死亡の5歳、ノートに「おねがいゆるして」両親虐待容疑
昨夜のNHKの総合テレビの「ガッテン」では、寝たきりにならないためにはどうしたらいいかていう事が解説されていた。それは老後をいかに元気よく生きていけるかの、方法でもあった。
その結論として、人と人との繋がりの大切さを強調していた。
しかし現代は、この人と人との繋がりを切断させている。
人と人との繋がりを切断させている大本は何かというと、経済である。
経済活動によって利益を生む。利益は富をもたらす。
しかしその富は全ての人々に平等に齎されるものとはならず、貧冨の差が生じていく。
この貧冨の差は差別を生み、そこからはいじめや虐待が生まれ、憎しみまでも生まれて争いごとにまで発展していく。
富とはこのように、繋がりを断ち切るものでしかない。
「青い鳥物語」では、「知ルチルとミチル」の兄弟は幸せの青い鳥を求めて各地を旅していったが見つからず、空しく帰ってきた。しかし帰ってきて、自宅にこそ幸せの青い鳥がいることに気が付いている。
それは繋がりは外にはない事を意味している。
もっと言えば、自分自身の心のしっかりした繋がりだと言えるだろう。
私は以前、オーム真理教のマインドコントロールについて述べたことがあるが、実はこのマインドコントロールとは、使いように揺っては真の宗教観につながる大切なものなのである。
普通マインドコントロールというと、他人を自分の都合のいいようにコントロールすることを指すが、真の宗教的マインドコントロールはそうではなく、マインドコントロールする相手は他でもなく自分に対して行うことにある。しかしそれは、自分の思う通りに自分勝手に自分をマインドコントロールすることではない。
真の宗教的自身へのマインドコントロールとは、自然の摂理に従って自分自身を正しく導いていくようにコントロールしていくことにこそ、真の自分自身へのマインドコントロールがある。
それは別な言葉でいえば、自分で正しい自分育てをする」ことと言えよう。
そこから、他の人や他のものへの繋がりの気持ちが生まれてくる。
対北朝鮮、声明に「圧力」盛らず=完全非核化へ外交後押し―日米韓防衛相
安倍晋三という我が国の首相は、事あるごとに教育と言っている。
新教委幕基本法、教育改革、英語教育、道徳教育・・・・・ら、教育という言葉゛をつかっいてやまない。しかしその教育が、どう言うべきかという段になると、あやふやになってしまっている。
教育には、二つの形がある。教育というその言葉の通り、学ぶということだが、この学びの内容には大きな違いを持っている。
一般にいう教育、即ち学びとは、知識を得ていくこととしている。知識を得て、教養を深めていくことにあるとしている。
しかしそうして得た知識や教養の使い方、役に立て方のやり方というものが、少しも教え学ばせていない。だからやっと得た知識も教養も、正しく生かしていけなくなっている。
それはこれら知識や教養を、正しく生かしていこうという道の学びが、疎かになっていることにある。
人間というものは、欲望の塊みたいになっている。それ故に、知識も教養も、この欲望を満たしていくために利用しようとしてしまう。自己本位になり、自己中心になり、相手とぶつかってでも自分の欲望を満たすことに利用しようとしている。
そこから差別や争いがおこり、人を殺すことも厭わずに戦争にもなっていく。
それに対して道を学ぶという教育とは、心の教育というべき教育である。
この心の教育は、普遍的に生きるという道を学んでいく教育のことである。
この教育とは別に、宗教も信仰ともいう。
石破氏「総理は命を削る仕事、自分はできるか日々自問」
人生を生きるということ、それは命懸けでなさなければならない。
楽をしようとか、面白いことをしていようとか、遊んでいようとしていいものではない。そういうものは「泡沫の夢」みたいなもので、瞬く間に消え去っていく。
安倍首相は、「自分は行政の長であり、自衛隊最高司令官である」といい、そして「全ては自分に責任がある」と言っている。
ところが「自分に責任がある」と言いながら、その責任は何ら取らない。取らないままに、例えば財務省の文書疑惑に関しても、財務省の責任管理者である麻生太郎の辞任勧告も罷免も行っていないし、むしろ反対に「辞任する必要はない」と擁護している。
そこには自分の権力や地位を捨てて、命懸けで対処しようとする姿勢がない。
我が身ばかり、構っている。
「首相案件、柳瀬氏が発言」面会の1人が証言
「縁起」とは、お釈迦様が悟られたお悟りの根幹をなすものである。
「今の事象には、その事象となる原因がある」というのが、縁起館であり、その原因に縁が加わり事象という結果を生じさせている。
このことを「因縁果とも、因果律」ともいわれる。
今安倍首相は、「森友、加計、防衛日報」らのことで、毎日のように追及されている。だが次々と出てくる新事実にもかかわらず、固くなままにしらを切り通している。しかし外堀も内堀も攻められていき、本丸も危ないというのに、何のかんのと言って弁解で凌ぐつもりらしい。
第一その原因を作ったのが、自分なのだとすらわからないでいる。
今に第一次安倍政権の時に発症した病が再発し、心身を蝕んでいくだろうに。
しかし信仰を嫌い、宗教も嫌う彼には、道徳教育の必須化といっても、それは所詮は我が身かわいさを教えるものにしかすぎず、一国の指導者の取る道とはならない。
とはいっても、信仰心や宗教審に目覚めるのは、至難な技ともいえ。
何故かというと「我」を持つからだ。「我」は「欲」を持ち、それが信仰心や宗教心を持つことを妨げている。そのために「縁起」についてもわかりもしない。
「人生100年時代構想」がアベノミクス大反省会みたいになってて面白い
人生は、たった1年であろうとし百年であろうと変わりはない。
問題は、今の一秒一刻を、一瞬一瞬を「人にも良かれ、我が身にも良かれ」となるように努めていき、悔いなく充実した人生にしていくことにある。
そしてそれは、全ての人々もまた悔いなく充実した人生への携わりになるべきもの。
「人生100年時代構想」などは、無知なもの知らずなもの考えでしかない。
横田めぐみさん拉致から40年
恵さんが拉致されてから40年たっていられるが、おそらく帰国できることは叶わないだろう。
どうしてこのような悲観的で非人情的なことを言うのかというと、この国の指導者がこのような指導者では決して成果が上げられないからだ。
安倍首相は事あるまいに、「北朝鮮に圧力的制裁をかける」と、公言してはばからない。こう言ってやれば金正恩委員長は、恐れ入ってこちらの軍門に下ると甘く見ている。
金正恩委員長は軍門に下るところかその反対に、激昂してますます意固地になってしまうに違いない。
安倍首相には、安倍政権になってから「新教育基本法」を改訂させたり、また「英語、道徳教育の必須化」をさせようとしているが、そもそも「教育とはどういうものか」について全然わかっていない。
それだから何かと法律化し法令化していき、何彼あると指示を出すとか、関係省庁から自治体などに通達を出して済ませていようとするだけだ。
ここにも「教育の在り方」が、しっかり理解されていないことから起きており、そのためにあたら「死にたい」と言ったりする自殺願望者や、いじめ自殺、過労自殺者が後を絶たなく続いている。
「教育の在り方」とは、一般にしている我々の教育の仕方ではなく、最も重要なのは「自分自身を教育する」という観念をもって教育することにある。
「人を教育する」のではなく、「自分を教育」していくそこに、人への教育の在り方が見つけ出される。
拉致被害者の方たちの救出を願うなら、まず「自分自身の心の教育」を忘れてはなるまい。
寄り添い合い 2017/11/8
生きとし生ける命あるものは
大いなる力の中に生まれた
生きとし生ける命あるものは
大いなる力ある中で生かされている
しかれども生きとし生ける命は
我が力で生まれきて
我が力で生きていると 力みかえっている
生きとし生ける命あるものが
どんなに己が力で生まれ生きているといっても
生きとし生ける命あるものは
か弱く果敢ない
大いなる力の中で翻弄されて
振るおう力は無為にされる
大いなる力の前では
赤子の手でしかない
か弱く果敢ない生きとし生けるものなれど
大いなる力の世界には
多くのか弱く果敢ない生命がいる
生きとし生ける命あるものは
これらの多くの生きとし生ける命と寄り添い
手を取り合って生きていくべき
大いなる力ある世に生きるということは
辛く苦しく悲しく苦労多い
生きとし生ける命持つものは
この辛く苦しく悲しく苦労多い中を
辛さに耐え苦しさに耐え悲しさにも耐え
苦労にも耐えていく時
生きとし生ける命あるものが
この大いなる力みなぎる世に生きていく
幸せへの道標になっていく
【平成29年秋の叙勲】旭日双光章 ザ・デストロイヤー=本名・リチャード・ベイヤー=さん(87)「日本ファンの前でマスク脱がない」
米国トランプ大統領の長女、イバンカ大統領補佐官は安倍首相と会談したさい、安倍政権の「働き方改革、女性の活用」政策を支持している。
しかしそれは、大きな間違った政策と言わなければならない。今日の「文化の日」に際しても、「文化勲章」を授与するそこには、一度心静かに「仕事」というものを見直してみる必要があるだろう。
「仕事」というものは、「する」ためのものではなく、また「やる」ためのものではない。
「仕事」というものは、「やらせていただく」ものだといわなければならない。
そこには「仕事」というものが、自分に与えられた「天職」として受け取られていく。
名誉を得るものでもなく、実績を得るものでもなく、賞を得たりファンを得たりするものでもない。
ただ人としての働きに生き、それはまた自分という生命が存在していけるし全世界に生かさせてもらうというそこに、生命の輝きを見せるものが「天職」と言えるだろう。
そうした生き方をしている人たちが、世の霞に、社会の片隅に居られて、黙々と務めておられる。列して大きな顔をして、しゃしゃり出ようとはなされない。