山名祐豊の築いた城

2018年09月28日 | 但馬の城跡
       円山川河川敷の牧草のロール巻


(但馬ふるさとづくり協会転載許可済)
平成30年 第13回但馬検定(3級)問題より

【13】「山名祐豊」によって321mの急峻な山に築かれ、2017年
(平成29)に(公財)日本城郭協会から続日本100名城に選
定された城跡は、次のうちどれでしょうか

(a) 此隅山城跡     (b) 有子山城跡
(c) 三開山城跡     (d) 竹田城跡

 山名宗全(持豊)のころは、但馬の守護所を豊岡市九日市
に置いていました。
その後山名氏は衰退をたどり、本拠地を出石郡西部の此隅山
(このすみやま)城に移します。

山名祐豊(すけとよ)のころ、永禄12年(1569)織田信長
の命で羽柴秀吉は2万の兵で但馬を攻めます。
2週間余りで、此隅山城を含む17とも18ともいわれる但
馬の城が落ちてしまいました。

此隅山城落城後、山名祐豊は現在の出石の町の背後にそびえ
る標高321mの有子山(ありこやま)山頂に城を築きます。

背後の南は出石川、北面には東より流れる谷山川を濠に、北
は盆地が開け、豊岡・城崎まで一望できる要害の地でした。
これが、現在石垣のみが残っている有子山城跡です。

しかしわずかなうちに再び秀吉軍に攻められます。
天正8年(1580)の第二次但馬攻めです。有子山城はあえな
く落城し、但馬から山名氏嫡流は滅びてしまいます。

答えは、(b)の有子山城跡です。

 ちなみに、(c)の三開山城跡は、豊岡市九日市の守護所から
円山川をはさんで対岸にある三開山(201.6m)頂上にあ
ります。

三開山城は、南北朝時代に山名時氏(初代但馬守護職・山名
師義:もろよしの父親)の本拠が置かれていた所です。

(d)の竹田城跡は、朝来市和田山町の標高354mの古城山山
頂に築かれた全国屈指の山城です。

15世紀半ば、但馬守護職・山名持豊(宗全)によって土塁で
築かれましたが、のちに豊臣時代に赤松広秀が城主となり、慶
長の初期(1600年ごろ)に現在に残る豪壮な石垣の城郭が築か
れました。

しかし、関ヶ原の戦いの後城主を失い、廃城となります。

南北400m、東西100mの総石垣造りの竹田城跡は、虎臥
城(とらふすじょう)と呼ばれる勇壮な姿を今に残しています。


『まっと』

 ケンちゃんは母ちゃんにおやつをたくさんもらう時、どう
言う。

「母ちゃん、もうちょっとお菓子ちょうだいな。もっとほし
いな」って言うのかな。

昔の子供は可笑しいよ。
「もっと」というところを「まっと」と言ったの。

「母ちゃん、もうち~とお菓子ちょうだいな。まっとほしい
な。まっとおくれ~な」って言ってたんよ。

「まっと」は但馬弁なんよ。
だけどね、今頃の子供は「まっと」なんて言わないね。