久しぶりに島崎藤村のある詩の出だしを思い出したのだが、全体が分からない。高校生の時代に好きだった詩だから、何とか知りたくてGoogleに、うろ覚えしている断片「まだあげそめし前髪の」を入れて検索してみると出てきた。こういうところがインタネットの便利さだ。詩は次のようなものだ。
初恋
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれなゐ)の秋の実に
人こひ初めしはじめなり
わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情に酌みしかな
林檎畠の樹(こ)の下に
おのづからなる細道は
誰(た)が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ
『若菜集』(明治30)所収
インタネットより
みずみずしい情感の溢れた詩で、多感な高校生時代の私は大好きだった。『若菜集』は藤村の最初の詩集で25歳の時に刊行された。この詩が何歳の時の作かは知らないが、あるいは10代の時のものかも知れない。少なくとも歌われている心情は10代の少年少女のものだ。昔の娘は16,7歳になると髪を結ったから、「結い初めし」と詠まれた少女はその年頃だろう。今の高校生くらいだ。少年もそれに近い年齢なのだろう。この詩を口ずさみ、少女の初々しい様子を想像しながらロマンティックな思いにとらわれたものだ。あの頃の私たち高校生などは、今の高校生に比べると一面ではひどく大人びていた反面、恋などにかけては今時の高校生の足元にも及ばないおくてなところがあり、プラトニック・ラブなどを称揚していたものだ。近頃のように寄り添って手を握り合いながら下校するなどとは想像もつかないことだった。中には「進んだ」生徒もいなくはなかったが、どちらかと言うと「不良」視されていた。
年をとると若い頃、それも青春時代が無性に懐かしくなることがある。悩みも怒りも多かった時代だが、それでも今になると当時の心象は、明るい光が溢れているようなものとして思い出されることが多い。青春時代は清潔でみずみずしいものであるのがいい。学校帰りの高校生の男女達を見ると、そのように思うことが多い。
インタネットより
初恋
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれなゐ)の秋の実に
人こひ初めしはじめなり
わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情に酌みしかな
林檎畠の樹(こ)の下に
おのづからなる細道は
誰(た)が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ
『若菜集』(明治30)所収
インタネットより
みずみずしい情感の溢れた詩で、多感な高校生時代の私は大好きだった。『若菜集』は藤村の最初の詩集で25歳の時に刊行された。この詩が何歳の時の作かは知らないが、あるいは10代の時のものかも知れない。少なくとも歌われている心情は10代の少年少女のものだ。昔の娘は16,7歳になると髪を結ったから、「結い初めし」と詠まれた少女はその年頃だろう。今の高校生くらいだ。少年もそれに近い年齢なのだろう。この詩を口ずさみ、少女の初々しい様子を想像しながらロマンティックな思いにとらわれたものだ。あの頃の私たち高校生などは、今の高校生に比べると一面ではひどく大人びていた反面、恋などにかけては今時の高校生の足元にも及ばないおくてなところがあり、プラトニック・ラブなどを称揚していたものだ。近頃のように寄り添って手を握り合いながら下校するなどとは想像もつかないことだった。中には「進んだ」生徒もいなくはなかったが、どちらかと言うと「不良」視されていた。
年をとると若い頃、それも青春時代が無性に懐かしくなることがある。悩みも怒りも多かった時代だが、それでも今になると当時の心象は、明るい光が溢れているようなものとして思い出されることが多い。青春時代は清潔でみずみずしいものであるのがいい。学校帰りの高校生の男女達を見ると、そのように思うことが多い。
インタネットより