
嬉(うれ)しさは 思いのほかに よく書けた やぶ医者の話 清書するとき
ふるさとの話⑰ 7月号
道の駅ようか但馬蔵(たじまのくら)で「やぶの本」というパンフレットを見ました。
養父のちょっと自慢ばなしとして「朝倉山椒」と、「やぶ医者の語源は養父」の記事が載っていました。
今月は八鹿町の「養父医者」の話です。
クイズのヒントも隠れています。
子供のころ、大人から聞いたことがあります。「へたくそなお医者さんのことを、やぶ医者っていうね。やぶ医者って八鹿の昔のお医者さんのことだってね」、
「やぶ医者ってのは本当はすごい名医のことを言うそうだね」と話していることを聞きました。
やぶ医者の語源
「やぶの本」という観光パンフレットにはこう載っています。
見出しに、やぶ医者の語源は「養父医者」と書いて、「やぶ医者」のモデルは、5代将軍綱吉に仕えた、養父出身の医師長嶋的庵の一族だと伝えられています。
語源も「もともと養父にいる名医のことで、下手な医者という意味ではない」と松尾芭蕉の門人が編纂した「風俗文選」には記されています。
江戸に出た長嶋徳元
寛永14年(1638)のころです。今から380年前のことです。
但州養父郡九鹿村から長嶋徳元という医師が、祐伯と立庵の二人の息子と一緒に、一家あげて江戸に出向きました。
天下の大老酒井忠清の知遇を得て、徳元と長男祐伯は武蔵金沢(横浜)に居を構え、新田開発などをします。
荘子から由来する、泥の中で生きることを善しとした亀の「泥亀(でいき)」を号とした祐伯の家系は、泥亀長嶋家として近郷に知られる素封家としての道を歩みます。
医道を進む長嶋立庵
次男立庵は、典薬頭半井家の後押しで医道によって幕府に仕えることとなります。半井家の系字である「瑞」を得て立庵は瑞得と名乗り延宝8年(1680)に
将軍綱吉にお目見えします。2年後、200俵10人扶持の旗本となり、綱吉の脈を診る奥医師に上りつめます。
立庵には丈庵、的庵(てきあん)の息子がいたが、早世した丈庵に代わって九鹿村の医師・湯浅元友に養育されていた的庵が、江戸に呼び寄せられます。
名医としての名声は、徳元の孫に当たる的庵の時代にますます広がり、江戸の町は養父出身の医者を「養父医者」としてとても評判となります。
但馬国の養父に住んでいました湯浅元友も評判の医師だったようです。多くの医者の卵が弟子となり的庵一族は広がります。
名医のブランドがヘボ医者に
そのうち「自分は養父医者の弟子だ」などと口先だけの者が表れるようになります。
「養父医者」の名声は地に落ち、いつしか「薮」の字があてられ下手な医者を意味するようになっていきます。名医のブランドだった「養父医者」は、いつしか
ヘボ医者の「やぶ医者」に変わっていきます。江戸時代の俳人・松尾芭蕉の門弟・森川許六(もりかわきょろく)の俳文集に、「薮医者ノ解」という一節があります。
『世に薮(やぶ)醫者と號するは。本(もと)名醫の稿なり・・・但(たん)州養父(やぶ)といふところに隠れて。治療をほどこし。
死を起(をこ)し生に回(かえ)すものすくなからず。されば其の風をしたひ。其業を習う輩。津々浦々にはびこり。
やぶとだにいへば。病家も信をまし。薬力も飛ぶがごとく・・・』と出ています。
長嶋家のその後
的庵の後は秀明、秀房、秀等、秀門と医者の家として代々続きました。しかし江戸の町にも、八鹿の町にはもちろん跡はほとんど見当たりません。
八鹿町九鹿の禅寺・龍蔵寺の裏山に、的庵に命じられて子である長嶋秀明が建立したといわれる、養父母の湯浅元友の墓があります。
ふるさと但馬に残る唯一の「養父医者・長嶋家」にかかわる跡と言われています。
長男・祐伯を祖とする泥亀永島家は、幕末、明治、平成の世まで続き、十六代永島家(途中で長嶋から改名)当主、永島加年男氏(故人)が編纂した
「泥亀(でいき)永島家の歴史」が、昨年七月遺稿集として出版されました(八鹿公民館所蔵)。但馬九鹿村から江戸に出た長嶋徳元一家の詳しい話が載っています。
(養父市ホームページや「泥亀永島家の歴史」を参考にして書きました)