中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

ジジバカ

2010-02-16 09:02:18 | 身辺雑記
 長男の次女の孫娘が、吹奏楽の演奏会に出るということなので聴きに行った。会場は長男の家のある滋賀県野洲(やす)市の近くの栗東(りっとう)市にあった。我が家から2時間足らずである。

 孫娘は高校1年生、先日16歳になったばかりだ。動機は聞いていないが、中学校のクラブ活動は吹奏楽部で、サキソフォンを吹いていた。高校に入ると1年の時にはクラブは必修なので、仕方なく吹奏楽部に入った。仕方なくと言うのは、近くの大津市にある高校生が主体になっている吹奏楽団に入団していたので、とくに学校のクラブには興味はなかったようだ。2年生になったら退部するらしい。今回行ったのは、高校生達が主体の吹奏楽団の演奏会だった。

 吹奏楽は久しぶりで、それも高校生達が運営している会というので興味があったが、今回は孫娘がソロ演奏すると聞かされてちょっと驚いた。いろいろといきさつはあったらしいが、孫娘に決まったとのことだった。

 演奏が始まり、華やかな吹奏楽の曲に気分が浮き立ったが、孫娘の出番まではちょっと落ち着かない気分でもあった。

             


 孫娘が演奏する曲は米国の作曲家アルフレッド・リードの「バラド~アルト・サキソフォンとバンドのための」というものだったが、私には初めてのものだった。彼女ははかなり小柄なのだが、それがバンドのメンバーの前に出て頭を下げると、それほど小さくは見えなかった。それに内心はどうかは計り知れないが、落ち着いた様子なので安心した。演奏が始まったが、私には技量の程は分からないがまずまず無難にこなしたのではないかと思ったのは身びいきなのだろうか。とにかく5分間の曲を吹き終わってほっとしたし、この子がとても可愛く思えたのは、ジジバカというものだ。

                      


 演奏会場に行く前に長男夫婦と食事をしたが、そのときに先月の成人式で撮った上の孫娘の写真を見せてくれたが、もうすっかり成人した娘のように写っているので感心すると同時に、やはりジジバカ気分になり、なかなかいいじゃないかと頬が緩んでしまった。小さい写真をくれたので、ここにジジバカぶりを発揮して載せる。

  

 妻はせめてこの子の結婚式には出席したいと言い、そのときのプレゼントのための額入りの絵も買っていた。その夢は果たせなくなったが、もしこの写真を見たら涙もろいところがあったから、涙ぐみながら喜んだろうと思う。

 孫というものはいくつになっても可愛いものだ。私には4人の孫がいて、人並み以上に優れたところは持ち合わせてはいないが、どの子もそれぞれ可愛く大切な存在だ。中国では小さい子どもを「宝宝(バオバオ)」と呼ぶが、今も孫達から「オジイ」と呼ばれている私にとっては、この子達はいつまでも宝宝なのだ。





クラブOB会

2010-02-15 10:44:19 | 身辺雑記
 高校に勤務していた時に顧問をしていた生物部のOB会があり50人のかつての部員たちが集まった。数時間のパーティーのためにわざわざ東京、横浜、名古屋、愛媛、三重県の津からも参加してくれた。

 今回は県内のある中学校の校長をしているN君夫妻の努力のお蔭で賑やかな楽しい会になった。N君の奥さんも生物部員だった。昨年の秋くらいから計画をし、200名以上の旧部員達に案内状を送ったと言う。その中で半数くらいから返事があり、参加者はさらにその半分くらいだから、よく集められたと思い、その努力に感謝した。

 集まった中の最高学年は14回生で、もう66歳になり、一番若いのが39回生の41歳だから親子ほどの年の差だった。41回生の時には私は教育委員会の事務局に異動していていなかったから今回が初対面だったが、他の参加者はすべて私が顧問として接した部員達で、中には卒業以来40数年ぶりという部員もあり、懐かしいことこの上なかった。





 私が着任してすぐに顧問になったときの生物部は熱帯魚を飼っている程度で実験や研究らしいことをする者もなかったが、やがて熱心な生徒達が入ってきて活動をするようになり、それとともに部員数もしだいに増えていった。最盛期には校内で最大のクラブとなり、一時は3学年合わせて63人にもなった。それが放課後になると生物実験室やその周辺に集まってきて、それぞれのテーマで実験したり飼育や園芸活動をしたりするから、非常な活気だった。今でもよく集まっているHr君やHg君たちの学年はその中心だった。土曜日も休みではなかったから、日曜以外はすべて、それも遅くまでクラブ活動をしていて、夏休みも出ずっぱりで、大学受験準備が高校生活の中心になっているような現在なら到底許されるようなことではなかった。

 私にとってもこのような大勢の部員達の実験、研究テーマを見つけてやったり指導したりするのはかなりのエネルギーが要ることだったが、彼、彼女らと一緒に過ごす毎日は、今思い出しても楽しいものだった。思えばあの時代に、あの高校で生物部の顧問として過ごしたことは本当に幸せだったと、一人ひとりの自己紹介を聞きながら改めて思ったことだった。 

 会の最後に、今年は喜寿を迎えるということでお祝いの品と花束、それにバレンタインでーの前日ということでチョコレートが贈られた。こまやかな心遣いに感動し、部員達をかわいく思っていた妻がいたら一緒に喜び合えるのにと思った。皆が元気で幸せであるようにと心から願う。

 寄せ書き


 これはRIHGA ROYAL HOTELのチョコレート。とてもおいしいものである。
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シュイ族の村

2010-02-14 08:43:21 | 中国のこと
 2004年の5月に貴州省東南部のミャオ族の祭を見てから南下してトン族の村に行く途中でシュイ(水)族の村に寄った。広東省広州市内を流れる珠江に流れ込む西江の支流である都柳江の対岸にその村はあった。

 シュイ族はチベット系の少数民族で人口は約35万人、主に貴州省南部の三都シュイ族自治県に集中して住んでいる。私が立ち寄った村もこの県にあった。

 シュイ族の集落。




 対岸の村に行くには渡し舟を利用する。数分くらいの距離だから何度も往復していて、馬なども乗せる。


 乗り合わせた村の婦人。68歳だそうで私より少し若かった。毛沢東バッジをつけた元気のよい人で、通訳の馮さんを通じて私が日本から来たことを知ると、「わざわざ来てくれて有難う。村は貧しいけれど私達は良くしようと努力しています。帰ったら皆に話して来てもらってください」と言った。村の幹部だったのかもしれない。

 
 住居。


 このような建物を干欄と言うのだそうだ。


 村の入り口の石碑の前でたむろしていた子ども達。村に入る時に通りかかると、緊張した表情でこちらを見ていたが、「ニイ・ハオ」と挨拶すると,とたんに元気な声で賑やかに「ニイ・ハオ」と返事した。村から出ようとした時には村の中にいて、口々に「バイ、バイ」と笑顔で挨拶した。人懐っこい子ども達だった。


 村を出てまた渡し舟で対岸に渡り南下を再開した。途中で市場があり、民族衣装のシュイ族の女性達が多く見られた。




 市場では竹籠に入れられた仔豚を売っていた。500円くらいの安さで、これを買って帰って食べるのか、飼って大きくするのかは分からない。



金銭欲

2010-02-13 09:49:05 | 身辺雑記
 古い卒業生のK君と昼食をとった後で話をしていると、在学中に彼が教わった教師の話になった。何人かの教師の授業中の想い出を懐かしそうに話していたが、ある1人の教師になると急に苦い顔をして、「彼は守銭奴ですよ」といささか過激なことを言った。ちょっとびっくりしたが、その教師の金銭に対する執着の強さには思い当たることがあったので、「どうしてそんなことが分かったんだ」と尋ねると、「生徒というのは分かるものなんですよ」と言った。

 その教師は私と同じ年に採用された。私達はまだ20代半ばだったが、彼は初めのうちから金銭に対する執着の強さを隠すこともなく、当時はまだ禁止はされていなかったが、学習塾の講師になって放課後にはしばしば塾に向かうようで、K君も授業が終わったらすぐにアルバイトに行って、クラブ活動の指導なんか眼中になかったと、忌々しそうに言った。そのような彼は同僚達からいささか冷たい目で見られていたようだったが意に介することはなかった。

 当時私たちの給料は今のように銀行振り込みではなく、給料日になると事務室に行き、給料袋を事務の人から受け取った。袋の表には事務員が手書きした明細が書かれていたが、中には別の袋をもらって実際よりも少ない額に書き直してもらい、奥さんに内緒で小遣いをせしめる常連もいたのがおかしかった。ある給料日に事務室に行くと何人か先に来ていたのでしばらく待っていたが、件の教師が私の前にいた。その彼が急に私の顔を見て周囲の人達に、「この男は怪しからんのですよ。私より年下のくせに私より給料が上なんです」と言った。私とは同い年だが誕生月は私より少し早く、それに私には 学歴加算があったから彼よりも1号俸上だったことは確かで、そのことについては前々から彼が私に含むところがあったのは感じていたが、まさか皆の前であからさまに言うとは思いも寄らなかったのでいささか驚いた。しかし周囲の人達は相手にしない様子で反応はなかった。その上彼は「だから給料が低い分を補うためにバイトしてるんです」としゃあしゃあと付け加えたので私は、「ちょうど足りない額だけバイトするのは難しいだろうね」と皮肉ったが、まったく蛙の面に水だった。

 教師も人間だから、いろいろな者がいるのは当然で、彼のように金銭欲が強いのがいても不思議ではない。だが聖職者ぶることはないが、それをあからさまに出すことについてはやはり節度とけじめが必要だ。彼にはそれが乏しかったから、事務室で品性を疑われるようなことを言ったのだろう。それだけならまだいいが、生徒達に金銭に執着の強い教師だと感じ取られるような言動があったとするならば、K君のような敏感な生徒から軽蔑されても仕方があるまいと思う。


痛み

2010-02-12 08:54:56 | 身辺雑記
 10日ほど前から神経痛に悩まされている。もう2年越しの痛みなのだが、これまでは痛み自体はたいしたものではなく、歩き出してしばらくすると右脚の付け根に当たる腰の部分が痛くなり、右脚のふくらはぎが痺れてくる。休むと治る。そんなことを繰り返してきた。ところが今回は起きると右腰の奥が強く痛み、歩きにくくなった。歩行に伴って右足が地面を踏むたびに腿の付け根が痛む。激痛と言うほどでなく、重たい感じの鈍痛なのでかえって不快感が強い。

 元来私は、痛みということにあまり縁がなくて過ごしてきた。肩凝りに伴う痛みは時折あるがたいしたものではない。頭痛も腹痛も記憶にないくらいだ。歯痛は50年ほど前に一度、親知らずが生えてきたためにかなり激しい痛みを経験したことはあった。切り傷や火傷をしたこともあまりない。最大の「重傷」は中学生の時に家で薪割をしていた時に手が滑って自分の右足の親指を叩いてしまったことだ。これはかなり痛かったように思う。今でも右足の親指の爪は奇形的に変形している。

 経験が乏しいからあまり正確なことは言えないが、外傷性の鋭い痛みも嫌だが、素性が分かるから、痛くても何とか辛抱できる。しかし体内の痛みというものは原因がよく分からないこともあって何か不安に駆られるように思う。私の神経痛は一応坐骨神経痛と診断されている。坐骨神経痛は病名ではなく症状なのだそうだが、いったい神経がどのようになってこのように痛いのかいっこうに分からないからイライラすることもある。

 的確な治療はないようで、一応医師から薬はもらっているが、効果のほどは分からない。今回は鍼灸院で治療してもらっているがどうなることやら。私の妹の1人も坐骨神経痛で、夜寝ていても激しい痛みで眠れないと言う。私の場合は横になっていたり座っているときには異常は感じないからまだよいのだが、それでも歩行に難渋するのは辛い。





二黄卵

2010-02-11 09:45:38 | 身辺雑記
 私の住む市に、岡山県の最西北端にある新見市阿新地域の農業協同組合,「JAあしん」のアンテナショップがあり、現地直送の農産物や肉類を販売していて、結構評判はいいようだ。販売品の中に鶏卵があるが、木曜日と土曜日には普通の卵と一緒に「元気にこにこ卵」という卵を売っている。これは俗に「双子卵」あるいは「にこたま」と呼ばれる卵黄が2つ入っている二黄卵だ。

 二黄卵は普通の卵にも稀にあるが、そのほとんどは、産卵開始後間もない若鶏が産んだものだそうで、排卵のリズムが一定しない時に卵黄が連続して排卵されるために起こると言う。1羽の鶏が産卵を開始してから廃鶏として処分されるまでに二黄卵を産む確率は1~2%とだそうだから本来は珍しいものだが,気味が悪いとされることもあるようだ。その反面、珍しいからと言うので縁起物とされることもあると言う。

 外見は普通のものよりも大きく、重いから見分けがつきやすい。





 縦割りしたゆで卵。


 二黄卵を人為的に多産させようという研究が1970年代から米国で行われて、二黄卵発生率が 30% という鶏種が作り出されたと言う。実用鶏種では 20%程度らしい。国内でも実用化に向けた品種改良の研究が進み、餌を与える条件で二黄卵発生率を高める方法も明らかになっているそうだ。「JAあしん」では二黄卵発生率を高めた鶏種を使っているのか、それとも若い鶏を大量に飼育していてそれが産むものから二黄卵を選抜しているのかは分からない。

 売っている二黄卵は無精卵だが、もし受精したら二羽の雛が生まれるかと言うとそうはいかないらしい。狭い殻の中で2つの個体が大きくなっていくと、互いに圧迫して結局は両方とも死んでしまうのだそうだ。

 卵をフライパンで焼く料理を「目玉焼き」と言うが、2個の卵を同時に焼くのを本来の「目玉焼き」と言い、1個の場合は「片目焼き」と呼ぶ地方があるそうだが、二黄卵を使って焼けば、問題なく「目玉焼き」になる。

 卵は戦後間もなくは貴重品だった。中学生の頃、遠足の弁当に母がゆで卵を1個つけてくれたのがとても嬉しかったが、いざ食べる段になって、持ち運び方が乱暴だったのか、とても細かくひび割れしてまったく殻がむけない。もちろん捨てることなどは考えられもしなかったから、止むを得ず殻ごと食べてしまったことがあった。50年前に教師になってからクラスの生徒達とピクニックに行った時、皆が持ってきたゆで卵が多くて食べ切れないのを帰る時に平気で捨てるので、ああ、もったいない、中学の頃から10年ちょっとしかたっていないのに変わったものだと思った。今では大量に生産され値段も安く、30年前と変わっていないということで、価格の優等生などとも言われる。「JAあしん」の二黄卵は5個で150円、1個あたり30円だから安いものだ。それでも頭の片隅には、いまだに卵は貴重品という記憶のかけらが残っている。


新疆アルタイ

2010-02-10 11:23:44 | 中国のこと
 新疆ウイグル自治区の区都ウルムチにいる趙戈莉から立派なカレンダーが送られてきた。インタネットは昨年のウルムチの暴動以来閉鎖されているので電話した。

 この冬の中国の北部は気温が低いようで、あまり雪の降らない西安でもかなり降ったようだが、ウルムチもかなり寒く、-26℃だと戈莉は言い、暖かくなれば-15℃くらいになるでしょうと付け加えた。-15℃で暖かいと言うのだから想像のつかない寒さだ。その中で戈莉は毎日ジョギングをしているのだそうだ。

 アルタイはもっと寒く-35度で死者が出るなどのかなりの被害が出ていて、全国的に義捐金が募られているとも戈莉は言った。アルタイは2003年の9月末に新疆最北端にあるカナス湖に行ったときに通ったことがあり、その時にガイドをしてくれていた戈莉から、アルタイでは毎年大雪のために死者が出ると聞いたことがある。

 新疆は中国の西北端にあり、面積は中国の省と自治区の中では最大である。国境線は長く、東はモンゴル、北はロシア、カザフスタン、さらに西はキルギス、タジキスタン、アフガニスタン、パキスタンから南はインドに接している。モンゴルとの国境にアルタイ山脈がある。私が訪れたカナス湖は新疆の最北端のカザフスタンと接する山中にある。


 2003年に訪れた時には、ウルムチを出て東進、ジムサルという町に一泊し、翌日さらに北へ向かった。

 新疆北部を横断する天山山脈。西はキルギスにつながる。


 途中にはジュンガル盆地という広大な平地があり、沙漠になっている。コルバントングト沙漠と言う。ここには野生のラクダなどの野生動物が生息する。


 火焼山。名前のように燃えるように赤く見える。おそらくは鉄分を含む土壌だろう。


 この日はアルタイで一泊した。アルタイはカザフ族が多いようだった。

 アルタイからカナス湖に向かう途中の草原。放牧しているカザフ族の移動式住居、パオ。


 新疆の羊肉はおいしいと言われている。


 カザフ族の牧夫と墓所。カザフ族は遊牧民で、死ぬと「定住」する。


 カナスに近づくと森林が多くなったが、既に黄葉し始めていて美しかった。

 カナス湖に注ぐプアルチン川。


 夕刻にカナスに到着。翌日はカナス湖周遊。少数民族の図瓦(トワ)族の住居訪問などをして、その日もカナス泊。

 カナス湖畔の黄葉。




 トワ族の住居。


 笛を吹くトワ族の老人。


 翌日カナスを発ってジュンガル盆地の西端をたどりながらウルムチに向かった。途中ウルホと言うところに魔鬼城と言う奇怪な地形があった。ヤルダンと言う風食地形だそうだ。



 ウルムチを発つときは気温は低く、前夜の雪で街路樹が折れたりしていたが、上海に着くと暑いくらいで、出迎えてくれた唐怡荷は半袖姿だったので、改めて中国の広さを実感した。






議事堂にふさわしい議員

2010-02-09 11:21:32 | 身辺雑記
 河野洋平前衆議院議長がある会合で、「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄氏の次のような歌を引用して政治の現状に苦言を呈したそうだ。

  美事なる 此(この)議事堂に ふさはしき 議員を得るハ 何時の代ならむ

 河野氏は今国会の審議中のヤジを挙げて、「この品位のなさでは政治に対する信頼を回復することは到底できない」と指摘したようだ。

 まことにもっともなことで、国会でのヤジのひどさについては私も前に書いたが、首相の発言に「お前」などと罵声を浴びせた自民党の議員や、それに負けずにヤジを喚き散らした与党の議員諸公は、この河野氏の言葉をどのように聞いたのだろうか。常識はずれの度し難い面々だから、蛙の面に水のようなものかも知れない。

 しかし、「選良」諸氏には真剣に考えてほしいと思う。ヤジを禁止することまでしなくてもよいが、せめて節度のある言動で審議に臨もうと申し合わせることくらいはできないものか。

 本音を言うと私はもうこのような品位のない議員達が行う政治を信頼していない。議員というものは普通の神経とは異なる人間でないと務まらないものなのか、それとも議員になると常識の通じない品性に堕してしまうものなのか。まったく、「ああ、嫌だ、嫌だ」という気持ちになってしまう。

            

 

チョコレート

2010-02-08 10:45:49 | 身辺雑記
 バレンタイン・デーが近づき、あちこちでチョコレートの売り出しが始まっている。近くの私鉄のターミナルにあるデパートでもいろいろな店が出て、それぞれのチョコレートを売っている。



 バレンタイン・デーに女性が男性にチョコレートを贈るのは日本だけの風習とかで、欧米では男性から女性に花やケーキやチョコレート、カードなどを贈るのだそうだ。中国でも都市部では最近は盛んで、「情人節(チンレンジエ」と言う。情人は恋人だ。この日は男性は女性にバラの花を贈るので、店頭のバラの値段は普段の何倍にもなるそうだ。中国では日本の風習も入り、3月14日は「白色情人節」(ホワイトデー)で、男性はまた贈り物をするのでかなわないとぼやくらしいということも聞いた。中国の最大の行事の春節(旧正月)は、今年は2月14日でバレンタインデーと重なる。賑やかなことだろう。

 バレンタインデーのチョコレートは本来は女性が意中の男性への愛情の告白の手段とされていたが、今では「義理チョコ」などがある。義理チョコは会社の上司や同僚など日ごろ世話になっている人へ贈ることが多いようで、これもいかにも日本的な特徴だ。中には特に世話になっているわけではなくても満遍なくしておいたほうが角が立たないという配慮もあるらしく、なかなか気骨の折れることだ。贈られる男性のほうも、「明らかに安そう」とか箱のショボさや中身の少なさなどで価格的に判断して、もらったからと言って有頂天になる能天気者もいないようだ。ある調査では義理チョコを贈る相手のトップは意外にも父親だそうだ。私には娘はいないからもらうことはなかったが、妻からもらったかどうかは覚えていない。

 学校勤めしていた頃、女生徒が教師に義理チョコを贈ることは少なくなかったようだが、中には年頃の純情さで「本命」のつもりで贈った子もあったかも知れない。ある若い教師は少々軽薄で、それなりに人気があったのかかなり贈られて、今年は何個来たと自慢し、そのくせただの1個も同僚に分けようとしないのでいささか顰蹙を買い、冷笑もされていた。

 それにしてもチョコレートは高い、と言うよりもピンからキリまであって、高いものはなぜこんなに高いのかと、チョコレートは好きだが平生は安いものしか食べていない私は、ショーケースに並ぶさまざまなチョコレートを見て溜息をつく。しょせん貧乏性なのだろう。

 1粒336円。外国の有名なG社の製品。このデパートにはないが、もっと高価なものもあるそうだ。


 1ケースが3000円前後。私にはずいぶん高く思えるが、平均的なものなのかも知れない。


 これは比較的安い。


 バレンタイン・デーになぜチョコレートなのかと言う歴史はよく分からないようだが、これまたどうやら製菓会社が仕掛けたことらしい。最近はますます商戦は過熱して、それにつられてこの日は1年中で最もチョコレートが食べられる日になった。覚めて考えるとコマーシャリズムに踊らされているバカバカしいことだが、それなりにほほえましい行事とも言える。あまりの過熱状態に辟易して、いい加減にしておこうやという動きもあると聞いたが、蟷螂の斧の類なのではないだろうか。
 

黒髪

2010-02-07 12:22:18 | 身辺雑記
 島崎藤村が「初恋」で詠んだ「まだあげ初めし前髪」の少女の髪の色は、明治時代のことなのだから当然黒髪だっただろう。

               インタネットより

 藤村には「初恋」と同じ『若菜集』に所収されている「高楼」に、
 
  君がさやけき 目の色も
  君くれないの くちびるも
  君がみどりの 黒髪も
  またいつか見ん この別れ

 という一節がある。「みどりの(みどりなす)黒髪は」はよく言われる表現だ。「みどり」は色の名称ではなく、生物の活力のある生命感や生まれたばかりの若々しい様子(みどりご)を形容する言葉で、「緑の黒髪は」はつやつやとした美しい黒髪ということは少年時代から何となく知っていて、黒がなぜ緑かなどとは思わなかった。黒く艶がある髪をまた、「烏の濡れ羽色」とか「烏羽(うば)色」とも言うが、これもいかにもつややかな真っ黒を連想するので、好きな表現だ。

 私は女性の黒い髪が好きだが、最近は目を惹かれるような黒髪は滅多に見ることはない。先だって電車の座席に座って出入りする女性達を見ていたが、黒髪は1人もいなかった。けばけばしい茶髪や麦藁色のものはなかったが、皆薄く、あるいは濃く栗色に染めている。それにどれも艶がなかった。近頃の女性達には黒髪は人気がないのだろうか。ネット掲示板でこんな書き込みを見た。

 「私は長年黒髪だ。何故かというと、まず維持するのが面倒だから。以前は染めたこともあるけど、就職活動を期に黒髪に戻したら楽すぎて染められなくなった。美容室行かなくてすむ。
 でも黒髪にしていたら周囲の意見は『おんなとして終わってる』なんですよね。『色気を感じない』『恋愛対象に見れない』とかな。
 自分含む黒髪仲間の傾向を見るに、黒髪のままにしている子って、おしゃれとは無縁の子なんですよ。いい年してノーメイク率も高いし、まゆげは生やしっぱなしだし、色んな人に『ちょっと染めるとかしてみたら?』的なことも言われても『でも…』『でも…』って頑なに黒髪を守るの。身綺麗にすることにコストと時間をかけたくないタイプです」

 自分は黒髪なのに、他の黒髪の女性には突き放したような見方をしていて、何となく納得できないのだが、黒髪にしていたら「女として終わってる」とか「色気を感じない」などというのは極端なように思う。身綺麗にすることにコストと時間をかけたくないから黒髪にするというのも偏った考えだ。黒髪を本当に美しく保とうとするならばかなりの時間がかかるはずではないかと思うし、それに染めているからと言って、必ずしも皆が皆、よく手入れして艶のある髪にしているとは限らない。

 私の妻は若い頃は黒髪だった。それが30代後半になるとほんの少し白いものが混じるようになり、それを気にして軽く染めるようになり以後ずっと続けていた。やはり30代で白髪交じりになるのは気になったのだろう。染めてから時間がたつと頭頂部が白くなり「富士山だね」などと冷やかしたものだ。50も半ばをすぎると白髪になればかえって感じがよいこともあると思うのだが、途中が汚らしく見えるからとその気にはなれなかったようだ。

 B級の時代劇を見ると出てくる若い娘の出演者中には茶色がかった髪があって興醒めしてしまうことがあるが、そういう時代劇では出演者のせりふも現代風のものが混じるいい加減なものだから、当然かも知れない。それでも黒くつやつやした髪がよいと思うのは老人のノスタルジアなのだろうか。先日次男の中学2年生の娘に会ったが。漆黒の艶のある髪で好ましく思ったが、この子も年頃になると染めるようになるのかも知れない。