つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

津幡町に新年告げる鐘の音。

2013年01月01日 21時12分04秒 | 日記
新年明けましておめでとうございます。
本年も拙ブログをよろしくお願い申し上げます。

…さて、2013年最初の「今日の一枚」は、除夜の鐘。
昨年大晦日、除夜の鐘を突きに行って来た。
二度助走の後、大きく引いて掌を離れた綱は、釣鐘にヒット!
ゴォォォォォォォンンンンン…。
深夜の町内に荘厳な音が響いた。

舞台となったのは津幡町・加賀爪の弘願寺。
ここは度々投稿してきたとおり、津幡町の歴史に残る古刹である。

『津幡川左岸のおやど橋手前にある弘願寺(ぐがんじ)
 (=浄土真宗東本願寺派)は、一向一揆時代には
 津幡町笠谷地区の鳥越区にありました。
 1580(天正8)年 に織田信長(おだ・のぶなが)勢の
 佐久間盛政(さくま・もりまさ)が能登の末森城攻略の途中、
 鳥越弘願寺を陣営にしようとしましたが断られたため、
 寺が焼き払われ、後にここ加賀爪に移されました。
 かつての宿場町、津幡宿があった旧北陸道沿いに建つ弘願寺は、
 その当時、脇本陣的な役割を担っていました。
 加賀藩前田家の歴代の殿様は本陣(ほんじん) 御旅屋(おたや)に
 お泊まりになり、その家来たちは同寺院に泊まったそうです。
 1878(明治11)年には、明治天皇が北陸巡幸(じゅんこう)
 (=天皇が出か けること)の際、同寺が昼食休憩所となりました。
 当時の御座所(おましどころ)は1880(明治13)年の火事で
 焼けてしまい、現在は残っていませんが、 その記念碑が境内に建っています。
 同寺院の境内から裏手の遊歩道に出ると、
 おやど橋や対岸の家並みが一望できます。
 また、付近には俳人河合見風(かわい・けんぷう)宅跡「長寿庵」や、
 商家「八尾屋(やつおや)」の古民家が残っています。
 津幡町ではかつて、約400年の歴史を誇る八朔相撲(はっさくずもう)が
 行われていましたが、1969(昭和44)年にその幕を閉じました。
 この八朔相撲は、天正年間(1573~1592年)から
 慶長年間(1596~1615年)にかけて、近郷近在の祭礼などで
 盛んに行われていた草相撲が始まりといわれています。
 当時は旧暦8月1日に、同寺院や清水八幡神社の境内、
 津幡小学校の旧校庭に土俵を移しながら開催されていました。
 旧暦の八朔が採れる時期に開催されていたことから、
 こう呼ばれるようになったそうです。』
(※2010年5月23日、同年11月13日に関連記載アリ)
(※津幡町観光ガイド公式HPより引用)

現在の津幡銀座商店街付近の基礎ができたのは、江戸時代前期頃。
外様大名として最大規模の参勤交代を賄うため、
加賀藩二代目藩主「前田利長」の命により整備されたのが始まり。
御旅屋(本陣)と寺社(弘願寺}を現在の位置に移設。
「宿場町」として発展していった歴史がある。

つまり、除夜の鐘の音色は、大きく見積もって、
600年前から繰り返されて来た年末年始の風物詩という事だ。
髷男(まげおのこ)、島田髷(しまだまげ)女が打っていた往時は、
鐘突きの報酬として一体どんな縁起物が配られたのだろう?
平成のそれは「おっとっと」なのである(笑)。
コメント
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