湧いてくるようになるもの。
任意に造作した植栽ですが、まるで子どものように
成長する内に自分の意志で大きくなっていくようですね(笑)。

で、ヤマボウシですが、
これが実にことしは美しさが際だっていて
印象がくっきりとしてきている。
緑の葉と、白い花のような葉のコントラストが美しく、
目に遠近感を訴えかけてくるかのようです。
冬には雪庇からの落雪に見舞われる位置にあるのですが、
そういう災いに負けることなく、たくましく咲き誇っている。
仕事は毎日、悩み事の絶えない日々ではありますが、
継続こそが力であると、そう語りかけてくれているかのようであります。
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腰痛とダイエット

2011年06月15日 05時06分37秒 | Weblog





 
ここのところ、食欲は育ち盛りの坊主と競争するように元気。
しかし、仕事では出張が多かったり、
お酒を飲むような機会が多い。
したがって、腹回りは順調に生育しておりました。
ゴルフにいっても、腹回りの筋肉がやや邪魔になってきて
腕はそうは落ちていないハズなのに
イマイチ納得できる球が飛んでいってくれない。
そういうところに、急激に体を動かしたところ、
腰に来まして、身動きに不自由な状態に。
ぎっくり腰の恐怖があるので、早めに整形に行ってきました。
レントゲンを数枚取られて、出てきたご託宣は、まぁ大丈夫。
湿布に鎮痛剤練りこみタイプのものを処方されまして、
それを貼って静かにしていたら、ようやく痛みが消えてくれました。

こういう経緯もあって、
というか、そういう雰囲気があったので、
先日からダイエットを開始しております。
カミさんのススメで、午後5時以降、食べ物を口にしない、
という方法であります。
当面は、5kgくらいは落としたいと思っておりますが、
さて、どうなっていくのか、頑張るしかないですが、
そういうブログなのに、探しだした写真はごらんの通り(笑)。
この間、おいしいフランス料理の出た結婚式で撮影したひと皿です。
こういう誘惑に決して負けないぞ、という決意表明か、
それとも潜在意識が、ついこういう写真を欲しているのか(笑)、
なんとも不安な先行きではありますが、
頑張りたいなぁ・・・。
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RC外断熱の威力

2011年06月14日 07時09分07秒 | Weblog





写真は、先日のアース21旭川例会の様子。
会場は北総研の会議場です。
この会議場は本体構造とはやや違って、
ここだけがRC造で、円形の壁で囲まれた空間になっています。
断熱も、外側でぐるっと回される外断熱です。
外断熱というのは、構造が蓄熱性を持った素材、
石系のコンクリートとか、コンクリートブロックなどを使って建てられた建物を
外側から断熱する工法であって、
木造には、適用されない概念です。
建築的には確立された工法であって、その内部環境の一定性、安定性は
非常に高いレベルのものがある。
ただし、ややお金がかかるということなんですね。
北総研にこういう空間があるというのは、これもなにかの意味を持って
作られているのでしょうが、
大人数の集会などで、人間の発熱などがあっても、
温度環境は、ほとんど左右されることがない。
この日は、旭川は最高気温が28度という高温。
なんですが、この中では背広を着用しなければならないくらいのやや涼しい気温。
日頃は木造の高性能化を考え続けているみなさんですが、
いっとき、この工法の安定性に浸っておりました。

北海道では、この外断熱工法について、
既存マンションの改修に応用して、国の「長期優良住宅先導的事業」に応募し、
昨年度で2棟のマンションが改修完了いたしました。
総事業費の1/3が補助されるということで、
こうした外断熱改修の一般への普及にはたいへん有効な事業だと思います。
全国の多くのマンションで外壁の改修などは日常的に発生していますが、
その時点で断熱も行われることになれば、
その省エネ性の向上は大変有意義だと思います。
北海道での既存マンション外断熱改修では、工事後、
そのマンションの資産価格が上がったということであり、
社会的な問題、賃貸に変わっていくことでの諸問題にも有効性がある。
ことしも長期優良先導事業への応募が予定されていますが、
今後、さらに地域的な広がりが大いに期待されるところだと考えています。
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倉本聰・富良野グループ公演「帰国」

2011年06月13日 07時16分29秒 | Weblog







きのうは富良野で、富良野グループの舞台公演
「帰国」を観劇して参りました。
私はこの舞台ははじめて見た次第ですが、
何度も全国キャラバンなども行われているという人気公演。

お話しのあらすじは、第2次世界大戦で
まったく展望のない戦争で、未来を奪われて「英霊」として
南海で海の藻屑になった旧日本軍兵士が
終電が去ったあとの東京駅に列車で帰国したという設定の、
ほんの寸時の日本社会との邂逅を描いたものです。
意図のわかりやすいテーマであり、
事実、ストーリーもそのように展開していくので、
ある意味では予定調和的な、そのようなものとして観ていたのですが、
不覚にも、もと恋人との邂逅を果たした兵士のふたりの会話のあたりで、
涙が流れはじめまして、
大団円に向かって、止まりませんでした。
この戦争によって、戦闘員170万人超、非戦闘員40万人が犠牲になった。
東京は大空襲によって焼け野原になった。
そして、多くの「英霊」たちは、南海に身を漂わせてしまった。
そうした風景が、今回の大震災の経験と重なって、
日本という国が、いくたびもこうした運命にさらされることかと、
そんな思いが募ってしまったのかも知れないし、
単純に、操を守りつづけた恋人女性との邂逅のシーンに
どれほどの「失われた日常性」が存在したのかと、
思いを致したのかも知れません。
かつての戦争では、そうした局面に外交を持って行ってしまった
そういう戦争指導、国家指導体制の問題がいちばん論議されるべきだけれど、
しかし、今回の震災とその後の「指導体制」の問題を見るに付け、
この国の指導体制は、根源に於いて変わっていないのではないかと
深く悲しみが襲ってきたのかも知れません。
そういう「日本」に対して絶望する気持ちが強いのだろうか。

いい芝居を観ると、こころがリフレッシュする気分になる。
そういう意味では、こんないい舞台を、こだわり続けて
富良野から発信し続けている倉本さんと、そのグループに感謝します。
楽しかったです、ありがとうございます。
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旭川の「北京」計画

2011年06月12日 05時26分24秒 | Weblog







最近知ったのですが、
旭川にはいくつかの変わった名前の街々がありますね。
御料とか、神楽とか、聖野とか、八千代とか、
皇室を連想するような名前がある。
ちょっと奇異な気がしていたのですが、
調べてみると、「上川離宮」計画、というものにたどりつきます。
開拓の初期、旭川に西の京都、南の奈良、東の東京と並んで、
北の京にしようという計画があったのですね。
閣議決定もされていたということですから、
本格的な話。
ところが、さまざまな思惑と経緯があって、実現されなかった。
写真は、上川神社敷地に建てられている案内です。
旭川というのは、北海道の最高峰、大雪山をはるかに遠望する
盆地上に幾つもの河川が流れている要地。
そのうえ、幕末・明治以来の仮想敵国・ロシアに対しての最前線基地的な地域であり、
日本の国家意識にとって、
枢要な位置関係にある街であるのですね。
明治の時代って、こういう国家意識が異常に沸騰した時代意識があったのですね。
こうした閣議決定に踏まえて
多くの人たちが旭川の発展を見越して
移住してきたりしたのだろうとも思います。
実際に明治末に、皇太子が旭川に行幸もしているそうです。
そうした結果、開発のスピードが速まった、という側面もあったそうで、
一定の政策効果はあった、というように言われています。
こういうエピソードからも、
明治の時代にとっての北海道の位置、というのは
やはりきわめて特殊性を持った民族的な認識だったのでしょう。
日本人の中に刷り込まれた「北海道」という地域への感覚の底には
こういったさまざまな歴史的事実が積み重なっているのですね。
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Q1.0NEXT_鎌田紀彦ゼミ

2011年06月11日 06時26分13秒 | Weblog






きのうは、伊達を早朝7時半に出て札幌に帰還。
10時から鎌田紀彦先生と仕事の打合せでお会いしまして、
その後、午後3時からは、今度は新住協の北海道のメンバーと
鎌田先生による、表題のようなゼミナールであります。
朝、先生とお話していて、
先生はあまり論文を書かれない、という件になって、
「え、どうしてなんですか?」
と当然の疑問として聞いたわけですが、
「あんまり、論文に意味を感じない」
「でも、学者的にはそういう評価対象が必要なのでは?」
「そういうものは、実践的には役に立たない。工務店と一緒になって
具体的な性能向上の作戦をあれこれやっているほうが、はるかに役に立つでしょう」
というお話しであります。
なるほど、そこまで思い切った立ち位置を思い定めているのですね。

で、午後から始まったゼミは、
まことに「実戦的」そのものの中身であります。
会員工務店からの現場納まりの工夫などに積極的に反応し、
「おぉ、それはなかなかいい考えですね」
というように、柔軟に取り入れていく様は実に圧巻。
「建築システム工学」という、日本でもはじめて開拓された領域で
パイオニアとして取り組んできた鎌田先生の独自性ですね。
高断熱高気密が、先生の基本的な研究領域ですが、
それもさることながら、このような「建築システム」という
現場理解が不可欠な研究領域で、先達のいないなか、
こういった実戦的な研究スタイルも編み出してきたのだと思います。
東大工学部の本流的な立場の研究者が
このように日本の在来建築工法に積極的に関わってきたのですね。
北海道は、こういう事実をしっかり把握し、
地域として、このような建築家の事跡を再認識していかなければならない。
そういう思いを強く感じながら、研究交流の様子を
聞き入っていた次第であります。

確かに、論文を書き続けるよりもはるかに
「創造的」な、実際の建築に役立っていく研究活動なのだと思いました。
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