秋晴れの下・府中小学校運動会
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成27年 第10回但馬検定(2級)問題より
【13】1185年壇ノ浦の戦いの後、平家の落人として豊岡
市気比に住み、その後捕われて刑死し、気比と城崎町湯島に
残る宝篋印塔がその供養塔と伝わっているのは、次のうち誰
でしょうか。
(a)門脇宰相平教盛 (b)越中次郎兵衛盛継
(c)伊賀平内左衛門家長 (d)矢引六郎右衛門
壇ノ浦の戦いに敗れ京の都に落ち延び、そのあと但馬の地
まで逃れて、豊岡市気比(けひ)に潜伏し後に鎌倉に囚われ
刑死した平家の武将は、「越中次郎兵衛盛継(えっちゅうじ
ろうびょうえもりつぐ)」です。
気比の白山神社境内にある宝篋印塔(ほうきょういんとう)
は、盛継の現地妻が建立したと言われ、城崎・湯島の供養塔
は、湯嶋の遊女が建てたものと言われます。
但馬の平家の落人伝承は、香美町余部の御崎ほか約40ヶ所に
残されていますが、唯一史実としてはっきりしているのは、
気比に潜んだ越中次郎兵衛盛継の話だけです。
平家物語には記されています。
平家の武将越中次郎兵衛盛継は但馬国へ逃げて延び、豊岡市
気比の豪族気比道弘(けひみちひろ)のもとに、下男に身をや
つして隠れ住みました。
気比道弘は盛継を平家の武将とは知りません。
娘の婿になった盛継は馬を引きまわし、海を駆け巡り武芸を
励む仕草をします。怪しんだ地元の役人たちから噂は鎌倉に
伝わり、召し捕りの御教書が下され、とうとう捕らわれてし
まいます。
鎌倉に送られ頼朝によって由井の浜にて斬罪に処せられます。
気比と湯島に残る供養塔(宝篋印塔)は、一年ばかり過ごし
た地元の娘や遊女が盛継供養に建てたものです。
答えは、(b)の越中次郎兵衛盛継なのです。
ちなみに、(a)の門脇宰相平教盛、(c)の伊賀平内左衛門家長、
(d)の矢引六郎右衛門は、香美町余部の御崎にたどり着いた平
家の落ち武者達です。
この地の平家落人伝説は、現在まで百手(ももて)の儀式とし
て源氏打倒-平家再興を願うとても有名なところなのです。
『や~と』
いつも、話し言葉や訛りの但馬弁ばっかり書いていたけれ
ど、今日は固有名詞の但馬弁だよ。
ケンちゃんは「やいと」って知っているか。
「やいと」は近畿地方や但馬の言葉なんよ。何のことかとい
うと、「やいと」は「きゅう」と言ってね、漢字で書くと「灸」
なんだわ。
「お灸」と言ってね、「もぐさ」を小さく丸めて背中のツボに
のっけて火をつけるの。
あの熱いお灸のことなんよ。
今では「もぐさ」に直接火をつける「お灸」ってほとんどしな
いだろうけれど、じいちゃんが子供のころは、「お灸」も「や
いと」もよくされたんよ。
但馬弁では「やいと」は「や~と」って発音するの。なので、
じいちゃんの母ちゃんにこんなに言われたんよ。
「言うこときかん子は、や~とせ~ちゃらか。わり~ことばっ
かりする子は、や~とせ~るで」って脅かされたし、実際に大
きな「やいと」を背中にされたんよ。
今日の「や~と」は、とっても熱い怖い話です。
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成27年 第10回但馬検定(2級)問題より
【13】1185年壇ノ浦の戦いの後、平家の落人として豊岡
市気比に住み、その後捕われて刑死し、気比と城崎町湯島に
残る宝篋印塔がその供養塔と伝わっているのは、次のうち誰
でしょうか。
(a)門脇宰相平教盛 (b)越中次郎兵衛盛継
(c)伊賀平内左衛門家長 (d)矢引六郎右衛門
壇ノ浦の戦いに敗れ京の都に落ち延び、そのあと但馬の地
まで逃れて、豊岡市気比(けひ)に潜伏し後に鎌倉に囚われ
刑死した平家の武将は、「越中次郎兵衛盛継(えっちゅうじ
ろうびょうえもりつぐ)」です。
気比の白山神社境内にある宝篋印塔(ほうきょういんとう)
は、盛継の現地妻が建立したと言われ、城崎・湯島の供養塔
は、湯嶋の遊女が建てたものと言われます。
但馬の平家の落人伝承は、香美町余部の御崎ほか約40ヶ所に
残されていますが、唯一史実としてはっきりしているのは、
気比に潜んだ越中次郎兵衛盛継の話だけです。
平家物語には記されています。
平家の武将越中次郎兵衛盛継は但馬国へ逃げて延び、豊岡市
気比の豪族気比道弘(けひみちひろ)のもとに、下男に身をや
つして隠れ住みました。
気比道弘は盛継を平家の武将とは知りません。
娘の婿になった盛継は馬を引きまわし、海を駆け巡り武芸を
励む仕草をします。怪しんだ地元の役人たちから噂は鎌倉に
伝わり、召し捕りの御教書が下され、とうとう捕らわれてし
まいます。
鎌倉に送られ頼朝によって由井の浜にて斬罪に処せられます。
気比と湯島に残る供養塔(宝篋印塔)は、一年ばかり過ごし
た地元の娘や遊女が盛継供養に建てたものです。
答えは、(b)の越中次郎兵衛盛継なのです。
ちなみに、(a)の門脇宰相平教盛、(c)の伊賀平内左衛門家長、
(d)の矢引六郎右衛門は、香美町余部の御崎にたどり着いた平
家の落ち武者達です。
この地の平家落人伝説は、現在まで百手(ももて)の儀式とし
て源氏打倒-平家再興を願うとても有名なところなのです。
『や~と』
いつも、話し言葉や訛りの但馬弁ばっかり書いていたけれ
ど、今日は固有名詞の但馬弁だよ。
ケンちゃんは「やいと」って知っているか。
「やいと」は近畿地方や但馬の言葉なんよ。何のことかとい
うと、「やいと」は「きゅう」と言ってね、漢字で書くと「灸」
なんだわ。
「お灸」と言ってね、「もぐさ」を小さく丸めて背中のツボに
のっけて火をつけるの。
あの熱いお灸のことなんよ。
今では「もぐさ」に直接火をつける「お灸」ってほとんどしな
いだろうけれど、じいちゃんが子供のころは、「お灸」も「や
いと」もよくされたんよ。
但馬弁では「やいと」は「や~と」って発音するの。なので、
じいちゃんの母ちゃんにこんなに言われたんよ。
「言うこときかん子は、や~とせ~ちゃらか。わり~ことばっ
かりする子は、や~とせ~るで」って脅かされたし、実際に大
きな「やいと」を背中にされたんよ。
今日の「や~と」は、とっても熱い怖い話です。