中国迷爺爺の日記

中国好き独居老人の折々の思い

懐かしい詩

2010-02-06 12:01:09 | 身辺雑記
 久しぶりに島崎藤村のある詩の出だしを思い出したのだが、全体が分からない。高校生の時代に好きだった詩だから、何とか知りたくてGoogleに、うろ覚えしている断片「まだあげそめし前髪の」を入れて検索してみると出てきた。こういうところがインタネットの便利さだ。詩は次のようなものだ。

  初恋

  まだあげ初めし前髪の
  林檎のもとに見えしとき
  前にさしたる花櫛の
  花ある君と思ひけり

  やさしく白き手をのべて
  林檎をわれにあたへしは
  薄紅(うすくれなゐ)の秋の実に
  人こひ初めしはじめなり

  わがこゝろなきためいきの
  その髪の毛にかゝるとき
  たのしき恋の盃を
  君が情に酌みしかな

  林檎畠の樹(こ)の下に
  おのづからなる細道は
  誰(た)が踏みそめしかたみぞと
  問ひたまふこそこひしけれ

          『若菜集』(明治30)所収

              インタネットより

 みずみずしい情感の溢れた詩で、多感な高校生時代の私は大好きだった。『若菜集』は藤村の最初の詩集で25歳の時に刊行された。この詩が何歳の時の作かは知らないが、あるいは10代の時のものかも知れない。少なくとも歌われている心情は10代の少年少女のものだ。昔の娘は16,7歳になると髪を結ったから、「結い初めし」と詠まれた少女はその年頃だろう。今の高校生くらいだ。少年もそれに近い年齢なのだろう。この詩を口ずさみ、少女の初々しい様子を想像しながらロマンティックな思いにとらわれたものだ。あの頃の私たち高校生などは、今の高校生に比べると一面ではひどく大人びていた反面、恋などにかけては今時の高校生の足元にも及ばないおくてなところがあり、プラトニック・ラブなどを称揚していたものだ。近頃のように寄り添って手を握り合いながら下校するなどとは想像もつかないことだった。中には「進んだ」生徒もいなくはなかったが、どちらかと言うと「不良」視されていた。

 年をとると若い頃、それも青春時代が無性に懐かしくなることがある。悩みも怒りも多かった時代だが、それでも今になると当時の心象は、明るい光が溢れているようなものとして思い出されることが多い。青春時代は清潔でみずみずしいものであるのがいい。学校帰りの高校生の男女達を見ると、そのように思うことが多い。


              インタネットより



街灯と稲

2010-02-05 11:59:05 | 身辺雑記
 広島県庄原市で路灯の光で米が不作になったとして、市が農家5軒に計14万円の賠償金を支払ったというニュースを読んだ。

 この記事で思い出したことがある。かつて高校で理科の生物の教師をしていた時、週に1回開く理科の教科会議の場で、ある物理の教師が話したことだ。家の近所に田圃があり、その中を通っている道は夜は暗いので街灯を取り付けたところ、その田圃の持ち主の農家から、米の実りが悪くなるから消してほしいという申し出があったそうだ。「そんなことなんかあるものかと相手にしませんでした」とその教師は少々息巻くように話したが、私は「いや、それは違いますよ。農家の言うことが正しい」と言って説明した。

 生物には光周性という現象があって、植物で昼の長さ(明期)と夜の長さ(暗期)の変化に応じて、生殖活動や開花結実などが影響される。たとえばホウレンソウやダイコン、キャベツなどのアブラナの仲間やコムギやサクラなどの春咲きの花は、昼の長さが長くなると開花するので「長日植物」と言う。それに対してコスモスやキク、タバコ、ソバなどは日照時間が短くなると開花し結実するもので、晩生種のイネも同じで、「短日植物」と呼ぶ。

 最近のイネは早く植えつけて早く刈り取るから、どちらかと言うと早生(わせ)なのだろうが、かつては晩生(おくて)のものが普通だったように思う。物理の教師の家の近くの田圃のイネも晩生だったのだろう。そうすると自然のままだと秋が近づいて日照時間が短くなると開花し実を結ぶのに、街灯の光でずっと照らされていては、それがうまくいかなくなる。

 こんなことですから農家からの苦情も理がありますねと言うとその教師はびっくりしたが、根はさっぱりとした性格なので「そうですか。悪いことを言ってしまったなあ」と少々しょげてしまった。その後どう決着したかは知らない。

 生物の営みは日照時間に影響され、動物でも春になり日が長くなると、生殖腺が活動しだして体内の性ホルモンの分泌量が高まり、春の生殖の時期になる。温度よりも日照時間のほうが影響は大きいのだそうだ。気温が主たる要因だと、年によって寒暖が乱れると生殖活動も乱れるので、種の保存には好ましくない。自然界の仕組みは巧みにできているものだと思う。
 

節分

2010-02-04 10:05:14 | 身辺雑記
 昨日2月3日は節分。節分はまた、「せちぶん」と読むようで、本来は各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことで、「季節を分ける」ことを意味しているようだが、今では普通は立春の前日を指すようになっている。

 元来この行事は平安時代から行われていた7世紀末に中国から伝わった悪鬼払いの「追儺」(ついな)から生まれたもので、大晦日の夜に悪鬼に扮した下級役人を殿上人が追い回して桃の弓、葦の矢で射った。やがて追儺は日本では節分の行事となって寺社や民間でも行われるようになり、桃の弓の代わりに炒った豆を撒くようになった。豆は魔滅に通じるとされた。

 節分の豆まきはかつてはどこの家でもやっていた。幼い頃の私の家でも当日の夜は父が各部屋を回って、外に向かって「福は内。鬼は外」と唱えながら豆を撒き、私達子どもはその後をついて回った。父が豆を撒くと母が部屋の雨戸を閉めた。のどかな光景だった。今でも父の声が耳の奥に残っている。一通り撒き終わると1つの部屋に集まり、豆やキャラメルなどを混ぜて床の上に撒き、父が電灯を消すのを合図に歓声を上げながら這いずり回って集めた。ひとしきりすると明かりをつけ、誰が一番たくさん取ったかを見せ合った。私が7歳くらいの時の記憶では、当時お手伝いさんとして鹿児島から来ていた10代の娘さんがが、前掛けを広げてその中に掻きこむという機転の効いたやり方で断然トップになり、同居していた大学生の叔父がその様子を大げさに真似てからかっていたのを思い出す。子どもも大人も楽しんだ一夜だった。



 豆まきの豆は関東・東海・西日本・北九州では炒った大豆 (炒り豆) で、北海道・東北・北陸・南九州では 落花生ということだ。拾った豆は自分の年齢より一つ多く食べた。こうすると風邪をひかずに過ごせるという言い伝えがあった。

 節分の夜に何か特別なものを食べたということは、あるいは鰯くらいは食べたかも知れないが記憶はない。今ならさしづめ「恵方巻き」と言うところだろうが、当時の我が家にはそのような風習はなかったし、その後もずっとなかった。節分の夜にその年の恵方、すなわちその年の福徳を司る吉神である方位神の一つである歳徳神(としとくじん)人のいる方角(今年は西微南とか)に向かって太巻きの寿司を丸かぶりする風習である。そのとき目を閉じて一言も喋らず、願い事を思い浮かべながら食べるのだそうだ。元来は栃木県と近畿地方を中心とした風習であったらしいがはっきりしたことは分からないまま、関係業界の販売促進によって現在のようなブームになった。3年前からはあるコンビニ関連会社が「丸かぶりロールケーキ」を出しているそうで商魂たくましいことだ。このところしばらく巻き寿司を食べていないから、昨夜の夕食に巻き寿司を買った。もちろん今さら巻き寿司を丸かぶりするつもりはなかった。この年でそんなことをしてのどに詰まらせたらみっともないことになる。

 デパートやスーパーでは例年のように太巻き寿司を山積みにしていたが、どんどん売れていくようだった。





 恵方巻き丸かぶりなどの新しい風習は盛んだが、家庭での豆まきなどの古い風習は都会ではもうほとんどないのではないだろうか。我が家では息子達が幼い頃は豆を撒いたが、昔と違って隣家と接近しているので声を出すのが何となく気が引けて、本来は家長の私の役目なのだが妻に任せると、妻も恥ずかしそうにか細い声で「福は内」を唱えていて、それではとうてい鬼は出ていかなかっただろう。

 節分には柊の小枝に鰯の頭を突き刺して魔除けとして門口に飾る風習があり、中高生の頃に近所の農家で見たことがある。今でも地方ではこの風習を残しているところはあるのだろうが、都会ではもう見られないだろう。節分に限らず四季折々の素朴な風習はどんどん消えていくようだ。

 インタネットより


 今日は立春。暦の上では今日からは春だが、「春は名のみの風の寒さや」で、まだまだ寒い。今日通りすがりの道端にある沈丁花を見たが、まだ蕾は固かった。





              




寄ってたかって非難、中傷

2010-02-03 12:40:25 | 身辺雑記
 ハイチ大震災の被災者に千羽鶴を贈ろうという運動を呼びかけた大阪府の21歳の女性に対して批判や中傷が相次いだと言う。

 この女性がネットの会員制コミュニケーションサイトmixiの日記で呼びかけ、全国で賛同者が集まって広がり、1千羽以上が集まったようだが、一方では「鶴は現地では『悪魔の使者』とされ、贈るのは嫌がらせ」「折り紙を買う前に募金した方がいい」と言った批判も寄せられたと言う。ところがこの運動が別のサイトで紹介されると、直後からネット掲示板「2ちゃんねる」などで批判が続々と書き込まれ、非難コメントが殺到した。批判はエスカレートし、女性のサイトにも1千通以上の中傷メールが届くようになり、女性のサイトは閉鎖に追い込まれた。

 この女性は「『食糧不足の中で千羽鶴を集めてもしょうがない』という批判もあるけれど、悲しんでいる人たちに折り鶴を贈ることで、一人じゃないよという気持ちを伝えたい」という思いがあったというから、もちろん純粋な善意から出た呼びかけだったのだろうことは疑いない。これに対して意見やアドバイスをするのならともかく、非難や中傷を浴びせかけるのはいったいどういうことなのか。せめて「気持ちはよく分かるけれど、やはり現地の様子を考えると食糧や衣類を贈ったほうがいいのではないだろうか」くらいのことは言えないものか。

 ハイチの悲惨な状況を思うと、確かに千羽鶴を贈るという日本の文化としての善意はちょっと理解されにくいだろうし、場合によっては誤解を招くこともあるだろうから慎重であったほうがいいと思う。ハイチの支援関係者も「現地の実情では折り鶴を贈るのは難しいが、女性の気持ちも大事にしたい」と言っているようだ。もっとも、現地で鶴を「悪魔の死者」とみなされているかについては偽の情報の可能性もあるらしい。

 それにしても若い女性の善意に対して、なぜサイトを閉鎖するまで追い込むのか。ここに現代のネット社会の陰湿さ残酷さがあるように思う。かつてあるネット掲示板を覗いたことがあるが、実に嫌な遣り取りがあって、その独善的で傲慢で礼儀知らずな口調(文体)にはつくづく不快な気分になったことがある。偏見かもしれないがネットで悪口雑言を叩く(おそらく)若者は、多分人のいる中で面と向かって自分の意見を言うことができないような心の脆弱な人間なのではないか。それが匿名性のネットの中で見も知らぬ見えない相手に向かうと、歪んだ自我をこれでもかというように叩きつけて、それによってあるカタルシスのような気分を味わっているのではないだろうか。

 このように不特定多数の者が,まるで獲物に群がる蟻のように寄ってたかって痛めつける風潮はやはり恐ろしいことだ。多数をたのんで個人あるいは少数者の意見を押しつぶそうとすることなどはおよそ民主主義とは程遠い現象だ。見知らぬ相手だからできるだけ礼儀を尽くして対するなどという節度や常識などはまったく持ち合わせない人間が増えているのは情けないことだと思う。


親の先走り

2010-02-02 11:44:04 | 身辺雑記
 幼い子どもの成長はとてもはやくて、ちょっと見ないうちに驚くほど変わっていることがよくある。去年の10月に中国の西安に行き、謝俊麗の息子のナオナオや李真の息子のチェンチェンに会った。それから3ヶ月たったが、折々インタネットで送られてくる写真や動画を見ると、2人ともどんどん成長している。

 ナオナオは会った時には1歳と1ヶ月で、まだヒョコヒョコと歩き回っていて、言葉もほとんど話さなかった。それが送られた動画を見るとチョコチョコと走り回っているし、言葉はまだ遅いが、パパ、ママ、イェイェ(おじいちゃん)、ナイナイ(おばあちゃん)、ジェジェ(おねえちゃん)、アァイィ(おばちゃん)などと言えるようだ。可愛いなと思ったのは電話で聞いたのだが、おじいちゃんが外から帰りドアの音がすると走って出て行き、おじいちゃんのためにスリッパを出すのだそうだ。ずいぶん知恵がついたものだと思う。

 私が初めて子どもを持った時はどうだったかと考えた。毎日一緒にいると成長がはやいということは案外自覚しなかったように思う。とりわけまだ乳飲み子の時には、父親だからだったのか日々の様子をよく見ていたわけでもない。その点では妻とはまったく違っていたように思う。それでもだんだん話ができるようになり、一緒に遊んだりするようになると息子への興味や関心は高まり、毎日が楽しみになった。それだけに先走った期待もよくあって、今思うと苦笑してしまう。

 2歳ぐらいの時だったか、息子に絵を描かせようかと思ってクレオンと画用紙を買って帰った.もちろんはなからまともな絵が描けるとは思わなかったが、チンパンジーに画材を与えると抽象画のようなものを書きなぐったと言うから、息子もその程度のことはやるだろうと思っていた。ところが息子はクレオンをすべてケースからバラバラと出してしまうと、好きだったおもちゃの貨物自動車の後のドアを開けて、その中に全部入れてしまったので思わず笑い出してしまった。息子には絵を描くことなどまったく興味はなく、おもちゃの自動車のほうに関心があったのだ。クレオンを荷物にして車の中に入れたのはそれだけの知恵があったのだが、そのときにはおかしく思っただけだった。

 3歳ぐらいの時、家には保育社のカラーブックスという文庫版の写真集のシリーズが何冊かあり、その中に「犬」というのがあった。それを何気なく開いて「ワンチャンだよ」などと言いながら見せていると、どうやら興味をもったらしく、それからは見せるようにせがむようになった。初めのうちは1つ1つ指さして犬種の名前を言っていたが、そのうちに小さな子どもがよくやることで、次から次へと「コレナニ?」と聞く。そのたびに答えていたが、そんなことを繰り返し手いるうちのかなりの名前を覚えて、逆に「これなに?」と尋ねると正確に答えるようになった、「ドーベルマン・ピンシェル」とか、「バセンジー」とか私もその本で初めて知ったような犬の名前でも答える。もちろん字は読めない。息子のこの様子を見て感心し、この子はひょっとすると賢いのではないかと、親バカもいいところだが思いもした。

 その親バカの夢は意外に早く破れた。ある日妻が息子と外に出ていたら、大きな茶色のボクサー犬を連れた人が来た。そこで妻がここぞとばかり「あれなに?」と尋ねた。もちろん日ごろの「教育」の成果ですぐに「ボクサー」と答えると思ったのだろう。実際本では間違えることはなかった。ところが息子は何と「オウマチャン」と言ったのだ。私が帰宅すると妻はおかしそうに報告し、私も笑ってしまった。息子は絵本でしか馬を見たことはないからその大きさなどは知らない。ボクサーも実物を見たのは初めてで、両方がこんがらかってしまったのだろう。この話を授業で生徒達に話すと、皆大笑いした。私は「やはり知識というものは生きて働き、実際に役に立たなければだめで、本を読んで知っているだけでは、ワンチャンをオウマチャンと言うようなことになるなあ」と言ったことだった。

 もっとも本を読んだりして学ぶ時には、それで得た知識が役に立つものなのか、どのように役立つのなのかなどとはいちいち考えるものではない。知識はひけらかすものではないが、そうかと言ってすべてを功利的に考えるのもいやらしい。生徒の中にはいわゆる受験教育の悪しき影響なのか、教科でもすぐに受験に要るかどうかと考えたり選択したりする者がいた。若いうちは頭が柔らかいのだから、とにかくよく学ぶことだ。そうやって頭脳を訓練しておけば、それによって得た知識は、やがてその人の生き方によって稔りあるものになるのだと思う。


プイ族の住居

2010-02-01 12:11:46 | 中国のこと
 2006年3月に貴州省の西南部を旅した時に、少数民族のプイ(布依)族の集落に立ち寄った。プイ族は人口300万人くらいで、主に貴州省の西南部(黔西南プイ族ミャオ族自治州)に居住しているが、貴州の各地にも散在し、ほかに雲南省や四川省の一部やベトナムにも住む。

 訪れた村は石頭寨と言ったが、家々はすべて石造りで、このあたりのプイ族の集落の特徴らしかった。

 入り口のゲート。いろいろな銘盤が嵌め込まれているが、中に「貴州省 文明風景名勝区」というのがあった。プイ族の集落の中でもよく保存されているものなのだろう。


 事務室のような所に入ると、民族衣装姿の大柄な娘が出てきて、村の中の古い住居や住居跡を案内してくれた。



 ゲートから向かって左には小高い丘があり、そこに石造りの家が並んでいる。だいぶ古いものらしく頑丈な造りだが、住んでいない家もあった。






 倉庫らしい建物


 土地廟。村の神を祭る。道教でも仏教でもない、産土(うぶすな)神のような原始的な信仰ではないか。


 石組み。鉄筋や漆喰は使っていないで見事に築かれている。


 途中で村を一望できる場所があった。現在の家屋の多くは平地に造られているようだ。


 上に行くほど古い住居があり、すべて廃墟になっている。どれもかなり大きなもので、このような高い場所にたくさんの石を運び建物を造ることは大変な労働だったのだろう。これらの多量の石材はどこから切り出されたものか。




 廃墟の道


 石頭寨の傍にあった池。貴州でよく見られるカルスト地形の山が遠望される。


 石頭寨からの帰途の風景。この時期にはあちこちに菜の花畑がある。