青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

生存権 (下)

2009年05月31日 | 人生設計
「自分を人間らしく生きる方向に引っ張っていく生存権」を持たないならば、私たちは哀れにも痛ましく、悲しい存在でしかなくなる。

「生存権」を持ち、意識すればこそ、病気になったりすると「死ぬのではないか」と不安になって足掻く。
またこんなことを述べると、人々から非難誹謗の総攻撃を受けるだろうが、子供ができないからといって「体外受精や代理母出産」などをする。
臓器移植もして、「生存権」を確保したい。
医療被害にあったからといって、「医療訴訟」をする。
「金、金、金」を求めて、阿漕(あこぎ)なまでに誤魔化したりする。
そして、取り合う。盗む。略奪する。争う。果ては、戦争もする。
それらは、みな「生存権」から来る。そしてこの「生存権」が、未来永劫に続くという思いから、切り上げ時や弁え、節制ということを知らない。

しかし「生存」には、終わりの時がある。終末、帰結の時がある。
「生存」というものと「終末、帰結」とが相対しているならば、「生存」の中での出来事を素直に受け止めて、それに従うより仕方があるまい。

それとも、さかしらに逆らうか。
逆らっても、私たちの力なんていうものは、どんなに偉そうに言っても高が知れている。自然の、いわゆる「神が持つ力」には逆らえない。
逆らえずして、跪くより仕方があるまい。
そうして「跪く」ところから、「自分を人間らしく生きる方向に引っ張っていく生存権」が輝き始める。

そこに、幸せの「青い鳥」の心と願いがある。
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生存権 (上)

2009年05月30日 | 人生設計
「清き一票」の中でちょっと述べたが、一般的なこととして私たちは、「生存権」を権利として持っているという慣行になり、それを行使しようとしている。しかしよく考えればわかると思うが、私たちの「生存」は、自分で自分の生存を決められるものではない。
「自分で自分の生存を決められない」以上、私たちが「生存権」を主張するということは、意味を持たない。矛盾している。
意味を持たず、矛盾しているところから、私たちの「迷い」があり「混乱」がある。

私たちの「生」の始まり、すなわち誕生に際しても、自分の選んだものでも、自分が望んだものでもない。これはまた、両親が望んだものではあっても、両親が望むがままに誕生し得ない場合があり、こうなると私たちの「生」という誕生は、自然の手に、言うならば「神」の手にゆだねられていることになる。

これはまた、どんなに長生きしたい、「無量長寿」を願っても、それもまた自分で自分を思い通りに出来えはし得ない。
「生」があったなら、必ず向かい合わなければならない「死」がある。この「死」というものの存在を見つめた上での「生」なれば、どうして「生存権」を権利として振り回されるだろう。

だが悲しくも情けないことに、私たち人間は、「生」が無数の「生」となるものの中から選ばれたものであり、そしてその「生」は、いつかは終わりを迎える「死」を待たなければならない間の「生」であるという認識を持たない。
持たないどころか、ただこの「生」が持続されるものとしか思っていない。
そうした「生の持続感」から、「生存権」を持つ。それが私たちが言う「生存権」という、権利である。

今も言ったように、「生」には持続が無い。必ず終結を迎える。
終結を迎える「生」ならば、「生存」というものは、一時的なものである。この一時的なものの中で、私たちが生きていくのが「人生」である。

こうしてみると、私たちが持たなければならない「生存権」とは、この一時的な中のもの、それも「ただ今のこの一瞬」を、「どのように生きるか」が「生存権」になる。
この「どのように生きるか」ということも、ただ「生きる」とか、「気ままに生きる」ということではなしに、「人間らしく生きる」ということにこそ、人間らしい「生存権」を持ったものになる。
「人間らしく生きる」ということの「生存権」ということは、別の言い方をするならば、自分を「人間らしく生きる」という方向に引っ張っていくということが、真摯な「生存権」である。

こうした、「自分を人間らしく生きる方向に引っ張っていく生存権」を教えるものを、「宗教、信仰」という。


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警告

2009年05月30日 | 短歌に政治や社会
草なぎさんテレビ復帰 「ひと月も休んでしまいました」(朝日新聞) - goo ニュース

酔態をさらしてしまったことを、もう忘れてしまったような気分らしいが、もしあの時の「真夜中に素っ裸になって騒いでいた」のを撮ったものがいて、それをネットで公開するようなものがいるかもしれない。
そういうようなことが起きても、自分は「公衆わいせつ罪」で「起訴猶予」になっているから、こういう「起訴猶予」になった画像を公開されても、それは罪には当たらないだろう。

またこのような画像をネタに、「脅迫」してこないとも限らない。

芸能復帰できるといい気になっているようだが、こんなことが起こりうる危険性があるので「警告」しておく。
何せ、逮捕して家宅捜査したことで、「警察署の爆破予告」などするような輩がいるし、推理小説上ではこういうことが発生するのが決まりとなっているから・・・・。

謹慎していたほうが、ためになる。
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党首討論

2009年05月28日 | 短歌に政治や社会

私は障害者、である。
肢体障害がある上に、聴覚障害もある。
そのため、今回などのような「党首討論」などの中継をテレビで見ても、聞こえないし、第一そんな余裕もない。
それで今朝、この「党首討論」の模様を新聞記事で見たわけだが、詳細を見て、

「まるで敵基地攻撃論戦」

だと思った。
相手の弱点、敵失ばかり突こうとしているばかりで、今日現在の金融危機や不況で「最低限度の文化的生活の維持」が危ういというのに、そのための討論がなされていない。意見交換も、無い。
いわゆる「後ろ向き」的な討論ばかりで、前向きになっていない。

こうした党首討論は、まるで野蛮人社会を思わせる。
そしてまた、先にタレントが真夜中に素っ裸になって騒いだことで逮捕されたことで、電話であったかネットであったか忘れたが「警察署への爆破予告」があった。こういうような「敵地攻撃」というようなものが、実社会でも行われている。
暴徒と、同じだし、ヤクザ抗争と、同じである。

こういう政治家が、わが国を操っている。

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清き一票 (下)

2009年05月28日 | 短歌に政治や社会
敵基地攻撃 麻生首相「法理上はできる」(朝日新聞) - goo ニュース

現憲法下において行う「参政権」、すなわち「投票、選挙権」は、他国や人を攻撃するような「銃弾」、あるいは「ミサイル弾」のような性格を持っていない。
「投票、選挙権」には、憲法で歌われているように「平和の希求」と、「民主主義制度の基に最低限度の文化的生活を営む」社会構築を担わせようとの願いをこめた、「清き一票」なのである。
この「投票、選挙権」者の願いに、立候補者は答える必要があるし、答えていかなければならない。
だが当選してしまった後は、周知のとおり、首相までもが

      敵基地攻撃 麻生首相「法理上はできる」

と言っている有様で、私たちの「清き一票」は、いつの間にやら「銃弾やミサイル弾」に代えられようとしている。
こうしたことが故に、社会秩序は乱れ、教育現場も、企業論理も、労働環境も、結婚観などの秩序も乱れ混乱している。
これらはひとえに、国の要になるべき大本が、憲法を大切にしていないことにある。

裁判においても、たとえば「自衛隊」について「合違憲判断」を下さない。下さないどころか、避けて通っている。
もし豪胆な裁判官なら、こうした憲法の根幹にかかわることに関することならば、「自衛隊法」などの成、「国民投票」によって、国民の審判を受けるようにと託すだろう。
しかしそういう裁判官は、司法制度の中には、いないようだ。

「清き一票 (上)」でも紹介したように、「敵基地攻撃」論の陣頭に立つのは、元首相である。
だがこの首相の持論は、「美しい国」であり、「愛国心」であった。
この「美しい国、愛国心」は、現憲法の基が基礎になってこそ言えるという事に、どうもこの人は無頓着らしい。現憲法を逸脱して、「美しい国、愛国心」が育つのか。また「銃後の国」にするのが、「美しい国、愛国心」だと言うのだろうか。
もっとも、いざとなるとまた「投げ出す」から、まともに相手にはなれないが。

「敵基地攻撃」論が台頭するのは、そこには「生存権」が絡んでいるからでもある。
この「生存権」については、別途ブログで述べるとして、私たちには「生存権」というものは、権利として持っていないと言うことを知る必要がある。「生存権」などはないものなのである。
そこのところを間違えているから、「敵基地攻撃」となり、「清き一票」も、おろそかになる。
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清き一票

2009年05月26日 | 短歌に政治や社会
対北、制裁強化要求へ=「敵基地攻撃能力」促す声も-与党(時事通信) - goo ニュース

こうした強硬論たけでは無い。
新「防衛計画の大網」(2010-14年度)の閣議決定に向け、自民党国防部会の防衛政策小委員会がまとめた提言の中に、「敵基地攻撃能力の保有、ミサイル発射探知早期警戒衛星開発、研究、攻撃」を柱とする内容が折りこめられているそうだ。

私たち国民は、法事国家に国民として生きている。それは「法」を基に、「憲法」を基にしている。この「憲法」を「法」として持ち、「参政権」を持つ。「選挙権」であり、「投票権」である。
この「投票権」は、私たちが「憲法の規定と精神に基づいて行使するものであり、それは「明るく正しい選挙」と言うように「清い一票」である。
それ故に「候補者」に対しては、「憲法の遵守し擁護」を前提として、その「清き一票」を投じている。
ところが選出された議員や首長たちは、「選良」と言われながら、憲法の規定に従って選出されたと言う経過がありながら、「憲法の理念」を尊重することなく逸脱したように表題がごときことを議論していて、国民が「絹本の精神にのっとって投票して」と言う「清き一票」に対して、その心を踏みにじり、汚し、冒涜しようとしている。

それは「日本国憲法」が占領軍によって、制定された経過があるからかもしれない。
しかし普通な「憲法」は、自国に都合のよいように作られる。そのため被害や攻撃を受けたなら、「テロとの戦い」という風に、「復習、報復」をしたがる。
だが自然世界では、たとえばウイルスにやられると、薬物療法とは別に、免疫療法がある。
薬物療法には、副作用や耐性菌が出現する。
一方免疫療法は、体内に免疫力を付かせる療法で、漢方療法とも言うらしい。
「日本国憲法」はこの点、これまでの他国を侵略し、その果てに二度の原爆投下や各都市の爆撃を受けて、「やられたらやり返す」というような薬物療法的対処療法を止め、「戦争放棄」という免疫療法を選んでいる。
「やられたら、やられたままに免疫をつけて平和を希求する」というのが、現憲法の精神になっている。

最もこういう馬鹿みたいな「免疫療法理論」は、誰も受け入れないかもしれない。だから「現憲法の精神によって裁判官になった」という認識がないから、今の裁判官には、「違憲判断」を避けがちになっている。弁護士にも、突込みが足りない。
国民も、政権を投げ出したような元首相や「朦朧会見」した大臣なんかが「核武装」論をぶち上げていて、また選挙で選んでもらおうとしている。

私たちの持つ「清き一票」は、「現憲法」が機能している限り、選出された議員や首長たちには、現憲法の精神を遵守して貰わなければ成らない。
今日の「未曾有(みぞゆう・・ではないよ)」の社会環境改善は、ここにあるということができる。

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絶体絶命

2009年05月24日 | 人生設計

盧前大統領自殺 最後は“屈辱の日々” 庶民派英雄、割れた仮面(産経新聞) - goo ニュース

「進歩、繁栄、栄光」とそういったものには、必ず終末がある。
終末を迎えた末に、
「絶体絶命」に陥る。
しかし私たち人間というものは、目先のことしか、追い求めない。その「反動、反発」が必ず訪れるという定めが、世の習いとなっているのに、どんなに年を経ても、どんなに教養を深めても気付くことはない。

そして絶体絶命に陥って、身動きが取れなくなる。
ならば「進歩、反映、栄光」を求めなければよい訳なのだが、悲しいことに私たちは「幸せになりたい」し、「豊かな生活をしたい」といって聞かない。追い求めて止まない。
前述の「反動、反発」において、こうしたことは私たち人間が求める「人工的」なものの所産であると述べた。それは自然な流れから外れて、自分好みなものにしようとしていることによって、そして「反動、反発」にあい、「絶体絶命」に陥っていくことになる。
こうして「絶体絶命」になり、「精神疲労」し、自らの命を絶つようになっていく。「自殺大国化」も、その根元はここにある。
これはそもそも、自然の流れに沿わず、自然の流れに逆らって自分たちの都合のよいようにしようとしていた、その逆襲を受けたといえる。

もちろん、自然の流れに沿っても、絶体絶命になることは、ある。
しかし今日のように、薄っぺらな「貨幣価値」のために絶体絶命になったり、それやものを取り合って合い争ったりして、共倒れになるような不況とか経済恐慌などというような「絶対絶命」になることはない。

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反動、反発

2009年05月23日 | 人生設計

この世の物事のすべからくは、一方性とか直進性になっていない。
それなのに私たちは、一方的になると、思い込んでいる。いや、一方的になってくれなくてはならないものと、なしている。
だが世の中の物事は、何かをなすと、そのことに対する「反動、反発」反応が必ず発生する。それは法則になっているといっても、よい。

「進歩発展」させようとすると、その見返りのような「退廃と崩壊」がある。「拡大」には、「縮小」がついて回り、「前進」には「後退」というような具合に、そのことに対する「反動や反発」が、必ずに現れる。
この現れ方は、どうも「企まれた」ものによるものほど、大きい。

「企まれたもの」とは、「計画、立案」されたもののことである。それはまた「人工的」なものでもある。
こうした「計画、立案」された「企まれた」人工的なもの程、その「反動、反発」として受ける損害が大きい。
もちろん、何もせずとも受ける場合もある。自然なもの、である。
しかしこの「自然なもの」に対しては、私たちは「素直」に受け入れざるを得ない。
それに対して「企まれ、計画立案」された人工物による「反動と反発」に対しては、我々人間はむなしさばかりと悲哀さばかりが、自然から受けるそれとは異なっている。
感情的に、異なっている。

どのように「感情的」に異なっているか、それを述べるのは「詮無い」ので止めるが、ひとつだけいうと、尾を引くことがある。
その「尾を引く」ということを述べるのも「詮無い」から止めて、せっかくノーベル賞化学賞で、「自発的対象性の破れ」という理論を見つけ出したのだから、その理論の意味するような「素直にあい向かい合う」という、生き方をしていかなければならない。
そうしていくと、人工的な大きな「反動や反発」は起こらなくなる。

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公共心を磨く・・・とは

2009年05月20日 | 人生設計

明日、五月二十一日から、「裁判員制度」が開始される。
裁判員に選出された人たちは、不当な理由がない限り、裁判員として裁判の審理に立ち会わなくてはならなくなる。
今日の新聞に、

    「裁判員制度は、公共心を磨く好機である」

という主旨の記事が出ていた。
これは裁判に参加し司法参加することにより、「社会、地域、政治秩序」の参加につながる「公共心を磨かれることを期待しての記事である。

だがここで言う「公共心」というは、的外れな取り違えな面がある。
そもそも「公共心」とは、辞書には、次のように出ている。
   


  (1)社会全体に関すること。おおやけ。
  (2)おおやけのものとして共有すること。
     「人間の―するや衆人相共に其務む可き所を尽して/明六雑誌

一般的な考え方をすれば、こういうことが世間的な「公共心」は、なる。しかしこれは、上辺だけの、薄っぺらな、「公共心」でしかないといわなければならない。
今の私たちにとって必要な「公共心」とは、たとえば「景気拡大、経済成長」というけれども、景気拡大などがすれば廃棄物が山済みになる。ごみが出る。新製品が売れると、旧製品は、廃棄物の山になる。
こうしたものばかりでなく、食べ物の作りすぎや残り物は、トレイや割り箸、ペットボトル、紙袋と一緒に捨てられ、ごみの山が築かれてゆく。

「公共心を磨く」べきなら、こう言う「社会環境の公共心」を磨いていくことをほったらかしにしておいて、何も「裁判員参加」が公共心を磨く好機になるものではない。
もし真剣に「公共心を磨く」ことを望むなら、「余分なもを作らず、後片付けをちゃんとする」ということに徹すればよい。

それが「裁判は裁判員におんぶ」とか、「景気拡大、経済成長」と財政出動する補正予算案は、財源は「消費税増税して国民におんぶ」と甘えている。


 

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おかしなこと、言ってる (b)

2009年05月19日 | 人生設計
自民党幹事長が言っている。

「民主党は、政治資金規正法に違反していることを説明責任を果たしていないーーー云々」

その「政治資金規正法」案を採決、成立させたのは自民党の多数決なんだが、そういう自党自身が「法にのっとって・・・」というのでは、話がおかしな事になってくる。
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