前回に、凶悪事件の解決について書いたが、それに続けて時効について考えていることを書く。
刑事での時効は公訴時効と言い、刑法第250条には、死刑にあたる罪については25年と定められている(平成6年までは15年)。2004年にかつて東京の区立小学校で警備員をしていた68歳の男が、26年前にこの学校の女性教諭を殺害して自宅の床下に遺体を埋めたと自首した。公訴時効となって起訴はされなかった。公訴時効成立寸前に逮捕されたと言う事例や、公訴時効期間が経過して迷宮入りとなった事件もニュースになることがある。
公訴時効ということが設けられた理由としては幾つかの説があるようだが、法律的なことは私にはよく分からない。俗説では長い年月がたつと、その間に犯人も日陰者としての生活を送り、罰を受けたも同然だからとか言われるが、どうも納得できない。中には自分が犯した罪の重さに苦しみ、被害者の冥福を祈って過すという殊勝な者もいるかも知れないが、それなら自首してくればいいので、やはり我が身がかわいいのだろう。おそらくは時効を迎えるとほっとして喜び、これで青天白日の身になったかのように思うのがほとんどではないか。
上の元警備員について書いたルポを読むと、この男は自首するまでの26年間に悔悟の念を抱いていたとは思われない。遺体を埋めた家は「周囲を2メートルほどの塀で覆い、その上には金属性の網や有刺鉄線が張り巡らされ、入口には防犯用のカメラまで設置されていた。近所とは挨拶も交わさず、子供が騒ぐと言っては怒鳴り散らし、棒を手に追いかけ回したり、宅配便が来ても門の外で受け取るなど、自分の家から人を遠ざけていた。ゴミだしも自分でやり、妻ですら外出させていなかった」とルポにはある。ひたすら犯行が明るみに出ることを恐れ、異様なほどの警戒心を持っていたようだ。またこのルポを書いた記者が、この男の現在の住まいを訪れ、いろいろ質問をしたが一切答えず、謝罪の言葉もなく「自分の姿や音声を放送したら告訴する」とだけ言ったという。遺体を隠した家は道路拡張のための区画整理事業が進められていたため、かなり前から立ち退きを迫られていた。住んでいた家が取り壊され更地になれば、隠してきた遺体が発見されるだろうから、男は強く立ち退き拒否してきた。この男の犯罪には以前の刑法の条項が適用されるから、公訴時効は15年である。男はそれを知っていたが、立ち退きを拒否するのに限度があると思って自首する気になったようだ。どこまでも身勝手な人間である。
私は法律的にはいろいろな説があっても、やはり公訴時効ということには疑問を感じる。アメリカやイギリス、カナダには公訴時効はない。先日もテレビで見たが、カナダで起こったある婦女暴行殺人事件は30年後に解決した。決め手は保存してあった被害者の衣服に付着していた体液のDNA型が、容疑者のものと一致したことで、30年前の鑑定技術では血液型しか知ることができなかったが、近年のDNA鑑定の著しい進歩によって特定が可能になったのだ。犯行後どんなに年月を経ていても、犯人のものと思われる血液や体液が残存していれば犯行を実証することは可能になっている。それを考えると時効と言うものは、社会正義を可能な限り実現するためにはないほうが望ましいと思う。もちろん証拠らしいものが採取できない事例もあるだろうが、やはり殺人という凶悪な犯罪が、ある期間が過ぎるとなかったも同然になることには納得できないものがある。
さらに、批判を受けることを承知で言えば、時効成立後に犯人が明らかになった場合にも、その氏名を公表するべきではないかと思う。またぞろ「人権」が云々されるだろうが、被害者の遺族にとっては、犯人が判ったのに何の情報も与えられないことは、犯罪が行われた時の悲しみや苦しみ、怒りに加えて、さらにまた苦しみを与えられたことになるのでないか。法が加害者を保護し、被害者の遺族の悲しみは一顧だにされないことには怒りさえ覚える。因果応報である。公訴時効によって法的な刑罰は免れても、厳しい社会的制裁は受けるべきだと考えるのだがどうだろうか。
刑事での時効は公訴時効と言い、刑法第250条には、死刑にあたる罪については25年と定められている(平成6年までは15年)。2004年にかつて東京の区立小学校で警備員をしていた68歳の男が、26年前にこの学校の女性教諭を殺害して自宅の床下に遺体を埋めたと自首した。公訴時効となって起訴はされなかった。公訴時効成立寸前に逮捕されたと言う事例や、公訴時効期間が経過して迷宮入りとなった事件もニュースになることがある。
公訴時効ということが設けられた理由としては幾つかの説があるようだが、法律的なことは私にはよく分からない。俗説では長い年月がたつと、その間に犯人も日陰者としての生活を送り、罰を受けたも同然だからとか言われるが、どうも納得できない。中には自分が犯した罪の重さに苦しみ、被害者の冥福を祈って過すという殊勝な者もいるかも知れないが、それなら自首してくればいいので、やはり我が身がかわいいのだろう。おそらくは時効を迎えるとほっとして喜び、これで青天白日の身になったかのように思うのがほとんどではないか。
上の元警備員について書いたルポを読むと、この男は自首するまでの26年間に悔悟の念を抱いていたとは思われない。遺体を埋めた家は「周囲を2メートルほどの塀で覆い、その上には金属性の網や有刺鉄線が張り巡らされ、入口には防犯用のカメラまで設置されていた。近所とは挨拶も交わさず、子供が騒ぐと言っては怒鳴り散らし、棒を手に追いかけ回したり、宅配便が来ても門の外で受け取るなど、自分の家から人を遠ざけていた。ゴミだしも自分でやり、妻ですら外出させていなかった」とルポにはある。ひたすら犯行が明るみに出ることを恐れ、異様なほどの警戒心を持っていたようだ。またこのルポを書いた記者が、この男の現在の住まいを訪れ、いろいろ質問をしたが一切答えず、謝罪の言葉もなく「自分の姿や音声を放送したら告訴する」とだけ言ったという。遺体を隠した家は道路拡張のための区画整理事業が進められていたため、かなり前から立ち退きを迫られていた。住んでいた家が取り壊され更地になれば、隠してきた遺体が発見されるだろうから、男は強く立ち退き拒否してきた。この男の犯罪には以前の刑法の条項が適用されるから、公訴時効は15年である。男はそれを知っていたが、立ち退きを拒否するのに限度があると思って自首する気になったようだ。どこまでも身勝手な人間である。
私は法律的にはいろいろな説があっても、やはり公訴時効ということには疑問を感じる。アメリカやイギリス、カナダには公訴時効はない。先日もテレビで見たが、カナダで起こったある婦女暴行殺人事件は30年後に解決した。決め手は保存してあった被害者の衣服に付着していた体液のDNA型が、容疑者のものと一致したことで、30年前の鑑定技術では血液型しか知ることができなかったが、近年のDNA鑑定の著しい進歩によって特定が可能になったのだ。犯行後どんなに年月を経ていても、犯人のものと思われる血液や体液が残存していれば犯行を実証することは可能になっている。それを考えると時効と言うものは、社会正義を可能な限り実現するためにはないほうが望ましいと思う。もちろん証拠らしいものが採取できない事例もあるだろうが、やはり殺人という凶悪な犯罪が、ある期間が過ぎるとなかったも同然になることには納得できないものがある。
さらに、批判を受けることを承知で言えば、時効成立後に犯人が明らかになった場合にも、その氏名を公表するべきではないかと思う。またぞろ「人権」が云々されるだろうが、被害者の遺族にとっては、犯人が判ったのに何の情報も与えられないことは、犯罪が行われた時の悲しみや苦しみ、怒りに加えて、さらにまた苦しみを与えられたことになるのでないか。法が加害者を保護し、被害者の遺族の悲しみは一顧だにされないことには怒りさえ覚える。因果応報である。公訴時効によって法的な刑罰は免れても、厳しい社会的制裁は受けるべきだと考えるのだがどうだろうか。