今日は朝から、年末年始にあえてしなかった仕事をするのに追われていました。
そのなかでも、今学期の私の担当科目「子ども支援論Ⅰ」と「教育課程論」の小レポートで学生たちに書いてもらったことと、ここ最近考えていること、知りえたことなどが何かつながりかけたので、そのことを書いておこうと思います。
それは何かというと、「学校外の学びの場のもつ意味をどう考えるか?」ということです。
ちなみに「子ども支援論Ⅰ」のレポートでは、「子どもや若者の居場所」にこだわるということで、ある居場所づくり活動に取り組む方の文章を読んで、学生たちにコメントを書いていただきました。もうひとつの「教育課程論」のほうは、子安潤『反・教育入門 教育課程のアンラーン』(現代書館)を読んで書いてもらったレポートと、2008年版の中学校学習指導要領のうち「総則」の部分を読んで書いてもらったレポート、この2つです。
この3つのレポートを読みながら思い出したのは、去年12月の子育ち連携部会(子ども情報研究センター)で聴いた大賀正行さんの話と、同じく10月の山中多美男さんの話です。
具体的に何を思い出したのかというと、大賀さんや山中さんが地元で子ども会活動に熱心に取り組んでいた若かりし頃、仕事や活動を終えた夜の時間帯に仲間を集めて、社会科学系の本を読んで勉強する会をしていたというエピソードです。
このエピソードから私は、当時の高等教育機関への進学率を考えると(なにしろ1950年代末ですから)、学ぶ意欲にあふれた働く若者たちのなかに、夜や休日に自発的に集まり、誰かをリーダーにして学ぶ場をつくろうという動きが、それ相応にあったのではないか。そんな思いを抱いたのです。
また、このことは、以前、小関智弘さんの書かれた本(たとえば『働きながら書く人の文章教室』(岩波新書)など)を読んだときにも感じたこと。小関さんはご存知の方もいると思うのですが、長年、町工場の旋盤工として働きながら作家活動に取り組まれた方です。確か、働きながら小説を書いてみようと思う若者たちの同人誌づくりや、本を一緒に読む活動のなかで、小関さんは文章を書くトレーニングをされたはずです(このあたりは『働きながら書く人の文章教室』のなかに確か出てきたかと)。
それで、このような学校外で働く若者たちが、自発的に集まって学習会やサークル活動を行ってきたということ。ここになぜこだわるのかというと、「学校で学習指導要領に沿った学習を通じて身に着ける『学力』なるものは、それが全部無意味だという気はないが、しかし、やっぱり学習指導要領に枠づけられた力だということを忘れてはならない」という思いを、学生たちのレポートを読んでいてあらためて感じたからです。
また、「学校外の子どもや若者の居場所には、そのような学習指導要領に沿った学習を通じて身に着ける『学力』なるものに傷ついた子どもや若者が集まってくるのでは? だとしたら、学校外の居場所から学習指導要領の中身や、それを身に着けて『学力』を高めるということが持つ意味を問うこともできるのではないか?」と、学生たちのレポートを読んで感じました。
たぶんこの話は、今後も繰り返しでてくる話になると思います。また、不登校論を入り口にして教育学の研究の世界に入った私にとっては、いちばん「原点」にある問いといってもいいものだと思うものです。ただ、今日のところは長々と書かず、ひとまず思いついたことを書き留めておく程度でということで、この程度の記述にとどめます。
まぁ、今はとにかく、ツイッターでつぶやくように書くというのか、文章をこのブログにできるだけこまめに書くということ。それを大事にしようと思っていますので・・・・。
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