きのうの夕方、晴れ間を突いて散歩に出かけた。
行き先は、津幡町の井上地区。
平成に入って造成された「ニュータウン井上の荘」には
整然とした町並みが広がっているが、
旧市街は街路が狭く、立派な卯建や鬼瓦を備えた農家が迫り歴史を感じる。
その中をプラプラと歩いていると、高札を発見。
撮影場所は「医師(くすし)神社」の鳥居横。
社については、2010年8月10日の投稿、
または津幡町観光ガイドHPを参照してもらいたい。
今日の眼目は、鳥居横の足元に転がる「バンブチ石」だ。
高札の内容を紹介しよう。
『バンブチ石(力石)
バンブチ石は力くらべに用いた石である。
バンブチは全国各地の集落で盛んに行われていた娯楽の一つであるが、
戦前までは五斗俵(七五kg)を担ぐと一人前の男性に認められ、
大人の仲間入りができたという。
川尻区あるバンブチ石はイバラ石やコロコロ石、カメ石などと呼ばれ、
重さは九三kg~一五八kgをはかる。
かつて若衆が力くらべや鍛錬に用いたもので、
郷土の娯楽文化を物語る歴史資料である。
平成二十四年 井上地区』
(※看板原文ママ)
バンブチは「盤持ち」あるいは「番持ち」の字を充てるらしい。
記述にあるとおり、農作業における鍛練と、集団内の通過儀礼を兼ねていたようだ。
往時には、祭事の折などに近隣の若衆達が境内に集まり、
男衆からは厳しい視線を、女衆からは艶っぽい視線を浴びつつ、
石を持ち上げていたのだろうか?…などと想像を膨らませること暫し。
やがて歩を進めるうち、別の高札に行き当たる。
津幡町立井上小学校、井上保育園など公共施設の近く「真田蓮成居士碑」である。
こちらも高札の内容を紹介しよう。
『蓮成翁は天保十年(一八三九)、川尻村に生まれる。
十歳頃より津幡村清水の神職加藤氏に書を習い、
洞庭善教氏より書経を学ぶ。十五歳ごろより子供たちに書を教え、
自らも金沢へ出かけて前田家の書家橘氏につき書の修練に励んだ。
平生から慈悲心が篤く、その善行は村氏から大いに敬慕された。
なお傍らに建つ追憶碑は生前蓮成翁と親しかった文士たちが翁を偲び、
詠んだ歌である。
平成二十四年 井上地区』
(※看板原文ママ)
翁の存命中は、寺子屋・指南所の類でもあったのだろうか?
行間から人徳の高さがうかがえる。
残念ながら追悼歌は掲載されていない。
また、石碑に目を向けても迫る夕闇のため判読できなかった。
またの機会に探ってみようと思う。
行き先は、津幡町の井上地区。
平成に入って造成された「ニュータウン井上の荘」には
整然とした町並みが広がっているが、
旧市街は街路が狭く、立派な卯建や鬼瓦を備えた農家が迫り歴史を感じる。
その中をプラプラと歩いていると、高札を発見。
撮影場所は「医師(くすし)神社」の鳥居横。
社については、2010年8月10日の投稿、
または津幡町観光ガイドHPを参照してもらいたい。
今日の眼目は、鳥居横の足元に転がる「バンブチ石」だ。
高札の内容を紹介しよう。
『バンブチ石(力石)
バンブチ石は力くらべに用いた石である。
バンブチは全国各地の集落で盛んに行われていた娯楽の一つであるが、
戦前までは五斗俵(七五kg)を担ぐと一人前の男性に認められ、
大人の仲間入りができたという。
川尻区あるバンブチ石はイバラ石やコロコロ石、カメ石などと呼ばれ、
重さは九三kg~一五八kgをはかる。
かつて若衆が力くらべや鍛錬に用いたもので、
郷土の娯楽文化を物語る歴史資料である。
平成二十四年 井上地区』
(※看板原文ママ)
バンブチは「盤持ち」あるいは「番持ち」の字を充てるらしい。
記述にあるとおり、農作業における鍛練と、集団内の通過儀礼を兼ねていたようだ。
往時には、祭事の折などに近隣の若衆達が境内に集まり、
男衆からは厳しい視線を、女衆からは艶っぽい視線を浴びつつ、
石を持ち上げていたのだろうか?…などと想像を膨らませること暫し。
やがて歩を進めるうち、別の高札に行き当たる。
津幡町立井上小学校、井上保育園など公共施設の近く「真田蓮成居士碑」である。
こちらも高札の内容を紹介しよう。
『蓮成翁は天保十年(一八三九)、川尻村に生まれる。
十歳頃より津幡村清水の神職加藤氏に書を習い、
洞庭善教氏より書経を学ぶ。十五歳ごろより子供たちに書を教え、
自らも金沢へ出かけて前田家の書家橘氏につき書の修練に励んだ。
平生から慈悲心が篤く、その善行は村氏から大いに敬慕された。
なお傍らに建つ追憶碑は生前蓮成翁と親しかった文士たちが翁を偲び、
詠んだ歌である。
平成二十四年 井上地区』
(※看板原文ママ)
翁の存命中は、寺子屋・指南所の類でもあったのだろうか?
行間から人徳の高さがうかがえる。
残念ながら追悼歌は掲載されていない。
また、石碑に目を向けても迫る夕闇のため判読できなかった。
またの機会に探ってみようと思う。