癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

函館山ほか再発見

2009年09月04日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ


 この度、札幌から若き岳友あまいものこさんが来函し、我が家に2泊して、一緒に函館市内をあちこち探訪・調査して歩いた。

 来函に当たって、いろいろネットで下調べをしてきている彼の希望で、1日目は、函館山探訪、旧イギリス領事館、公会堂、夜泣き石(鶏冠石)と33番観音地蔵、五稜郭公園とタワーほか。
2日目は、函館公園、市立博物館の特別企画展「アイヌの美」、市立中央図書館での3時間以上にわたる函館山に関する歴史資料調査ほか・・・。

 歴史調査が好きな彼のお陰で、特に、見過ごしてきたり、知らなかった函館山の歴史などを再発見することができた。

いくつか述べると、下記のことである。

○明治の初め頃の函館山の写真を見て、「函館山って昔は禿げ山だったんですね~」・・・確かにそのころの数枚の写真は、麓の杉の人工林以外はみごとな禿げ山である・・・崖崩れあとのような岩肌が広く露出した部分まであるようだ。調べてみたら、江戸時代に松前藩が燃料として乱伐をしていたらしい。また、住民の薪などを確保するためにも伐採が繰り返されたのであろう。

明治5年撮影の下記の写真もその一枚である。


○寒川集落については、自分が所持している『寒川集落』で、いろいろ調べることができたが、図書館では、さらに、下記のような地図(寒川の部分だけ拡大)を見つけた。

・一点鎖線部分は、要塞開設に当たって立ち退き命令を出されたが、頑張って居住や立ち入りが認められた部分。

・二つあった冷泉に「亀の湯」「鶴の湯」の名前があり、川の名前も載っている。集落の中に流れている3本の川が「三本川→サブカワ→サムカワ(寒川)」の由来らしい。


○要塞時代には、穴澗龍神社の近くや立待岬の近くに発電所があった。

○観音山(265m)は、昔は高龍寺山とも呼ばれていた。

これらの他にも、市内を一緒にあちこち見て歩いても、彼の目の向くところや興味を抱く部分に引かれて、こちらまで新たな発見もあった2日間であった・・・。