できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

父の死後、あらためて思うこと(その2)

2009-09-09 19:12:50 | いま・むかし

前回に引き続き、父の死後、あらためて思っていることを、こちらのブログに書いておきます。とはいえ、ここに書くわけですから、思っていること・考えていること・感じていることは、これからの子ども施策や青少年(若者)施策や、人権教育や子どもの人権保障のあり方などに深くかかわるわけですが。

さて、前回書いたように、高校生になってから後の私にとっては、父の病気のこと等もあって、「いかにして自分の経済的自立をなしとげていくのか?」が大きな課題のひとつでした。でも、「経済的自立」の問題は、実は高校生以前からも私にとっては大きな課題でした。

というのも、私の生まれ育った家は、ほんとうに経済的に不安定な状態が続いた家でした。私が幼い頃から、たとえば父の勤め先がつぶれて失業、転職という時期もありましたし、借金を抱えていた時期もありました。このために、たとえば給食費や修学旅行費の補助といった、いわゆる「就学援助」を受けていた時期もあります。また、私たち子どもがみんな小学校に通うようになった頃から、父の稼ぎを補うためにも、母がパートに出て働いていました。

そういう家庭の経済的な苦しさは、当然ながら、子どもの進路選択や将来展望に、いろんな影響を与えます。もう私たちの世代ですと高校進学率が9割を超えていましたから、私たち子どもは、当時であれば「高校を出たら進学ではなく、まずはどこかへ就職」ということを考えることになりますし、親も「大学に行きたければ奨学金をもらうか、自分で学費を稼いで」というしかないわけです。しかも、大学等へ進学する場合は、「家から通える範囲で」という条件がつきます。学費すら出せないのに、下宿生活の仕送りなんて到底、無理ですから。

今にして思えばもちろん、こうした親の下で育ったがゆえに、私たち子どもは「経済的自立」ということを強く意識して、自らの進路を自ら開拓するしかないと思い、必死になって努力した・根性がついたという「ありがたい」一面もあります。

しかし、高校生や大学生の頃の私は、やはり同世代の人たちを見ていると、「なぜ同じ年頃に生まれていても、育った家がちがうだけで、こんなにも進学や就職などについて、経済的な面でスタートラインがちがうんだ?」という思いが、やっぱり芽生えてきますよね。

たしかに、学校での学習をいっしょうけんめいやって成績を上げ、奨学金をもらって大学へ進学する等々、本人の努力でできることもいくつかあります。学校の教員と子ども本人のがんばり、そして、奨学金などの制度的整備によって、家計を頼らずに切り拓いていける進路もいろいろあるでしょう。

しかしそれでも、奨学金の額で学費をまかなえるところというのは、やっぱり限られているもの。だから、大学進学を前にした私のなかでは当時、「学費のできるだけ安いところ」「家から通えるところ」等々、「自分の学びたいこと」に加えて「経済的な条件に折り合いがつく」ということを、進学先を決めるために強く意識せざるをえませんでした。

おまけに、奨学金は「貸与」であれば卒業後、返済をしなければいけません。また、かつての日本育英会奨学金のようにある要件を整えれば返済が免除されるようなものもありましたが、そうなると、大学卒業後の自分の進路も視野に入れて、その奨学金を受けるかどうかを考える必要がありました。

繰り返しになりますが、こういったことはもちろん、今にして思えば、自分の「経済的自立」や将来の進路展望などを真剣に考えることにつながりましたし、「なぜ大学に行くのか?」という理由を自覚する意味でも大事であったとは思います。

でも、それは「当時のあの生活環境におかれて、私が経済的に自立していくために、やむなくそうせざるをえなかった」からしたこと。「あの頃、もっと条件がよければ、別の選択肢を考えたかも?」という思いが、どうしてもこのところ、アタマのなかをよぎるんですよね。

だから、「若い頃の苦労は買ってでもしろ」という式のおとなの説教には一方で理解できる面はあるのですが、同時に、「その苦労した子どもや若者をきちんと認めて、あとあとまで面倒見て、『苦労してよかったな~』と思えるような社会的な仕組みがなければ、そう簡単に『若い頃の苦労は買ってでもしろ』と言ってほしくない」という思いもあります。

そして、こういう経験をしてきたがゆえに、どうしても私は、昨今の子どもの貧困問題に関する議論に文献などを通して触れると、「あの頃の私」がまるでよみがえってきたような感じがして、「これって、他人事ではないよなぁ」という気持ちになるんですよね。また、子どもの進学や就職を通じての「経済的自立」の問題と、これを支えるための社会的な条件整備のあり方について、どうしても関心を寄せてしまうことになるわけです。

と同時に、経済的にしんどい状況にある家庭の子どもや、その子どもの親たちが、いろいろと苦労をして通う・通わせている学校での教育の中身とか、そこでの教員の対応のあり方などについても、当然ながら、私としてはいろいろと思うところがあります。ただ単に学校に「行けばいい」とか、「行ったらどうにかなる」というものでもないですからね。

子どもの学習権、特に学校に通うことを通じての学習権の保障(あえてこういうのは、学校外の学びの場が果たす役割を否定したくないからです)というテーマは、きっと私の場合はこんな感じで、自分の生活体験を通して何かを考え、論じることになるんでしょうね。

まだまだこのテーマについては、書きたいことがいろいろと沸いてきます。今後も引き続き、このテーマで機会を見て、書いていきたいと思います。

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