つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

津幡町に残る昭和の大横綱の面影。

2013年01月11日 07時49分41秒 | これは昭和と言えるだろう。
「今日の一枚」は「味処 大鵬」。
新・津幡小学校校舎近く、県道59号線・津幡北交差点角に建つお店だ。
ネット検索してみると「つばた鍋」なるメニューがあるらしい。

河北潟干拓地の牛乳。(ホリ乳業か?)
津幡町内の加賀みそ(舟田味噌か?)と酒粕。(久世酒造か?)
3つの調味素材をベースに、地物の白菜やタマネギ、シイタケなどの野菜に、
タラと豚肉、鶏肉を盛り込んであるそうだ。
店主は、食による町おこしを目指す集まり「津幡美食倶楽部」の仕掛け人で、
今では割烹・和食などの料理店として知られている。
しかし、かつて、僕がまだ子供だった頃は所在地も異なり、
「寿司」をメインに据えていた時期があったように思う。
ともかく開業から半世紀を数えるここは津幡町の名店だが、
その名前の由来は、大相撲の名横綱ではないだろうか?!
…昭和30年代、こんな流行語があった。

『巨人 大鵬 玉子焼き』

いずれも当時の子供達が好きだったものばかり。
食を取り巻く環境が今ほど充実していなかったから、
玉子焼きは家庭料理の定番でありご馳走だった。
野球界は、長嶋・王の「ONコンビ」が全盛期。
日本シリーズ9連覇へ驀進中のいわゆる「V9時代」である。
大相撲では「柏鵬時代」の幕が開いた。
剛の「柏戸」に、柔の「大鵬」。
傑出したタレント2人による名勝負を中心に大相撲は黄金期を迎える。
特に「大鵬」は優勝32回、6連覇2回、45連勝の実力者であり、
日露混血の甘いマスクが国民的な人気を呼んだ。

店名が「玉子焼き」では、専門店と間違えられかねない。
「巨人」では、大仰に過ぎる。
大らかで、気風がよく、豪快なイメージを活かすなら…やはり「大鵬」だろう。
納得のネーミングなのだ。

…ところで、残念なニュースを耳にした。
大鵬をはじめ、プロレスラーとして大活躍した関脇・力道山や
幕内・天龍らを輩出した「二所ノ関部屋」が
今年の初場所を最後に閉鎖される事になったらしい。
代替わり後の近年は、関取を送り出せず弟子の数も減少。
親方の長期入院中で、部屋の運営が難しい状態となり、
角界の名門は土俵を下りる。

        

※2013年1月19日、追記。

第48代横綱・大鵬の納谷幸喜(なや・こうき)さんが、
19日午後3時15分、心室頻拍のため東京都内の病院で死去した。
72歳だった。

中学卒業後に営林署に勤めていたところをスカウトされて二所ノ関部屋に入門し、
1956年秋場所初土俵。
59年春場所後に18歳10カ月で新十両。
60年初場所には19歳7カ月で新入幕。
その場所で12勝を挙げて敢闘賞を受賞した。
同じ年の九州場所で初優勝し20歳5カ月で大関へ。
61年秋場所には、柏戸との優勝決定戦を制して柏戸とともに横綱昇進。
71年初場所で32回目の優勝を飾る。
同年夏場所5日目に貴ノ花(元二子山親方・故人)に敗れて引退。
一代年寄「大鵬」を襲名し、大鵬部屋を起こした。
80年2月から96年1月まで日本相撲協会理事。
05年5月に協会を定年退職後は相撲博物館長を務め、
09年には相撲界で初めて文化功労者に選ばれた。

輝かしい業績を遺して稀代の名横綱は人生という名の土俵を下りた。
合掌。
コメント (2)
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