癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

斉藤さんへの弔辞

2014年04月12日 | 斉藤浩敏さん行方不明関連
 
紋内岳での斉藤さん               開墾岳でのツーショット
 
岩子岳をバックの斉藤さん            ペンケ山を滑り降りる斉藤さん

 今朝になって、「今日の告別式の弔辞をお願いしたい」との依頼の電話が来た。あまりにも急だったが、話のネタはたくさんあるので、私で良ければと、引き受けることにした。以下、その弔辞の全文である。
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弔 辞

 斉藤さん、わずか3ヶ月前の1/11~12に今金ピリカスキー場で開催されたスキー指導員研修会で同じ班で弟の健さんとも一緒に滑って以来、今ここで、このような形でお別れのお言葉を捧げることになるなんて、思ってもみませんでした。

 振り返ってみますと、斉藤さんとの出会いは、今から44年前、私がスキーの準指導員に合格して、現在私が会長を仰せつかっている函館スキー指導員会の一員として迎えられた時でした。その後函館スキー連盟教育部理事としても一緒に仕事をしたこともありました。斉藤さんは10数年に渡り、教育部の会計という重責を務められ、いろいろお世話になったことが印象に残っております。

 その後、テニスをされていたことは知っていましたが、登山をされていることは知りませんでした。そのことを知ったのは、今から15年ほど前でしょうか?日高山脈の野塚岳の入山届で斉藤さんのお名前を発見した時でした。帰宅後、すぐに電話して、「実は若いころブリガンズ山岳会を立ち上げてバリバリ登っていたことがあるのですが、ずっと止めていました。退職後の再就職の仕事も終わったので、坂口さんの真似をして「北海道の百名山」を登り始めています」と聞かされました。その後、お互いの「北海道の百名山完登」の山が、同じ2004年5月2日の同じ日高山脈のピリカヌプリだった偶然も重なり、その途中でお会いしたことも懐かしい思い出です。そのことは、その後、斉藤さんが出版された『「感動と出会いを求めて」~私の歩いた北海道の百名山』にも書かれておりましたね。

 それ以来、お互いに道南の藪山も登るようになり、数えてみたら10数回一緒に登っていました。中でも、一番印象深いのは、お互いに単独では厳しいと登り残していた道南のマッターホルンと呼ばれている3月の岩子岳でした。そのときに撮影してくれた私が映ったビデオがNHKで放映されたことも懐かしい思い出です。また、2人でマウンテンバイクで長い林道を走って、沢を登り、藪を漕いで登頂した紋内岳も印象に残っています。

 その間、北海道の山メーリングリスト函館地区懇親会にもたびたび参加いただきました。そのときのメンバーが今回の捜索隊の中心となりました。ここ数年、山でご一緒する機会は少なくなりましたが、電話で、体力が落ちてきたこと、風邪を引けば治りが遅いことなどを聞いて少し心配しておりました。しかし、昨年の夏、トムラウシ山で偶然お会いした時には「日帰りでこの山に登りに来るなんて、まだまだ気力・体力も十分じゃないですか。うれしいですね~。また一緒に登りたいですね」話したことがつい先日のような気がします。

 このたびの斉藤さんの行方不明を知ったのは3月3日の雌阿寒岳から下山したときでした。遠藤さんと鎌鹿さんからの電話でした。まさか、斉藤さんが?と信じられない思いでした。そのとき、帰ったらまず車を探さなくてはと思いました。翌日藻琴山から下山したら、鎌鹿さんから「車が見つかった」との電話をいただき、その日のうちに650km走って帰宅しました。警察の捜索はその翌日からの大雪で当分中断すると聞かされました。

 遠藤さんや鎌鹿さんと相談して、なんとか我々山仲間としても探し出したいということになり、捜索活動を開始しました。幸い、山仲間の間では愛読者が多い私のブログで協力を呼びかけたところ、地元だけでなく札幌方面からも予想をはるかに越えた仲間が駆け付けてくれました。斉藤さんのお人柄と出版された2冊の本のお世話になった方々でした。また、スキー指導員仲間からも多くの激励とたくさんの差し入れもいただきました。

 
 その後、いろいろな可能性を考えて何度も探しましたが、なかなか手がかりが見つかりませんでした。3/30に設計山まであと2km地点のところでスキートレースを見つけた時には、その先だと思い、4/5と4/6の捜索ではその先の稜線と谷と尾根をくまなく探しました。しかし、見つけることはできませんでした。あとは、我々の想定外のところか、谷の中の雪崩のデブリの下しかないだろうと翌日の道警ヘリコプターと道警山岳救助隊の捜索に期待を掛けました。

 案の定、考えもしなかった場所で、しかも国道まで直線距離で300mのところで発見されたと聞き、唖然としましたが、「見つかって良かった~!」と心から喜びました。警察関係者から「坂口さんのブログに記載された捜索情報のお陰で、まだ探していないところを中心に捜索できたお陰です」と言われ、報われた感じがしました。

 設計山手前2km地点まで行って、なぜこちらへ戻ったのかは謎ですが、一昨日、斉藤さんが発見された場所に数人で行ったときに、そこでもスキーのトレースを見つけました。「ここまでコースを選んでスキーで滑って来れるということは、まだ元気だったんだ。暗くなったので、スキーからかんじきに履き替えて、レスキューシートに包まってちょっと休んでいるうちに疲れから眠ってしまい、低体温症を起こしてしまったに違いない。」と確信しました。迷ったり苦しんだり、体力の限界などを感じて失意のうちに亡くなったのではないことがせめてもの救いでした。

 このたびのことで、これまで名前や顔は知っていましたが、一緒に登る機会の少なかった山仲間たちが、捜索とは言え、同じ目的で一緒に山に入って活動でき、交流を深めることができたことは、斉藤さんの大きな贈り物になりました。
 

 どうか安らかにお眠りください。そして、私たち山仲間をお守りください。斉藤さんの穏やかなやさしい笑顔と思い出は、一生消えることなく私たちの胸に生き続けていくでしょう。
函館スキー指導員会会長 坂口一弘

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