青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

拒否と拒絶

2008年10月31日 | 人生設計
私達が生きるということは、簡単に言うと「求める、受ける、授かる、望む」と言ったような、そうしたような生き方をしている。そしてこうした「求める、受ける、授かる」と言ったような生き方は、別な言い方をすると「奪う、強暴する」という生き方に直結する。「求める、受ける、授かる、望む」と求め期待される立場のものには、そうそう、その求めや期待には応じられなくなり、重荷になってくるからである。そして「拒否、拒絶」反応を起こす。

「求める、受ける、授かる、望む」と言ったようなことが過度になると、「拒否と拒絶」を起こすが、それだけでなく「反作用」も起こす。「副作用」といわれるものである。
例えば「資源」を使用すれば、資源の取り合いという現象の他に、廃棄物の発生や環境悪化という副産物が私達の生活に影響をもたらす。

こうした「求める、受ける、授かる、望む」という私達の行為は、私達人間の、「物心」に対する「征服」行為といえるものともいえる。「物や人を自由に使い操りたい」、そういう征服欲が、ここかしこに現れている。
お金が、お金を生み出せるようにと、金融システムを作り出した。精子や卵子を操作して、自由に生命科学を発展させようともしている。
しかし金融システムは今、金融恐慌前のような危機的崩壊の時期にあり、生命科学も精神科学がおきざれにされているために忌まわしい事件が多発し、各地の戦闘も絶えない。
今種々の「副作用」を受けるばかりでなく、「拒否と拒絶」を受ける事になっている。

この「拒否と拒絶」を受ける事になったのは、「他への思いやり」という、働きかけがなくなっているからであるだろう。
私達は普段、「求める、受ける、授かる、望む」ということを、先に立てている。だがこうした事を後回しにして、相手の気持ちなどを思いやって、先として受け入れる事に勤めなければ、自分も相手も疲弊してしまう。
「助け合い、譲り、譲り合う」心が、無くなりつつあるからである。
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青い鳥の歌詞 二十九、みんなかわいい

2008年10月29日 | 作詞

みんなかわいい       2008/10/28


さわやかな青空に 今日もまた
陽を浴びる 野山の中に
遊びつつ 笑いあってて
いつもかわいい みんなかわいい
あなたかわいい とてもかわいい


雲は流れるままに 水は流れる
湧き上がる 思いの中に
憎み合い いがみ合っても
いつもかわいい みんなかわいい
あなたかわいい とてもかわいい


いつか暮れゆき 時も過ぎて
夜は更けて 星もまたたく
眠りつつ 夢みつるれば
いつもかわいい みんなかわいい
あなたかわいい とてもかわいい


みんな待ってた かわいいあなた
豊かにたゆたう 恵みの中で
かわいいあなたを 待っていた
いつもかわいい みんなかわいい
あなたかわいい とてもかわいい

人はかわいく みんなかわいい

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依存性の逆襲

2008年10月26日 | 短歌に政治や社会
今日私達は、物価高騰や食糧危機、環境破壊に金融、経済危機と、種種雑多な問題に直面している。経済や金融は、恐慌状態にも、陥ろうとしている。
この原因については、その道の専門家などが色々分析して述べていて、私のような素人があれこれ言っても始まらないだろうが、次のような事は、誰も一言も言っていないのが気にかかる。

私達が、私達として生きていくということは、それは「受身」の姿勢になっている。「受動性」である。相対するものに「依存」していかなければ、生きてはいけない、そういえる存在である。
しかしこうした「受身であり、受動性であり、依存的な」身ではあるけれども、出来る限りの「自存的」に、「自立的、自主的」になっていかなければならない。それは「能動的」になっても、行かなければならず、即ち「生産的、成育的」にならなければならない。

ところが、今日の私達は、手を汚すような「生産的、成育的」な事は避けて、楽をして金さへ出せば手に入る「受身であり、受動性であり、依存的な」生活習慣が身に着いてしまっている。
生産したものでも買い手が無ければならないと依存し、消費者としても、生産者がいない事にはと依存し、生産者も消費者も無い訳で、そうして依存すると、依存しすぎる態度に対して逆襲を喰らってしまう事になる。
それが今日、私達が迎えている、難問題だといえる。

断っておくが、「手を汚すような「生産的、成育的」」というのは技術系の事ではなく、農林漁業の事で、他のものでは「受動性と能動性」を均衛化させることは出来ない。

今は「人や物や金」に依存したり頼れば逆襲にあうと知り、そういうことは止めて「自給自足」を心がける事が、この難局を乗り越える心になるかもしれない。
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自由という責任

2008年10月25日 | 短歌に政治や社会
私達は自由」という言葉を、よく使う。
二十歳になったから「タバコを吸う自由や、酒を飲む自由」とか、あるいは離婚して「晴れて自由になった」というようなのや、マスコミメディアなどの「表現の自由」などがある。
このように「自由、自由」と何でも「自由」というが、その「自由」には大きな「責任」が課せられているのを認識していないで「自由」といっている。

二十歳になったから「タバコを吸う自由や、酒を飲む自由」というが、それは「タバコを吸った、酒を飲んだ」について、そのための責任が課せられた事を意味している。ただ「吸えば、飲めば」良いものではないのである。
離婚して「晴れて自由になった」というようなものでも、これまでの連れ合いの庇護を離れて、全ての全責任を一人で負わなくてはならない。それが「自由」の意味するところである。

マスコミメディアなどの「表現の自由」にしても、今月初め頃だったと思うが、テレビで「バカ殿様」という番組が放映された。この中には、とんでもないほどの「猥雑でセクハラ」じみた内容のものが描写されている。
実社会では、こういう現場はたちどころに「訴訟」の対象になる。マスコミの、いい記事ネタになる。
しかし現実には「訴訟」されないし、番組審査会というものも動いていないし、マスコミも取り上げない。実写といえる映像があるのに、である。
これが教師とか、会社役員とか警察官だったら、社会問題になっただろうが、「表現の自由」でそうはならないらしい。
マスコミメディアには、その「表現の自由」には、無責任なのである。

「自由」に「責任」が付随しないなら、「自由」には「自由」としての価値がなくなる。その価値のない「自由」が、世の中に謳歌している。
その為に「俺が、私が」ということばかりで、「助け合い、譲り合い」が希薄になっている。
「青い鳥」は、それ故に困惑して、何でもかでも記述してしまっている。

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バカみたいな制度

2008年10月24日 | 短歌に政治や社会
妊婦救急搬送たらいまわしがまたあり、無事出産されたけれども母親は亡くなった。
一方、このことを伝えるニュース記事と同時に、
「裁判員に選出された場合、その期間中は、概ね有給特別休暇とする」
という記事も出ている。
何の関係もないような二つの記事だが、大いに関係がある。

今日、医師不足に看護師不足、救急士や消防士不足、介護士や保育士ガなどが不足している。そしてその為に、これらの現場や、そこに関わる人たちは、多忙を極めている。
ところがそうしたところへ、「裁判員」という重荷までも背負わせようとしている。
もちろん「辞退する」ことはできるけれども、こうした現場ばかりでなく、少子高齢化社会にあって後継者難にある農林漁業に食の現場を、更に疲弊させるような「バカみたいな制度」を作ったものである。

第一、犯罪者を裁くには、「裁判官、検察官、弁護士」がいる。
この内「弁護士」は、事件案件の事実を突き止めないで、被告の「利益至上主義」的なところがある。その為に「有罪を無罪」にしようとか「罪刑を軽減」する事に奔走している。
先日ニュースになったが、前防衛事務次官の裁判で、前防衛事務次官側は、
「在任時の功績を考慮していただいて、量刑の軽減をお願いしたい」
といっている。これは「甘え」である。
今日色々と持ち上がっている「食品偽装問題」。これらの製造会社や料理店などは、以前大きな実績があったからといって、それで破産を逃れられるものではない。
ところが前防衛事務次官は、「過去の実績、功績を認めていただいて罪一等を減じて・・・」ということを、弁護士も加担して行っているのだから、弁護士制度というのも「バカみたいな制度」である。

まだある。
自衛官と漁船が衝突し、漁船が沈没した事故で海難審判が行われているが、自衛官側は「事故の原因は漁船側にある」と述べている。ここには、国民の生命と財産を守るという理念が無い。
国民の生命と財産を守るという理念があるならば、「譲る、譲り合う」という精神が生まれているはずなのである。
だが、それが無い。ただ「一方的に突き進めばいい」という態度のようだ。
自衛隊という制度も、「バカみたいな制度」である。

「バカみたいな制度」は、この他にもたくさんある。
先日は大阪府で、「制度、制度」といってサツマイモ畑を破壊してしまったような事もあった。
こうした「バカみたいな制度」を作ったのは、私達国民が選出した選良によって作られたものである、ということを私達は認識し、自分自身に問いかけていかなければならない。

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許されざる一方性

2008年10月22日 | 人生設計

私達が生き、住んでいる世界は、不思議な世界である。
豊かな森羅万象を描いているかと思うと、喜怒哀楽を味合
わせる現象を出現させる。
では、何故この世は、このように流転し、流動していくのだろうか ?。

この疑問に対して、簡単に答えられる一つの答えがある。それは、
「この世は未完成である」
という事である。
「完全に完成」していないがために、流転し、流動している。即ち「無常」なのである。
この事は、今年度のノーベル賞の物理学部門の対称となった「自発的対称性の破れ」という現象も、別段大発明というものではなく、ごく「当たり前」のものでしかない。

私達の住み、生きている「この世の世界」は、突き詰めて言えば、根本物質の素粒子によって構成されている。この「素粒子が完全に完成」されたものならば、豊かな森羅万象の世界も描かれることもないし、喜怒哀楽が出現する事もない。「静止」した状態になる。
だが「未完成」の状態であるがために、完成を求めて活動を開始している。それが「自発的対称性の破れ」という現象などとなって現れている。「森羅万象も喜怒哀楽」も、完成を求めて、さまよう姿といえるのである。

この様子を、例えをもって語ってみよう。
ちょっとした「湖」がある。
この湖は完成していないため、どんなに静止していても、よどんでくる。濁ってくる。このよどみや濁りは、時と共にまだらになり、濃淡となる。
別な意味では、「大小、長短、高低、重い軽い」と言った格差が生じてくる。
しかし「完成」したものではないため、このままでは定着せず、この状態は是正行為「元に戻ろう」として調整しようとする、いわば「平衛を保つ、バランス」行為を行う。
ということは、「未完成」というのは、ただ闇雲に突き進むという事ではなく、全体的に「協調的、共生的」に合わせていかなくてはならない事になる。
即ち「一方的な独善行為」を許さないのである。

未完成であるがために、完成を認めて「一方的独善的」になりがちなのは、この世に存在するものが持つ「特性」といえるものである。それが私達「人間」に、特に酷い。
「豊かさ、権力、金銭、地位、学力、そして美」などを、数値評価して一喜一憂している。これが個人や、一つの家庭や集団が、更に国家単位で行われている。

「平衛、バランス」を保つには、どうしても「一方的な独善行為」に立たず、相手の立場にも立たなければ立たなくなる。また、「譲る」ということも大切になる。それは「人にも良く、自分にも良い」事でなくてはならない。
これはまた、釈尊と弟子の、次のような会話が思い出される。

弟子 「この世に辺があるのかないのか、この世に終わりが有るのか
無いのか」
釈尊 「判らぬことは、判らぬままにするが良い。今は人生   苦の解決を急ぐが良い」

現在の私達は、「科学文明を発達」させることが大切なのか、それとも「それぞれの人生や社会を明るく」していく事が大事なのか、「許されざる一方性」に立って考えてみる必要がある。
それが、自然の摂理に沿い、真理に沿う。

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一切の悲劇

2008年10月20日 | 人生設計
「一切」という言葉がある。
この「一切」という言葉の意味は、「全部。すべて。残らず。」ということであるが、これでは「何を基本に」、あるいは「何を視点に」、そして「何を」それに含めて「一切」としているかが表されていない。
ここで、釈尊が語られた「一切」についての言葉を見てみると、物や物事が対称性を持ち、相関性を持っている事が良く判る。

「目の一切は眼に見えるものであり、耳の一切は耳に聞こえる音が一切であり、鼻の一切は鼻に感ずるにおいが一切であり、舌の一切は舌に感ずる味が一切であり、皮膚の一切は肌に感ずる感触が一切であり、これ以外の一切は言葉のみである」          釈尊の言葉

私達は、「目や耳や鼻や舌や皮膚や言葉」で感じたものを一切とし、それが好ましいものならば受け入れ、好ましくないなら厭うている。そして受け入れない。
この「厭い、受け入れない」ことが、私達の悲劇を招いている。

これは個人でも、社会でも、国家においても行われている。
「目に対する目の対称性・・・・」というような、一切というものに対して、素直に真実に如実に受け入れないで、「好ましいのと好ましくない」というような差別感情を介入させたがために、それは今年度のノーベル物理学賞の対象とされた「自発的対称性の破れ」というような現象が人々の心に芽生えて、それが波状的に人間社会に拡散している。

これは「目が見えるがための怖さ」であり、「耳が聞こえるがための悲劇」である。
「目が見えない、耳が聞こえない」、そして「手足が無い」者の身にもなり、そうした人達が、人として生きる事がどういうことかを、私達は、時には身にしみて思わなければならない。
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愚かさの美学 (最終章)

2008年10月15日 | 人生設計

株価下落は、何とか持ちこたえたようだ。原油価格も、収まりつつある。
だが物価高騰や景気悪化不安は続き、金融危機は「さてどうなる事やら」というところである。そしてそれにも増して心配される経済不況、このために地方税収が減って、自治体財政ががたがたになり始めている。これでは、いくら金融機関に資本注入しても、私達の生活に密着する自治体政策までに届くには、我々庶民が我慢を強いられる事になる。

こうした状況の中で、少しも話題に上らない事がある。というよりは、少しも気にかけていない、と言う事なのかもしれない。
何の事かというと「ドンパチやっている」ということである。
即ち「戦争している」ということで、「テロとの戦い」とか言う名目で巨額の防衛予算や軍事費や戦闘費を計上していて、そういうようなことを止めて、今日の世界同時不況とか金融危機とか、物価や資源高騰時期に注ぎ込もうとしないというおかしな論理がある。

「ドンパチ」して「争い」あって、どこがよいのだろう。お互いが傷つき、苦しみ悲しむだけだろう。
尤も、上に立つ者は、勝った場合ゴネ得をする。部下や一般人を犠牲にして、一端の英雄気取りになれる。
しかしそうした者も、やがては倒れていくのが、歴史である。

前述の「自発的対称性の破れ」という発明は、前述したように「縁起と因果」から説明できると思える。そしてこの「破れ」させるものは「何か」というならば、釈尊が説かれて「苦の原因」として指摘されたものに当たるものと考えられる。
尤も、定かではないが。
しかしそれが何かは、ここでは述べない。
述べたところで、それを実行し行うのは、皆さん自身であるから、皆さんが知った上で実行し行って頂きたい。

これで一連の「愚かさの美学」連載を、終わる事にする。

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愚かさの美学 (番外編 9)

2008年10月12日 | 人生設計

前述した「愚かさの美学 (番外編 8)」において、ノーベル賞受賞者たちをコケおろす様な事を述べていたが、それは「嫉みやねたみ」からではない。
「人として生まれ、人として生き、その人として生きること」を見詰めるからである。

ここでノーベル賞受賞の対象となった「自発的対称性の破れ」とはどういうものかについて、説明や解説がなされているので、それを見ながら、私の意見を述べさせてもらう事にする。

「自発的対称性の破れ」の概念



例えば、鏡に映したように右と左を反転させると、物理法則が同じにならず、ずれが生じ、宇宙誕生した直後には質量がなかった素粒子が、質量をもつようになったという基本メカニズム。



この解説論。



牧場に牛が一頭いたとする。そこから同じ距離のところに、同じ量の干し草の山が二つあるとする。牛は同じ距離、同じ量なので迷うが、最終的には空腹から、どちらかの干し草を選び、食べる。すると、対称だった干し草の構図が崩れる。つまり自発的に非対称となる。物質を作る最小単位である素粒子の世界でも、この「自発的対称性の破れ」が発生する。



以上の説明と解説を受けて、それで納得できるかとなると、一般人には難しいと思う。
それで私は、一般の人にも判るように、次のように考えてみた。
まず「鏡に映したように・・・・」ということだが、これは「男性に対する女性」と見なせば良い。「女性に対する男性」としても、「ブラスに対するマイナス」でも良い事になる。だから「鏡に映したように・・・・」という説明は、最初は同一性があったものが破れて、異質性が現れたという説明になっているといえるだろう。

次の「牧場に牛が・・・・」という解説文に対しては、ちょっとひねった考え方になるが、こういう事と言える。
「男女」という二つの干草が、「好意と愛情」を持って結婚したとする。そして家庭生活を営む。この「家庭生活」が「牛」に当たる。
家庭生活という牛は、時間経過と共に、男女の生活態度や感情、情操に揺れやゆがみを生じさせる。
「牧場に牛が・・・・」という解説文は、そういうことを述べていると言っていいだろう。

至難滅裂なようなややこしく難解な物理学の説明や解説文も、このように精神性や社会性を、ない交ぜにして考えてみると、こういうことになる。
そしてそれを、ただ単に発明として位置づけるのではなく、今の例えで言えば「男女の関係悪化の原因を解き明かす」といえる発明を、関係修復のために応用してゆく事が重要であるように、いかなる大発明も、応用次第では毒にも薬にもなる。
それは「自発的対称性の破れ」の説明文にもあるように、「自発的対称性の破れ」という発明自体には何の自性を持っていないが、それが社会性とか応用性を持つ時という対称を持つ時、ゆがみや破れが発生する、ということを表している。

故に問題は、発明自体が栄誉なのではなく、応用次第で栄誉にも、悪魔の産物にもなるという、「愚かさの美学」になるかもしれないという事を、言いたい訳である。
もっとも、私の言う事が妥当と認められた場合に、限る事なのかもしれない。

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青い鳥の歌詞 二十八、この気持ちを伝えてみたい

2008年10月11日 | 作詞


この気持ちを伝えてみたい     2008/10/9



今日も行き来する この道は
果てしもなく たどるとも
捨てることない 望み託し
空に流れて すじ引く雲に
伝えてみたい 夢見てみたい
さわやかな秋の日に この気持ちを



己が思いの 望むまま
欲と怒りに さいなまれ
絶え間なき嘆きの 悲しみの中にも
みんな手を取り 結ぶきずなを
伝えてみたい 歌ってみたい
さわやかな秋の日に この気持ちを




霧は流れゆき 陽はさして
明るさの中に示す 道しるべ
いつも抱いてた 胸の内を
思いつくままに ここにつづり
伝えてみたい 書いてみたい
さわやかな秋の日に この気持ちを




人と生まれて 人世に生きて
幸せ求めて 止まずとも
豊かさもなし 名をもなく
この身に為せる 働きを惜しまず
伝えてみたい 与えてみたい
さわやかな秋の日に この気持ちを

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