(ふるさと但馬は雪の中、と云ってもスキー場にうっすら積もったばかりです)
昨夜は、赤穂浪士の討入りの夜です。
元禄15年12月14日の深夜です。吉良邸への討入りは明け方までかかって、15日の朝は晴れ渡った雪景色の中、上野介の打ち首を主君・浅野内匠頭(たくみのかみ)の墓前に持っていくため、江戸の市中を堂々の行進です。
昨日は、地元赤穂の町でも義士祭が、四十七士や家族らとつながりがある、加東市や豊岡市、篠山市など県内各地で「義士祭」が開かれ、多くの参列者や関係者が遺徳をしのんだと伝えます。
ふるさと但馬の豊岡市は、もちろん赤穂浪士の討入りと縁(ゆかり)もあります大ありですね。
もう何回もブログで書きました。
討入りのリーダー、大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)の奥さんが、豊岡・京極藩出身の「りく」さんなのです。
豊岡駅の近くの道路沿いに(忠臣蔵・大石内蔵助の妻 大石りくのふる里・豊岡)と大きな看板です。
良妻賢母な武士の妻の手本として称えられた「りく」は、豊岡京極藩の筆頭家老・石束(いしずか)家の長女で、赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助の妻ですね。
内蔵助が討ち入りを決意し、妻子に罪が及ばぬように離縁、「りく」が子供を引き連れて但馬の実家へ向かうくだりは、ご存知忠臣蔵ではあまりにも有名な場面ですね。
大石内蔵助と長男主税(ちから)に別れを告げ、京都・山科から長女くう、次男吉千代、二女るりの手を引き、豊岡に帰った大石りくには、山科で身ごもり実家・石束家で生まれた、三男大三郎を合わせて五人の子供がいました。
主税は父と一緒に討ち入り、長女くうは討ち入りの翌年に15才で亡くなり、須谷の円通寺で出家して僧名・元快(げんかい)となった吉千代も、その五年後に19才で亡くなり、大石りくさんの運命はとっても大変だったようですね。
でも、二女のるりと三男の大三郎は無事成長し、大三郎が安芸国・広島の浅野本家に仕官し、るりも浅野一族に嫁ぎ、その時から広島に移り住みます。大石りくさんは広島の地で68才で亡くなっています。
豊岡の正福寺には、中央にりくさんの遺髪塚、両脇に若くして世を去った愛児、長女くう、次男吉千代の墓が寄り添うように建っています。
昨日は、豊岡・正福寺で義士祭が執り行なわれ、赤穂浪士が討入り前に食べたと云う、「蕎麦(そば)」に思いを馳せて出席者全員で「討入り蕎麦(そば)」を食べたと新聞で報じます。
討入りは今から310年前の、元禄15年(1703年)です。
12月14日深夜から15日の明け方と云われて、縁(ゆかり)の地では年末行事のように、12月14日の日中に「義士祭」をいたします。
江戸の町を、雪をかき分け、サクッ、サクッ、サクサク、サクっと討入りする様子が、映画でも芝居でも描かれています。
当然ですね、討入りは旧暦の12月14日ですから、今の新暦で云いますと大体1月末から2月の初めです。
新暦12月14日には、江戸の町にはまだ雪は早いです。
今年の場合、旧暦の12月14日は来年1月14日ですよ。通常の年から云いますと、とても早い方です。
旧暦って暦は、毎年必ず12ヶ月とは決まっていません。3年に一回ですが閏月ってなものがあって、一年が13ヶ月になります。《厳密には3年(2.715年)に1ヶ月、19年に7回1ヶ月分の閏月を加える》
最近では2012年2月に閏月がありまして、2月と閏2月の2ヶ月ありました。来年2014年にも、9月に9月と閏9月の2ヶ月ですね。
そのためでしょうか、今年は旧暦12月14日が1月14日と案外早く来ますが、来年の12月14日の旧暦は、実に遅くて2月の2日です。
それじゃあ元禄15年はどうだったかと云いますと、元禄15年12月14日(旧暦)は、今の新暦に直すと1月30日なのです。
やっぱり、江戸の市中も一月末なら大雪だったことでしょう。
《我が家での 討入り蕎麦は カップ麺》