香住の遍照寺(へんじょうじ)の桔梗の花
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成27年 第10回但馬検定(2級)問題より
【16】尊皇攘夷を掲げた「生野の変」に但馬の尊皇志士たち
も多く加わりましたが、次のうちこの事件に参加していない
のは誰だったでしょうか。
(a)多田弥太郎 (b)北垣晋太郎
(c)河本重次郎 (d) 進藤俊三郎
幕末は黒船騒ぎのころ、大和国で天誅組が五条代官所を
襲撃して挙兵した、天誅組の変という倒幕事件がありまし
た。
しかし失敗してしまいます。
その直後に起こったのが、生野代官所を占拠する生野の変
なんです。
大和国と但馬国の生野が、尊王攘夷を掲げて倒幕ののろし
を上げた、幕末の第一号、第二号ってわけです。
その後、明治維新まで次から次へと、〇〇騒動とか〇〇事
件とかが続いていくのですが、生野の変は倒幕の先駆けだ
ったと言うことなのです。
生野義挙(生野の変)に中心メンバーとして参加したのが、
出石藩士で尊王の志士の多田弥太郎、養父市納座の庄屋の
息子だった北垣晋太郎、隣村の朝来市佐中の大地主の息子、
進藤俊三郎です。
北垣と進藤は儒学者池田草庵に学んだ学友です。
生野代官所を占拠した生野の変はわずか一日で敗れて、多
田は代官所より京へ逃げ延び敗走の身になります。
その後宿南にて捕縛されて出石藩に護送途中で惨殺されて
しまうのです。
北垣と進藤は京から武器搬送の途中に敗れたことを知り、
必死の思いで因幡の国に逃げ延びます。
北垣晋太郎は北垣国道に、進藤俊三郎は原六郎に名前を変
えて鳥取藩から長州藩へと流れた後、明治新政府の要人へ
と進みました。
北垣国道は京都府知事をへて官界の重鎮へ、原六郎は第百
国立銀行頭取へなり、明治の経済界の中枢的存在として活
躍します。
「生野の変」に参加したのは多田、北垣、進藤ですから、
参加しなかったのは河本重次郎となります。
答えは、(c)の河本重次郎です。
ちなみに、河本重次郎は豊岡市生まれの明治の眼科医師で、
日本近代眼科の父と言われるほどのすごい人物なのです。
『うちげ』
ミオちゃんね、こども園の友達にミオちゃんちに遊びに
来て~っと言う時にどう言う。
「明日の土曜日、母ちゃんと一緒にミオちゃんちにきてね。
ミオちゃんちに遊びに来てね」って言うだろね。
ミオちゃんは自分ちの家は「ミオちゃんち、うちんち」っ
て言うね。
自分の家のことは、昔も今も但馬では「うちんち」って言
うね。
「うちん」が「私の」だから、「ち」は「家」のことなん
だね。
ところが、じいちゃんの子供のころは「私の家」は「うち
げ」って言ったんよ。
「うち」が「私の」になって、「げ」が「家」だね。
「うちげ」は、どうも建物の家をイメージするんじゃなく
って、どちらかと言うと「建物」よりも「我が家」って言
うことなんよ。
「うちげ」って、「私のすてきな家、我が家なんよ」と言
う感じの言葉なの。
「まあいっぺん、うちげに遊びにきんせ~な。うちげでユ
ックリ話をしような」なんて言う時に、「うちげ」は使う
んよ。
ミオちゃんは今の子だから「うちげ」なんて言わんね。
(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成27年 第10回但馬検定(2級)問題より
【16】尊皇攘夷を掲げた「生野の変」に但馬の尊皇志士たち
も多く加わりましたが、次のうちこの事件に参加していない
のは誰だったでしょうか。
(a)多田弥太郎 (b)北垣晋太郎
(c)河本重次郎 (d) 進藤俊三郎
幕末は黒船騒ぎのころ、大和国で天誅組が五条代官所を
襲撃して挙兵した、天誅組の変という倒幕事件がありまし
た。
しかし失敗してしまいます。
その直後に起こったのが、生野代官所を占拠する生野の変
なんです。
大和国と但馬国の生野が、尊王攘夷を掲げて倒幕ののろし
を上げた、幕末の第一号、第二号ってわけです。
その後、明治維新まで次から次へと、〇〇騒動とか〇〇事
件とかが続いていくのですが、生野の変は倒幕の先駆けだ
ったと言うことなのです。
生野義挙(生野の変)に中心メンバーとして参加したのが、
出石藩士で尊王の志士の多田弥太郎、養父市納座の庄屋の
息子だった北垣晋太郎、隣村の朝来市佐中の大地主の息子、
進藤俊三郎です。
北垣と進藤は儒学者池田草庵に学んだ学友です。
生野代官所を占拠した生野の変はわずか一日で敗れて、多
田は代官所より京へ逃げ延び敗走の身になります。
その後宿南にて捕縛されて出石藩に護送途中で惨殺されて
しまうのです。
北垣と進藤は京から武器搬送の途中に敗れたことを知り、
必死の思いで因幡の国に逃げ延びます。
北垣晋太郎は北垣国道に、進藤俊三郎は原六郎に名前を変
えて鳥取藩から長州藩へと流れた後、明治新政府の要人へ
と進みました。
北垣国道は京都府知事をへて官界の重鎮へ、原六郎は第百
国立銀行頭取へなり、明治の経済界の中枢的存在として活
躍します。
「生野の変」に参加したのは多田、北垣、進藤ですから、
参加しなかったのは河本重次郎となります。
答えは、(c)の河本重次郎です。
ちなみに、河本重次郎は豊岡市生まれの明治の眼科医師で、
日本近代眼科の父と言われるほどのすごい人物なのです。
『うちげ』
ミオちゃんね、こども園の友達にミオちゃんちに遊びに
来て~っと言う時にどう言う。
「明日の土曜日、母ちゃんと一緒にミオちゃんちにきてね。
ミオちゃんちに遊びに来てね」って言うだろね。
ミオちゃんは自分ちの家は「ミオちゃんち、うちんち」っ
て言うね。
自分の家のことは、昔も今も但馬では「うちんち」って言
うね。
「うちん」が「私の」だから、「ち」は「家」のことなん
だね。
ところが、じいちゃんの子供のころは「私の家」は「うち
げ」って言ったんよ。
「うち」が「私の」になって、「げ」が「家」だね。
「うちげ」は、どうも建物の家をイメージするんじゃなく
って、どちらかと言うと「建物」よりも「我が家」って言
うことなんよ。
「うちげ」って、「私のすてきな家、我が家なんよ」と言
う感じの言葉なの。
「まあいっぺん、うちげに遊びにきんせ~な。うちげでユ
ックリ話をしような」なんて言う時に、「うちげ」は使う
んよ。
ミオちゃんは今の子だから「うちげ」なんて言わんね。