唱えるお経は違っても、想いは同じ心です。

2011年03月19日 | その他

(春彼岸、夕陽がきれいに茜色)

亡くなられた方が阪神淡路大震災を上回り、行方不明の方と合わせるとその数18,000人を越すという大震災の報、被災されて厳しい環境での避難生活を強いられている方々が数十万人となる過酷な現実、原子力発電所では、事故を抑え込むために命の危険をも顧みず、日本を救うために戦っていただいていると云うニュース、計画停電の影響で大変な状況下での生活、どれを見聞きしても本当に悲しく辛いものばかりです。                                                                                                                                                                   全国民一人ひとりが、自分の出来ることは何か、自分のできることから、自分に出来ることの力をすべて出し切って、この最困難な事態を何としても乗り切っていかなければと強く感じます。                                                  

人が亡くなりますと、その日のうちにお坊様にお経をあげていただきます。枕経(まくらぎょう)というものですね。そして、お通夜にももちろんお坊様にお経を、告別式にもお経を、さらに火葬に際しても、最後にお寺にお参りしまして初七日を執り行う際も、もちろんお経を唱えていただき、死者を懇(ねんご)ろににお弔いいたします。                                                                                 そのお経のことですが、枕経からお通夜に、告別式やお寺にお参りした時、唱えるお坊さんの読経、それをじっくり丁寧聞きましてこんなことを感じます。                                                                   先日のお葬式の一部始終の体験で、宗派によってでしょうかね、枕経からお寺でのお経まで全部同じに聞き取れました。                                                                               読経の言葉や流れの文句、それがどの場面も同じです。以前の別の宗派の体験では、確かそれぞれ違ったように感じてました。                                                                            これまでのお葬式では、宗派によるのでしょうが、なにやら梵字の訳のわからぬ発音ばかり、それでも場面ごとに違う感じに聞き取れる、お経ごとになにやら意味ありげに感じましたね。今度の葬式そのお経はですね、凡人の素人が聞いても言葉がわかる日本語の物語を語るような読経です。                                                                                                            まあ、親近感があるといえばありまして、梵字のような聞いててなにやら訳の分からぬお経よりも、良いかなと思えば思いたくなるようなものでした。しかしどの場面でも毎度毎度同じセリフの日本語の物語、ちょっとそれも値打ちがないような気がしましたね。                                                                                                                                   お葬式の済んだあとは初七日、二七日、三七日と続いて7週目の七七日(四十九日)で忌明けとなります。                                                                                            もちろん、亡くなった故人に向かっては、お葬式を終えてからも毎日毎夜に手を合わせ、お経をあげて弔わなければなりません。お寺でちょっと繰り上げて初七日を執り行った、最後にお坊さんが参列の親族に向かってこんなお話しされました。                                                                                                                                                                「仏教では、人が死んでからの49日間を中陰(ちゅういん)と申しまして、 死者が生と死・陰と陽の狭間に居る期間となります。死者があの世へ旅立つ期間、陰と陽の間という事ですね。その中陰を無事に終え、あの世に到達する日が満中陰(まんちゅういん)、七七日(四十九日)と申します。」、                                                                                                                       「死者は、この世からあの世に行く道中に、険しい山や針の野原、火の海を通り過ぎなければなりません。そして、七日ごとにいろいろな関所があり、そこで生前の生き方や行いを調べられ、天国に行く者地獄に行く者と振り分けられたりします」、                                                                                                                                                         「人は、死んだ者は死んだ者、生きている者は生きている者と割り切ってしまうものではありません。亡くなった者に対して想いをいたす事の大切さはとても重要なものです。特に七日ごとの関所を通る際には、生きているこの世の者からお経をあげて、死者に功徳を少しでも届け、閻魔さまの裁きを救いの方にして貰うようにしなければなりません」、                                                                                         「七日ごとの関所を無事に通過できますように、最後の三途の川を無事に渡れますように、そして天国に辿り着きますようにと弔いする日が、初・七日、二・七日・・・・・・・五・七日、六・七日の前の日の夜、その日を待つという事から逮夜(たいや)と云って拝む日なのです」、                                                                                                                                                  「今日は少し早目の初七日でしたが、次は二逮夜、三逮夜・・・・・・六逮夜とお参りいたします」と、優しく優しく死者への心遣いを説かれます。                                                                                                   仏教は、宗派によってお経や弔いのやり方其々微妙に違っても、最後の件(くだり)の逮夜の気持ち、天国に旅立つ死者に届けと功徳の行事、唱えるお経は違っても、想いは同じ心です。

《天国へ 無事辿り着け 逮夜拝》