こんな時期だから話そう、沖縄戦もう一つの戦い
国家は国民を守るのか 終戦の日を前に
全国が焦土と化した終戦から七十三年。無数の犠牲者が出た。空襲から国民はなぜ逃げられなかったのか。そこから国家と国民の関係が見えてくる。「空の要塞(ようさい)」と呼ばれたB29爆撃機が編隊で焼夷弾(しょういだん)をばらまいた。目標は木造の民家だった。東京では一九四五年三月の大空襲から終戦まで六十回を超える被害を受けた。死者約十万七千人。被災者は三百万人にも上った。空襲は全国に及び、愛知では約一万人超、大阪では約一万三千人超の死者が出た。広島と長崎の原爆投下の犠牲者は計約二十一万人。空襲による民間人の犠牲者数は四十一万人超といわれる。
「焼夷弾は手でつかめ」
「東京大空襲・戦災資料センター」(東京都)の集計だが、軍事工場で亡くなった人は、軍人・軍属ととらえ除外している。例えば愛知県豊川市の海軍工廠(こうしょう)では、勤労動員の学徒らを含む二千五百人が死亡したというが、四十一万人超の数字には含まれない。なぜ、こんな大きな被害を受けたのか。なぜ、国民は事前に避難できなかったのか。疑問を解くカギが当時の「防空法」という法律だ。三七年にできた。敵国の空襲があった場合、その危害を防ぎ、被害を軽減するという目的で制定された。「検証 防空法」(水島朝穂、大前治著 二〇一四年)に詳しいが、その本の副題は「空襲下で禁じられた避難」である。法改正で国民はB29が到来する前に安全な田舎に疎開できなくなった。疎開を許されたのは、子どもやお年寄り、妊婦らだけだった。国民は都市からの退去を法で禁じられていたのだ。応急消火の義務を国民に負わせていたからである。爆弾が落ちてきたら、その火を消せ。バケツリレーと砂で…。
「国民が死んでも…」
「バケツ五、六杯で消せる」「焼夷弾は手でつかめる」…。手袋でつかみ、放り出せというのだが、あまりに非現実的である。驚くべき非科学世界の中で、国民を消防に駆り立てていたわけだ。それが不可能であるのは、科学者や軍も政府も当然、知っている。では、なぜ? (1)自ら臨戦態勢につく覚悟を植え付ける(2)「日本軍は弱い」という反軍意識の回避(3)人口流出による軍需生産力の低下や敗北的な逃避観念を生じさせないために「逃げられない体制」をつくる-。前掲書では、そのように説明している。ならば、おびただしい死亡者は、国家に殺されたに等しいではないか。国家は国民を守るのか。大いに疑問が湧く。国家は国民の命でなく、国家体制を守ろうとしたのではないのか。空襲被害では各地で訴訟が起きた。憲法学者の水島氏は大阪訴訟で証人に立ったことがある。そのとき憲法前文を引いた。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」のくだりだ。次のように述べた。
<『政府の行為』とは何か(中略)まさに『国民なき防空体制』があった。国民が死んでもいいという極致にまで達してから戦争が終わった>
「特攻」もそうであろう。志願の形だが「九死に一生を得た」ではなく「十死」を前提とするのは、まともな近代の作戦とはいえない。何千人という若者を死に追いやるだけではなかったか。国民が死んでもいい、そんな戦争への反省から日本国憲法の平和主義は生まれたのだ。そのことは重い。引き継ぐべき教訓だ。安倍晋三首相の悲願は九条の改憲である。首相にどれだけ戦時下の国民を思う気持ちがあるか。「侵略戦争の定義が定まっていない」など、まるで戦争への反省が聞かれない。
原爆忌でも核兵器禁止条約に「不参加」と明言し、被爆者団体の怒りを買った。庶民の目線はあるか。「戦争ができる国」に進んでいる。集団的自衛権の行使容認しかり、安保法制しかり、特定秘密保護法しかり、「共謀罪」しかり…。強まる国家主義を恐れる。首相の父・安倍晋太郎氏は東京帝大に入学するも海軍にとられ、滋賀航空隊に配属された。戦後は外相などを歴任するが、「輝かしき政治生涯」という伝記編集委員会の本などにこう記されている。
祖父は反戦・平和の人
愛知の公園に毒グモ44匹 岐阜でも8匹
国土交通省木曽川上流河川事務所は13日、愛知県一宮市の国営木曽三川公園で、7月末以降、毒グモのセアカゴケグモが計44匹見つかったと発表した。岐阜市も市内の公園で8匹が見つかったと発表した。同事務所によると、7月31日に定期点検で6匹が見つかり、8月1日に30匹を発見。13日の点検で新たに8匹が側溝やベンチの裏にいるのを見つけ、駆除した。一宮市では、隣接する大野極楽寺公園でも1日に3匹が見つかった。岐阜市によると、同市学園町の早田西公園のテニスコートで12日、高校生らが3匹を見つけ、市に連絡した。13日に職員が調べ、さらに5匹を発見いずれも駆除した。(共同)
<戦後73年> 生還後に隔離の特攻隊員、歌残す
特攻隊に所属していた当時の上田克彦さん=群馬県の館林飛行場で(堀山久生さん提供)
太平洋戦争末期、厳しい戦局を打開するため、飛行機で敵艦に体当たり攻撃を試みた特攻隊。一度は死を覚悟して出撃しながらも、機体の不調や悪天候から帰還した陸軍の隊員が、現在の福岡市中央区にあった「振武(しんぶ)寮」に収容され、人目に付かないよう隔離されていた事実はあまり知られていない。そんな隊員たちが任務を果たせなかった無念や戦死した仲間を思う和歌が、鹿児島県南九州市の知覧特攻平和会館に保管されている。
知覧特攻平和会館に保管されている上田克彦さんの歌=同館提供
爆音に つと身をおこし 気がつきぬ
喜界の人の ことぞしのばる
岐阜県高山市出身の上田克彦さんが振武寮で、縦二十五センチ、横九センチの便せんの裏に記した歌だ。一九四五(昭和二十)年四月、当時二十六歳だった上田さんは、奄美群島の徳之島の飛行場から、特攻隊として沖縄戦に出撃する予定だったが、直前に米軍機の空襲で飛行機を失った。
北東の喜界島に船で移動し、迎えの飛行機で福岡県の軍司令部に戻ることになった上田さんは再び、九死に一生を得る。乗る予定で乗れなかった迎えの飛行機が、離陸した直後に米軍機に撃ち落とされたのだ。その後、振武寮に収容された上田さんは、再び群馬県の部隊に配属され、そこで終戦を迎えた。戦後は林野庁に務め、晩年は東京で過ごして二〇〇八年に八十九歳で亡くなった。上田さんの次女恭子さん(63)=東京都多摩市=は今年七月、父の知人を介して父が詠んだ歌の存在を初めて知った。歌の意味について「父は特攻隊の話をしなかったが、喜界島での出来事は子どもの頃に聞いたことがある。振武寮にいた時、飛行機の爆音を耳にするたびに、目の前で亡くなった仲間をしのび、もう一度特攻隊として出撃しようという決意を固めたのではないか」と語った。
山久生さん(左)と父上田克彦さんの戦争体験について語る恭子さん=東京都練馬区で
上田さんが最後に所属した群馬県の部隊の隊長だった堀山久生さん(95)=東京都練馬区=は、上田さんに戦後再会した際に漏らした言葉を覚えている。「特攻のことはもう忘れたい、と話していた。振武寮に収容された特攻隊員は、周囲からひきょう者呼ばわりされたと聞いている。国への忠誠心が厚かった上田さんは、我慢できないほどの屈辱を味わったと思う」上田さんら振武寮に収容された五十五人が詠んだ歌は一六年に、ある軍関係者の遺族が遺品を整理中に見つけ、知覧特攻平和会館に寄贈した。計五十九首の中に、生き延びた喜びを記した歌は一首もなく、任務を果たせなかった無念や、再出撃への強い願い、先に戦死した仲間への思いを記したものがほとんどだ。同館専門員の八巻聡さん(42)は、歌について「振武寮を管理する軍側が、風紀の乱れを防ぐため、隊員に気持ちの整理をさせるとともに、その心情を把握しようとしたのではないか」と指摘。「生き残った特攻隊員の研究は、まだ進んでいない。歌は彼らの心情をひもとくきっかけになると思う」と話している。(加藤拓)
【イージスアショアはいらない】秋田県議石田ひろしさんと語る
「駅の子」の闘い 戦災孤児 駅構内を棲み処として生き延びた子供たちの悲痛と苦闘の人生 餓死、自殺で命を絶たれた子供も。
20180812 UPLAN 日本軍「慰安婦」メモリアル・デーin東京 金学順さんから始まった #MeToo
原爆投下後の街をカラー化写真で振り返る8月9日の長崎
※全編フルオープン【8/12 17時~】【再配信】68年前の8月6日の3日後、広島の街に辿り着くと、まさに『べっしゃんこ』だった〜「100年後の8月6日で伝える1時間、今から作る。」 奥田豊治氏講話
鳩山氏が安倍総理を痛烈批判「世界から失笑を・・・」(18/08/12)
翁長氏の志継ぎ 新基地造らせない
沖縄県民大会 7万人
沖縄県名護市辺野古に新基地を造らせないと、病床で亡くなるまでたたかい続けてきた故・翁長雄志知事の志を受け継ぎ、新基地建設断念の声を上げ続けようと、「土砂投入を許さない!ジュゴン・サンゴを守り、辺野古新基地建設断念を求める8・11県民大会」が11日、那覇市の奥武山(おうのやま)公園陸上競技場で開かれました。この日、沖縄に連帯して北海道から鹿児島まで全国で、集会や宣伝、スタンディングなどの行動が取り組まれました。台風14号が接近し、ときおり強い雨が降りしきる中、県内外から7万人(主催者発表)が参加。「新基地NO」「県民はあきらめない」と書いたメッセージボードをいっせいに掲げ、安倍政権が17日にも強行を狙っている辺野古への土砂投入に反対する強い意志を示しました。知事職務代理の謝花喜一郎副知事は、4日に翁長氏と面談した際、「私が『一日一日、公務をこなし、県民の負託に応えたい』と言ったのは『撤回』のことだ」と話していたと紹介。「この知事の思いを深く受け止め、私たちも辺野古に新基地を造らせないという公約の実現に向けてとりくみたい」と述べ、埋め立て承認撤回に前向きな姿勢を示しました。翁長氏と高校の同級生だったという城間みきこ那覇市長は「彼はウチナーンチュの心に寄り添ったウチナーンチュの心を体現、表現する行動をしてきた。承認撤回に向けて、手の届きそうなところまであったと思う。本当に無念だったと思う。その遺志を私たち一人ひとりが引き継いでいきたい」と訴えました。大会では決議が採択され、新基地建設の断念を求めました。日本共産党から小池晃書記局長、赤嶺政賢・田村貴昭両衆院議員、真島省三前衆院議員、仁比聡平参院議員、県議団が参加しました。
土砂投入を許さない!ジュゴン・サンゴを守り、辺野古新基地建設断念を求める8・11県民大会決議(全文)
国は、8月17日からの辺野古地先への埋め立て土砂投入を沖縄県へ通知した。現在行われている環境アセスを無視した数々の違法工事は、仲井真前知事が退任の4日前に承認した追加申請によるものである。沖縄県は、沖縄防衛局に対し、再三にわたり工事実施前の事前協議を行うことを求めてきたが、沖縄防衛局はこれを無視し十分な説明を行うことなく、沖縄県民の民意を踏みにじり、環境破壊につながる違法工事を強行し続けている。7月27日、翁長沖縄県知事は「埋め立て承認撤回」を表明し、8月9日に聴聞を開始した。ただちに国は埋め立て工事を中止し、新基地建設計画を断念すべきである。私たちは安倍政権と沖縄防衛局に対し強い怒りを持って抗議する。私たちは豊かな生物多様性を誇る辺野古・大浦湾の美ら海に新たな基地を造らせない。沖縄県民の命とくらし、沖縄の地方自治と日本の民主主義と平和を守るためこの不条理に対し全力で抗い続ける。今県民大会において、以下、決議し、日米両政府に対し、強く抗議し要求する。
記
1、ジュゴンやウミガメなどの生きていくための豊かな海草藻場や希少なサンゴ類の生息環境を破壊する土砂投入計画を直ちに撤回すること。
2、大浦湾側には活断層の疑いがあり、その付近の海底には、超軟弱地盤が存在する。辺野古新基地の立地条件は成り立っていない。建設計画を直ちに白紙撤回すること。
3、沖縄高専、久辺小・中学校、集落は、米国の安全基準である高さ制限に抵触している。児童生徒と住民の生命と財産を脅かす新基地建設を直ちに断念すること。
4、欠陥機オスプレイ配備を撤回し、米軍普天間基地を即時閉鎖・撤去すること。
5、欠陥機オスプレイの国内における飛行を直ちに全面禁止すること。
宛先 内閣総理大臣
外務大臣
防衛大臣
沖縄及び北方対策担当大臣
米国大統領
駐日米国大使
2018年8月11日
辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議
明治百五十年の今年は「米騒動」から百年の節目でもあります。富山県で始まり、内閣を退陣に追い込んだ大衆運動に、新聞が果たした役割を考えます。一九一八(大正七)年七月のことでした。富山県の魚津や滑川など日本海沿岸の漁村に住む女性たちが、米穀商などに押しかけ、コメの船積みをやめ、安く売るよう求めて、声を上げました。米価は、日本軍のシベリア出兵を見越した米穀商の投機的買い占めや売り惜しみで急騰、男性たちが出稼ぎで向かった北洋は不漁で残された女性たちは生活難に陥っていました。「女一揆」と呼ばれた米騒動の始まりです。
地元紙の記事を機に
この動きをまず報じたのは地元紙の「高岡新報」でした。続いて大阪朝日、大阪毎日両新聞が伝えて、全国に発信されたのです。新聞報道とともに騒ぎは西日本中心に全国三百六十八市町村に広がります。工場や農村、炭鉱地帯で争議や暴動が起こり、示威行動は一カ月半以上も続きました。名古屋では延べ数万人が暴動に加わり、東京・日比谷公園では数百人の人々が騒動を起こしています。こうした動きに危機感を覚えたのが当時の寺内正毅内閣でした。民心をなだめようと外米の緊急輸入や白米の廉売政策で米価の安定を図るとともに、救済のために天皇家や財閥、富豪などから寄付金を募ります。一方、騒乱鎮圧には警官隊に加え、軍隊も出動させました。二万五千人以上を検挙、七千七百人以上を起訴し、死刑二人、無期懲役十二人など、厳罰で臨みます。寺内内閣は、騒動を報じる新聞にも圧力をかけます。八月七日付の高岡新報を発禁処分としたのに続き、十四日には水野錬太郎内相が全国の新聞に対して、米騒動の報道を一切禁じます。
「報道禁止」に猛反発
これに激しく憤ったのが、当時の新聞記者たちでした。本紙を発行する中日新聞社の前身の一つ、名古屋新聞の小林橘川(のちの名古屋市長)は米騒動を「米価内乱」と位置づけ、寺内内閣の一連の措置を批判。「無能、無知、無定見の政府」に一刻も早い退陣を迫りました。もう一つの前身、新愛知新聞で編集、論説の総責任者である主筆の桐生悠々も筆を執り、八月十六日付新愛知朝刊は「新聞紙の食糧攻め 起(た)てよ全国の新聞紙!」との見出しの社説を掲載します。「現内閣の如(ごと)く無知無能なる内閣はなかった。彼らは米価の暴騰が如何(いか)に国民生活を脅かしつつあるかを知らず、これに対して根本的の救済法を講ぜず」「食糧騒擾(そうじょう)の責(せめ)を一にこれが報道の責に任じつつある新聞紙に嫁し」「今や私どもは現内閣を仆(たお)さずんば、私ども自身がまず仆れねばならぬ」悠々は寺内内閣の打倒、言論擁護運動の先頭に立ちます。八月二十日には愛知、岐阜、三重三県の新聞、通信各社の記者に呼びかけて、名古屋市内で「東海新聞記者大会」を開き、内閣打倒と憲政擁護、言論の自由を決議しました。悠々の社説に呼応するかのように、内閣弾劾の動きは大阪や東京などにも広がり、報道禁止令は実質的に撤回されました。寺内首相は九月二十一日に辞表を提出し、次に組閣を命じられたのが原敬です。爵位を持たない平民宰相、初の本格的な政党内閣の誕生です。米騒動の始まりは女性たちの非暴力的な抗議行動でした。全国に広がるにつれて一部暴徒化しましたが、背景にあったのは第一次世界大戦による好景気を実感できず格差に苦しむ民衆の不満です。戦後、首相の座に就いた石橋湛山は当時、米騒動に関し、東洋経済新報の社説で「政府がその第一任務たる国民全体の生活を擁護せずしてかえってこれを脅かしこれを不安に陥れた」と、時の寺内内閣を厳しく批判し、一連の騒動について「時の政治機能が旧式、不適、行き詰まりに陥れば、イツでも必然的に起こらねばならぬ重大なる性質、深甚なる意味を有する」と分析します。(「石橋湛山評論集」岩波文庫)
国民の声伝える覚悟
米騒動は、人々の不満がジャーナリズムと結び付いて、時代の歯車を大きく動かした大衆運動でした。後に「大正デモクラシー」と呼ばれる動きの中心的な出来事であり、納税額に関係なく選挙権の獲得を目指す「普通選挙運動」にも勢いをつけました。それから戦争の時代を挟んで百年が経過し、私たちは今、政権に批判的な新聞との対決姿勢を強める安倍晋三政権と向き合います。成長重視の経済政策で一部の者だけが富み、格差が広がる時代状況は米騒動当時と重なります。そうしたとき、私たち新聞は権力におもねることなく、国民の声を伝え続けなければなりません。その覚悟も問われる米騒動百年です。
「原爆投下 知られざる作戦を追う」 トルーマン大統領が戦争終結、多くの命を救うため原爆投下を決断した、は、嘘だった 米国歴史学者の調査・研究で真実が・・・