三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

【江戸期大庄屋住宅建築の「防火対策」発見】

2017年10月11日 06時31分53秒 | Weblog


写真は先週日曜日に見学していた姫路林田の方の「三木家住宅」です。
こっちの家も、先日来ご紹介している「福崎・三木家住宅」と同様に
わが家の伝承にかかわっている家系のようなのであります。

で、見ていて驚いたというか、見たことがない光景を発見。
写真のように大きな根曲がりの梁が渡されているのですが、
その梁には、ご覧のように土が塗り込められているのです。
奥の方に行くと、2枚目の写真のような状況でした。
わたしもたくさんの「古民家」建築を見てきていますが、
こんなふうに横架材が塗り土で被覆されているというケースは見たことがない。
この建物は兵庫県の指定有形文化財であり、
公費を使って保存修理された建物ですから、きちんと考証され、
こういった内装仕上げも、きちんとした調査の上で復元施工されている。
見たことがなかったので、ボランティアの説明員さんに聞いたところ、
「くどで火を扱うので、そのために防火仕様にしている」ということ。
「くど」というのは、Wikipediaの記述では以下の通り。
〜京都などでは、竈(かまど)そのものを意味し、「おくどさん」と呼ぶ。
また、土間など住居の中で、煮炊きを行う空間そのものを意味することもある。
山陰地方などでは、煮炊きの設備を「かまど」、空間そのものを
「くど」と呼んで区別している地域も存在する。〜
ようするに台所空間のことのようです。
現代住宅では、法令で台所は「防火処置」がいろいろに義務づけられますが、
目的としては同じような機能を果たせるように工夫しているようなのです。
現代のように「不燃建材」などがあるわけではなく、
燃える木材を素地のまま使う建築材料しかない。
そこで「難燃性」を確保するためにこのように土塗りを施したようなのです。

ふつう、土塗り施工は脱落しないようにするために
小舞いといわれる下地の構成が不可欠になるのではないかと思われるのですが、
このような素地のままの自然木、根曲がり材に対してどのように土を展着させるのか、
そこまでは説明を確認できませんでした。
この住宅は「大庄屋」の住居であり、公的な施設としての側面もあって
多くのひとが参集する建物なので、
くど、かまども大人数のための大型のものが備えられている。
そういう意味で火災への備えもしっかりされていた、ということなのでしょう。
効果のほどや、施工方法などに興味を持った次第。
それと、ほかではあんまり見たことがないので、
なぜこの住宅でこんな技法が採用されたのか、理由にも興味を持ちました。
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【規格大量生産が駆逐した「高級住宅」個性的金具】

2017年10月10日 06時28分07秒 | Weblog


現代では住宅の「様式」は自由度が高まって、
用とデザインは一致していてシンプルであることが一般的。
いまは普通のこういうことは、しかし昔から一般的であったワケではない。
江戸期までの住宅というのは、身分制社会の制約から自由ではなかった。
門の作り方とか、建築表現についての制約が設けられていた。
建築自体の表面デザインについては、変える必要性を社会全体が感じていなかった。
建築はながく使っていく公共財として考えられて、
そういう部分では合理的な屋根形状、外観で建てられ続けた。
大切な資源を使って建てる以上、長期にわたって資産性が担保されることが重要で
雨仕舞とか、耐久性を第一に考えて安定的なデザインが志向されていた。

そういうなかにあって、比較的自由であった武家もしくは、
大庄屋といった身分制度上一番上位の高級住宅では、
写真のような建築金物、それも表に現れる金物についてデザインが凝らされた。
江戸初期の威信表現建築である日光東照宮の造営などでは、
左甚五郎などのような存在によって建具表現のデザイン性が高められていった。
いわば職人的な手工業の部分が発達したのではないかと思います。
写真は釘隠しや障子の取っ手の金物です。
クギを隠すというメンタリティも今の時代としてはよくわからない(笑)。
床材などでクギが浮いてきて足に引っかかるという機能的な不具合はわかるけれど、
こういった釘隠しは、やはりそうではなく工芸品的嗜好性。
この播州の大庄屋・三木家住宅ではデザインとして「もも」がテーマになっている。
2枚目の写真でもどうやらカタチとして「もも」が意図されているようです。
まぁ身分制社会で住宅建築は「様式」優先だったので、
嗜好表現はこういった部分に集中していったものでしょうか。
現代ハウスメーカー的家づくりでは「壁紙選択」にユーザー意識を向かわせるようですが、
江戸期ではこういった部分にだけ「個性表現」を集約したのか。
身分制度社会としての矮小化されたパーソナライズだったのでしょう。
しかしこういう職人的逸品生産が担っていた建築領域は、
現代ではほとんど顧慮されなくなってきた。
というか、こういったパーツは規格大量生産社会がもっとも得意な部分であり、
どんなに精緻なデザイン表現を作り込んだとしても、
どうせ鋳型で流し込むだけでしょうと、ユーザーからも見限られてしまう。
ものが乏しかった時代と、大量生産社会との認識の違いが
こういった嗜好性に明確に現れていると感じていました。

さて本日は日本の衆議院選挙公示と北朝鮮の労働党創立記念日。
ここ数日の狂想曲がどんな選挙模様になっていくか、注目ですね。
北朝鮮は、またなにかやらかしませんように。
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【縁側・中間領域デザインと高断熱高気密】

2017年10月09日 07時01分50秒 | Weblog


北海道の住宅で、いちばん渇望させられるのが、
写真のような「中間的領域」であります。
この写真のような「縁側空間」は日本文化の基本ではと思うのですが、
内側とも、外側ともいいがたい空間性を持っています。
空気としては外であって、雨をしのぐように屋根が差し掛けられる。
外なんだけど、濡れることはない安心感を持っているし、
ウチに籠もる閉鎖性ではなく、そとに向かっての「開放感」が感じられる。
日本人はこういう空間での「いごこち」を洗練させてきた。
この空間から庭に向かっての装置群には
さまざまな「意匠性」が主要な工夫進化が計られてきたと思われる。
また、この縁は簡易な「社交の場」でもあり続けてきた。
こういう場所にウチとソトから人が集って、茶や簡易な食で「接待」文化がある。
もっともこの空間から見える庭は、管理された内側的な外でもあり、
そういう意味では日本の住宅というのはいくつものレイアーが重なっている、
心理的にも建築的にも「レイアー」的な住装置であるともいえますね。

こういった生活文化空間を北海道住宅は持ちにくかった。
生存可能環境を作るためには厳しい冬期の環境から人間を守ることが
なによりも最優先条件であり、いわば内側の環境が充実する方向で
住宅の進化が計られてきた。
いま、北海道の住宅は技術的には無暖房住宅も可能ではあるけれど、
ひとのシアワセ実現の道としては、生活文化装置としての
住宅の高度化の方がより求められてきているのではないか。
そういうとき、この写真のような日本文化空間の実現ははるかに難しい。
内側での人間の「いごこち」は十分にコントロールできるけれど、
こういういごこちの住デザインはどんなふうに実現可能か、
そんな問いかけに対して、なにかの出口を求めているように思う。

たぶん北海道の住宅が多く取り入れた居間の「吹き抜け」には、
そんな願望が昇華されているのかも知れません。
空間的にこういった中間領域も「内側化」せざるを得ないなかで、
吹き抜けは、視覚的な「開放感」を上下方向に変換して実現させた。
建物を高断熱高気密化させることで、
抜き抜け空間を作っても上下の温度差をつくらない技術が確立した。
希望そのままではないが、いわば「擬制」的に心理的開放空間を対置した。
まぁさらに進んで温室風にインナーテラスのような空間に挑戦した事例もある。
いま北海道科学大学教授の福島明先生のご自宅では
天窓付きの広大な室内土間空間が実現していたし、建築家の藤島喬さんは、
ガラスで仕切ったボックスを居間から出入り可能な空間として作った。
ただ、一般化にはコストの壁があると思う。
これからの北海道住宅でさらにこういった空間にチャレンジしていく動きが
さらに果敢に出てくるものかどうか、
また逆に温暖地の家づくりも高断熱高気密に舵が切られてきて、
そういった住宅から、この中間領域的な空間性に方向性が出てくるのか?
こうした開放感の進化、ずっと密かに注目し続けています。
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【ニコニコ動画と既得権益メディア「エッジ」の違い】

2017年10月08日 08時24分26秒 | Weblog
さてあんまりふれないと決めている政治ネタですが、
今度の選挙でいくつか、メディアについて気付くことがあったので、
ご報告しておきたいと思って書くことにしました。

選挙が近づいてきて、インターネットの動画サイト・ニコニコ動画が
Yahooなどの協力も得て「党首討論」を昨日行った。
いまでも動画視聴は可能なようです。
そこではインターネットでの投票による「テーマ設定」が行われていた。
一般から寄せられた2大テーマ「安保問題」「憲法問題」が取り上げられた。
それぞれ28%という占有率だったと明示されていた。
いま、政権選択選挙を行う最大のポイントは確かにここでしょう。
いろいろなテーマはあるにせよ、国民が負託すべき主要テーマ。
これを受けて各党党首も「国益的論戦」を繰り広げていて好感が持てた。
その様子を見ていて、逆になぜこのテーマがこの半年くらい国会で
論議されなかったのか、まことに不思議でならなかった。
11月トランプ来日以降には、戦後70年以上を経て
日本がかつて経験しなかった周辺国安保事態の可能性が高まっている。
今回選挙は、同盟国としての信義・機密を守りながら、
周辺の無軌道国家からの安保危機をいかにして国民に語りかけ、信を問うか?
そういった「大義」をもった選挙だろうと思います。
論戦中では左翼系党派の党首までが、安倍政権の対米、対世界の安保努力に
敬意を払って論議していた。現在の世界情勢で日本の位置取りはおおむね正しいと。
そういった認識が少なくとも「党首」レベルでは共有されていた。
であるのになぜ税金をたくさん使って開く国会では安保問題論議がほとんどなく
「森友加計」がこうした論議に優先したのか?
不可解でゆがんだ政治状況を作ってきたのは既得権メディアだと思います。
それに対して、インターネット空間メディアは常識を持っている、
というか「民意」の所在箇所認識を間違えていない、と感じた。

一方で、既得権益メディアの大手ともいうべき朝日新聞では
選挙を睨んで「世論調査」を行っていた。
~朝日新聞社の世論調査、森友加計問題
「重視する41」「重視しない49」
http://www.buzznews.jp/?p=2111754 より要旨抜粋。
10月3・4日に実施したという朝日新聞社の世論調査結果が10月5日発表され、
そこでは衆院選において「加計学園獣医学部新設や森友学園への国有地売却問題を
重視しますか」という問いが含まれており、その結果はこうだった。
「重視する41」「重視しない49」~
さすがに「掲載しない自由」までは行使できず「僅差」だったという結果を出していた。
「明確な証拠」のない「忖度」とかのあげつらいを紙面を挙げて繰り返し
その上で満を持して繰りだした世論調査質問でなお、多数派からノーといわれた
朝日新聞のやるせなさがしのばれた。

さらに、これも朝日と同一論調だった毎日新聞の記事では以下のような記事。
加計学園問題の地元・愛媛2区ではほとんどの立候補者がこの問題に触れないという。
~愛媛2区 加計問題に沈黙 争点化、共産のみ<毎日新聞>
https://mainichi.jp/senkyo/articles/20171007/k00/00m/010/199000c
・・・愛媛県議時代に獣医学部誘致を推進した(民進党⇒希望)横山氏は、
計画を疑問視する民進党の方針に違和感を持ってきた。
希望の党の公認を得たものの、衆院選で加計問題に踏み込むつもりはない。〜

いかに国民や地元状況と乖離したメディア報道がなされたかの証明でしょう。
今回の総選挙では、こうしたマスコミメディアの作りだしてきた
「実は異常」な言論空間性について、有権者は自覚的でなければと思う次第。
新聞マスコミは私企業であり、どのような報道姿勢を取ろうが基本的に自由ですが、
しかし報道の自由というものと記者クラブ制度などの既得権益の
「情報専有権」を活用し事実上の「権力」として言論空間を寡占してきた。
しかしインターネットで言論空間の自由が大きく広がってから、
こういうマスコミ権力の状況が一般人に露わに表出してきている。
が、ふと気付いたらまたふたたび、現職都知事が「劇場型」の国政介入を行い
その「イメージ操作」を無自覚に大量拡散しているマスコミ状況もある。
ちなみにこの都知事は難解表現が好きなようできのうは「エッジ」が乱発されていた(笑)
確か先日は「アウフヘーベン(止揚)」と称して自らの独裁的専断を言いつくろっていた。
まだ印象操作報道にだまされ続けるのか、ということも今次選挙では問われると思う。
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【関西圏、どこへ行っても歴史だらけ】

2017年10月07日 14時10分24秒 | Weblog



さてきょうは更新がすっかり遅れました。
出張が続いていたので、雑務やらで平常回帰するのに時間がかかる(笑)。

きのう、写真上のように大判の地図を購入してきました。
縮尺50万分の1というヤツだそうですが、
行動してきた範囲を再度確認しながら「土地勘」を磨くべく、
壁に貼って常に眺めようと思う次第であります。
今回は西は姫路から東は滋賀県栗東市くらいまで、
さらに南北は北は京都市から南は和歌山県田辺市までの行動範囲。
主に歩いた東西南北で120km圏内ということになります。
ただし、田辺はほぼ点的に移動したので、実際上は南北70km程度。
こういう距離範囲と考えると北海道にそのまま持ってくると、
札幌と旭川の間が140km相当なので、そのエリア内になる。
この範囲内に北海道では人口は300-400万でしょうが、
関西圏の方では2000万人くらいにはなりそう。
人口密集度もケタ違いですが、歴史経緯にいたってはまったく違う。
北海道はアイヌ民族の遺跡などは少数ありますが、
それも墓地などの遺構が少数残っているだけ。
それに対して、関西圏はわたしのような人間にとってすら故地がたくさんある。
2枚目、3枚目の写真は兵庫県中央部の「三木市」の中国道PAの様子。
この街は、秀吉が攻城戦を仕掛けて陥落させた播州の城跡。
司馬遼太郎「播磨灘物語」では前半部分の大きな舞台。
司馬さんは本姓「福田」さんで、英賀城で先祖同士関わりを持ったらしい(笑)。
播州人にとってこの「三木攻城戦」は長く口伝された郷土の戦争譚。
司馬さんの調査では、明治になって庶民に苗字が許されたときに、
この播州では多くの人が「三木」姓を名乗りたいと申し出たとされています。
織田・羽柴の中央政府軍に対して播州一国を挙げて抵抗したことが、
播州人のプライド、アイデンティティになっていたようです。
高速PAにこんな現代マンガイラストが展示されていて、
これからも長くこの地の伝承が伝わっていくのだなと思わされた。
わが家系もこういった状況に関わってもいたようなので、
この地にはふたつの時間が重なり合うようにして流れていると感じますね。
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【体調の管理〜60代男の「爆睡」10時間】

2017年10月06日 07時28分58秒 | Weblog
出張が長かったので、さすがに60代男としては、カラダの芯に疲れを感じていた。
一昨日、自宅に帰れたのが午後9時くらいで
そこからカミさんとちょっと話し込んだりして、睡眠時間は4時間程度。
なので、やや寝不足ではあったのですが、
一転してきのうは早めに就寝、といっても早すぎの午後7時頃(笑)。
ところが今朝の目覚めはなんと午前5時前。睡眠時間10時間(!)。
寝るのにも体力がいるのだと聞きますが、
こんなに寝られたことに、われながらビックリであります。
まぁ、寝る前にはたっぷりと入浴もしていたこともありますが、
それにしても、こんなに寝られてうれしい。

新しい経験や体験は、心身には強い刺激になると思います。
同じ時間を過ごしたとしても、つねに新規の環境の中に入ると、
受動する情報量がハンパなく大きくて
そういった体験での摂取情報を整理整頓するには時間がかかる。
体力的な部分では疲れを残さないように心がけたとしても、
心理的、情報量的には、やはり整理整頓に疲労するのでしょうね。
幸いにして、きょうは金曜日で週末にさしかかる。
やっぱり、いろいろなことに時間をしっかりかけて、
カラダにもメンテナンスをかけてみたいと思っております。

写真は兵庫県の東端、西宮市にある「神呪寺」から大阪平野を
一望の下に眺望した様子であります。
この寺は空海さんの開闢した真言の寺だそうです。
空海さんって、あちこちでこういう「自然との対話」みたいな寺を作っている。
宗教と建築という視点から見たときには、
こういった山岳宗教的な「体感型」仏教、密教思想として
日本人に刷り込んでいった先覚者だったのではないかと思っています。
たしかに巨視的な視点が得られるのは見えるとおり。
こういう体験を自らの宗教的な説得材料として活用したのでしょう。
寺院建築は、やはりこういった「利益」をもたらすための即物的装置。
このように一望できる地域の中でどんな作戦を立てていくか、
そのあたりも、じっくりと時間を掛けてみたいと思っています。
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【関西と北海道の絆、距離感とコスパ】

2017年10月05日 07時16分55秒 | Weblog


きのう関西から北海道に帰還いたしました。
今回の往復はスカイマーク利用で神戸ー北海道の往復。
所要時間片道:1時間50分
距離:1072.0km
料金は事前に申込みできたこともあって、往復で22,800円。
一方、関西で久しぶりに会った関東の方の利用交通は新幹線。
こちらは、東京ー新大阪で所要時間:2時間30分
総額:29,900円・距離:552.6km。

関西出張には東京からはほぼ新幹線利用しかないでしょう。
たしかにすぐに都心アクセスが得られる利点はあるでしょうが、
移動交通コスパ的には北海道もまったく遜色がない、というか
はるかに有利な条件に恵まれているということが言えるでしょう。
さらに神戸空港からは、ポートライナーで三宮ー大阪移動で
所要時間 41分 距離 38.8km 総額 740円
ということなので、ほぼ東京都内移動時間と大差がない。
滋賀県の大津まででも100km以内の距離。総額 1,820円。
こういった移動スパン、コスパ範囲であるのに人口が2,500万集結している。
域内での移動交通も、高速道路網充実はハンパないので、
適格なカーナビさえあれば、バリアを意識することは少ない。
ただし、レンタカーはやっぱり軽がいいでしょうね。
なんといっても道幅が1間道路も多いので、どんなところにも行くと考えたら
小回り最優先で考えた方がはるかに行動的。
当然、コストもそっちの方が有利。
東京、関東のひとが大阪に移動するよりも
北海道の人間が移動する方が、コストも時間も有利だと言うこと。

今回、このような「市場環境条件」を体感することができました。
こういったメリットを活かして、北海道の企業が関西圏とつながっていく、
そういったチャレンジに大いに意を強く持った次第です。
逆に、北海道人には大きなフロンティアが関西とも言えますね。
さらに関西の人たちは面白くて、みんな魅力的。
半分くらいは関西弁が口に出てきそうになっておりました(笑)。
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【世界最古の建築会社・飛鳥時代からの金剛組】

2017年10月04日 06時18分03秒 | Weblog
同社HPよりの「沿革」紹介。
〜聖徳太子の命を受けて、海のかなた百済の国から三人の工匠が
日本に招かれました。このうちのひとりが、金剛組初代の金剛重光です。
工匠たちは、日本最初の官寺である四天王寺の建立に携わりました。
重光は四天王寺が一応の完成をみた後もこの地に留まり、寺を護りつづけます。
創業 飛鳥時代第30代敏達天皇7年(西暦578年)〜

こういう会社が存在するということははるかに聞いていた。
1400年以上の社歴を持った「会社」が。
北海道でこういった木造建築に関わる仕事の周辺にいるものとして、
どうしても言い難く惹き付けられるものを感じる。
ということで、昨日時間の合間を見て大阪・十三にある
「高松建設」本社を訪ねておりました。
このコンクリート建築ゼネコン企業が、社寺建築の金剛組を傘下に治める企業。
これはビジネスと言うよりも、純粋に住宅雑誌編集者としての
興味とある種のリスペクトに動かされてのことです。
ちょうどこの高松建設さんも「創業100周年」という祝賀の最中のようで
お忙しいなかでしたが、お話しをうかがうこともできました。

日本の建築文化の中で、やはりある種のベースは
こういった渡来人がもたらした宗教建築が存在するのだろうと思います。
たしかに聖徳太子の時代、東アジア世界の基本文化を受容するときに
寺院建築はまさに「最先端技術」であったのだろうと思います。
それまでの素朴な建築、たとえば伊勢神宮などの建てられようからすれば
大胆でキッチュなデザイン表現に満ちた仏教建築は
驚きを持って多くの人々の心象に染みわたったに違いない。
その空間の中で、聞いたこともない楽器による音楽や読経が奏でられた。
さらに麻薬とも思われる「香」が炊き込められた。
釈迦の言う境地とはこれかという認識がこうした演出とともに広がっていった。
そういった全体が「文化」として日本社会に染みわたっていった。
建築はその先端で重要な表現を担う分野として認識されたに違いない。
権力側にとっては、なぜ自分が支配者であり得るのかを
この「文化」の中心的担い手であることを通じてイメージを広めたのでしょう。
大和朝廷権力が全国支配を行っていく草創期で、
この金剛組のような「建築会社」の果たした役割は大きかっただろう。
北海道から来て、こういう「会社」がいまにあっても生きているという
現実を見せつけられると、人間営為の積層ぶりに驚かざるを得ません。
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【いごこち以上に権力が求めた「安全保障」住宅性能】

2017年10月03日 06時34分22秒 | Weblog



きのうご紹介した兵庫県福崎の「三木家住宅」続報です。
たっぷりと「取材」したので、いろいろなテーマが見えていました。
ふだんの住宅取材では気付かないような側面についても気付きが得られた。
それはたぶん、他人とは思えない建て主への思いが強く
普通はスルーするような点にもセンサーが働くのかも知れません。

そういう気付きの中のひとつが、住まいの「防犯」というか、
政治軍事的「安全保障」に関するポイントであります。
この家は江戸期の藩の「大庄屋」の邸宅であるワケです。
当時の社会にあっては、こういった階級的存在は経済運営の中核的権力。
経済に関する権力装置なので、一般庶民との接点が多く、
基本的には一般に「開かれた」関係性をもって構造されている。
ところが、経済的政治的危機が進行すると、
「打ち毀し」などの民衆反乱の武力対象になりやすい。
被支配階級からは悪の権化のようにみなされたり、
不正義な財の集積そのものとみなされることが多いだろうと思われます。
事実この家では、3枚目の写真のように「一揆による刀傷」まである。
この傷は、幕末の混乱さめやらぬ明治初年、全国で発生した一揆のときのもので、
この地方でも起こった「播但一揆」の戦争痕跡だそうです。
そんなことが見えて、平和な現代では普通そう大きなテーマにはならない、
防御性能、安全保障性能というものに気付かされた次第。
1枚目の写真はよくある床の間の様子ですが、
この家ではなんと、白壁が「和紙」で造作されている。
この部屋はきわめて公的な性格の強い貴賓室ともいえる場所で、
藩の大名本人が来たときなどに使う「間」なのです。
今日の平和な世とは違って、江戸期という社会は基本的には
権力はその「暴力性」で成立していた時代。
その権力者は常に身の安全を考えていたとされている。
万一、この家に逗留していたときに襲撃者がおそってきたとき、
この和紙の壁を突き破って、避難するルートを確保させる狙いを持っていた。
さらにこの家の他の場所には秘密の地下脱出通路などもあった。
建具などでも巧緻に施錠構造が考えられている(2枚目写真)。
なかなか現代人には想像しにくい役割、機能が住宅の目的にあったことが、
この家ではかなり濃厚に見て取れたのです。

そのように考えてきたとき、
日本の家屋文化発展が長く「いごこち」についての性能配慮をせずに、
ひたすら「開放性」を旨としてきたことについて、
こういった権力構造、支配構造が住宅技術進化に大きく影響したのではと気付いた。
江戸期の「住宅規制・制約」の影響が建築文化にも見えるのは周知のことでもある。
住宅の技術もまた、社会のニーズに即して発展を見せるもの。
家の寒さを「堪え忍んで」までも、身の安全を最優先させていたのかも。
まだ定かとは言えないけれど、このことはあり得べきことではと
ひとり想像を巡らせていた次第です。どうなんでしょうか?
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【兵庫県福崎「三木家住宅」を多角的?徹底取材】

2017年10月02日 06時02分58秒 | Weblog


いまわたしは関西に深く潜行しておりまして、あと数日はこちら。
さすがに日曜日はご迷惑になるので、いろいろ仕事活動はできませんでした。
で、かねて念願であった表題の古民家・三木家住宅を探訪していました。
この福崎の三木家さんというのは、わが家の家系伝承で秀吉の頃の時代に
枝分かれした遠縁の親族のようなのであります。
こちらの建物は平成22年から修復工事が行われてきて、
今年春になってようやく主屋部分が完成を見て一般公開されはじめた。
これまでも関西・瀬戸内を訪れる度に数回、工事中を訪ねてきています。
一度など、出雲大社から高速で神戸空港まで帰るレンタカー運転中、
みるみる急激にガソリンが切れてきて、大あわてで中国自動車道を下りて
GSに立ち寄ったら、なんとそこは「福崎」で、この三木家住宅の裏手(!)。
さらに一昨年もここを訪問しないで神戸空港から帰ろうとしたら、
高速道路でまさかのパンク事故になってしまった。
「せっかく近くまで来ているのに、なんだ、
どうしてウチに寄っていかないんだ」とご先祖さまから言われているかのよう。
どう考えても、縁が深いのではないかと思われてならないのです(笑)。

そんな三木家住宅、今回WEBで調べてみたら、
無事に修復工事が一段落して、主屋が公開されているとの情報。
さっそく謹んで取材させていただいた次第。
この建物は兵庫県の「指定重要有形文化財」になっていて、
公費や募金などで工事費を捻出して保存工事が行われたということ。
結果として、県の調査でこの建物は1705年の創建と判明。
桁行11間、梁間4間という主屋ほか9棟の建築群の「住宅」です。
約300年という年代が刻まれた住宅ですが、
その間、この地域が生んだ日本民俗学の祖、柳田国男さんが、
三木家住宅に保存されていた4000冊の蔵書を1年間にわたって耽読して
かれの民俗学の素地を形成したという経緯、事実もある。
「・・・土蔵風の建物の2階八畳には多くの蔵書があった。わたしは子供のことだから
自由に蔵書のあるところへ出入りして本を読むことができた。(中略)
わたしの雑学風の基礎は、この1年ばかりの間に形作られたように思う。」
<柳田国男「故郷七十年(幼時の読書)」より抜粋。>
と書かれていて、そのことの恩義を語られています。
まことに先人たちの息づかいが迫ってくるような「住宅」取材であります。
日本のある部分の発展にとってわが三木家も多少なりとも繋がっている、
そんな思いがして、感無量の部分があるのですが、
まぁ、この建物が建った頃には、現在の広島県尾道周辺にわたしの直接家系は
移転しているので、他人ではないけれどまことに遠い親戚のお話。
ただ、今回の取材でわが家の位牌にも名前が出てくる同名人物を発見した。
それも生存年代がきわめて近接しているし、人生素描も輪廓に相似がある。
尾道周辺とこの福崎は、距離では約180kmほど。
ただし、瀬戸内の海運とこの地周辺の夢前川水運を利用すれば、数日の距離。
播州大庄屋と、方や尾道商家、なんらかの人的交流はあったとも考えられる。
いや、商品の売り買いなどで当然、血縁を頼ったりもしたのではないか。
・・・っていうような、住宅取材なのか先祖探訪なのか、
どちらともいえない、不思議な興奮に包まれた一時を過ごしておりました。
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