「生存権」を持ち、意識すればこそ、病気になったりすると「死ぬのではないか」と不安になって足掻く。
またこんなことを述べると、人々から非難誹謗の総攻撃を受けるだろうが、子供ができないからといって「体外受精や代理母出産」などをする。
臓器移植もして、「生存権」を確保したい。
医療被害にあったからといって、「医療訴訟」をする。
「金、金、金」を求めて、阿漕(あこぎ)なまでに誤魔化したりする。
そして、取り合う。盗む。略奪する。争う。果ては、戦争もする。
それらは、みな「生存権」から来る。そしてこの「生存権」が、未来永劫に続くという思いから、切り上げ時や弁え、節制ということを知らない。
しかし「生存」には、終わりの時がある。終末、帰結の時がある。
「生存」というものと「終末、帰結」とが相対しているならば、「生存」の中での出来事を素直に受け止めて、それに従うより仕方があるまい。
それとも、さかしらに逆らうか。
逆らっても、私たちの力なんていうものは、どんなに偉そうに言っても高が知れている。自然の、いわゆる「神が持つ力」には逆らえない。
逆らえずして、跪くより仕方があるまい。
そうして「跪く」ところから、「自分を人間らしく生きる方向に引っ張っていく生存権」が輝き始める。
そこに、幸せの「青い鳥」の心と願いがある。