青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

不思議な言い分

2008年03月30日 | 人生設計

何かと、不思議な言い分が多い。
言っている事は判るのだが、全体的な本質はどういうことになるかということになると、うやむやになっている。それが元で、話がややこしくなっている。
例えば国会。一々の議論は、モットもらしく聞こえる。しかしその一々な事が国民全体のためになるかというと、片寄ったものであるものだから煙にまかれたような胡散臭いものになっている。第一、利得権益に引きずられているからだ。
裁判でも、犯罪を犯した被告たちは無罪を主張して、重箱の隅を突くようなものを持ち出して無罪の正当性を主張する。それは、犯罪を犯したという事実を無視しての主張とも言うべきもので、そこから正当的な無罪を立証しようというのだから、まったく不思議な言い分がまかり通るものである。
教育についてもおかしい。教育というのは、成績を上げることだけなのか、あるいは子供が人間として生きていくために必要な知識を蓄えさせるためのものなのか、だがどうも成績だけが教育としか見られていないらしい。
こうしたことは国際関係ともなると、すぐにいざこざになり、争いになり、ドンパチになる。
余りにも多い不思議な言い分のために、その報復とも復讐とも言える猛威が襲っている。いい加減私達は、その猛威の正体に気付かなければならない時なのに、まだ不思議な言い分に明け暮れている。

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青い鳥の短歌  四、

2008年03月28日 | 短歌に政治や社会

★ 筆取りて 書き初めする ディルーム
       雪は積もらぬ 月の半ばに  
2008/1/12

       我が身をば 人と比べて 恨むけど
       なぜに悔やまぬ 我が身心を  
2008/1/15

       コーヒーの 香りただよう 喫茶室
       カラオケ聴けば 小雪は舞って 
2008/1/17

    この年も 水仙の花は ここに咲き
       幾年月の 生に生きゆく    
2008/1/19

       六つもの 思い思うて 欲するも
       ただ一なれし 思いで足れり  
2008/1/22

       町原は 流れて走る 降る雪に
       天神講を 明日に控える    
2008/1/24

★ まじまじと 見るのも楽し 昼下がり
         寒の水にて ソバ打ちをする        2008/1/29

★ 打ち立ての こおばしきソバの 舌ざわり
         おやつ代わりに お代わりもする     2008/1/29

       如月(きさらぎ)の 寒さ身にしむ 桃の花
      我さし招く ひなの飾りが    
2008/2/12

       如月の 雪の晴れ間の 明るさに
      春は近いと 待ちわびもする   
2008/2/16

       春花の 折り紙折し 子ら見れば
      春待ち遠し ほのかな思いが   
2008/2/18

       久方の 雪の晴れ間に 土鍋かこみ
      身をも心も 暖まりする     
2008/2/21

       シワ浮きて よわい重ねた 人達も
      雲けむる中 ひなまつりする   
2008/3/1

       月変わり 弥生の光り 暖かく
      雛のあられに 甘酒すすり    
2008/3/4

       胸も打つ 鼓の響き 波打ちて
      春の足音 こだまと返す     
2008/3/4

       山すそに 漂いまどう 春かすみ
      弥生半ばは もううららかに   
2008/3/11

★ 地に足を 着けて生きよう 私たち
      風に揺れてる スミレの花も   
2008/3/25

★ 梅咲きて 暖かくなり さてうれし
      ディルームには パソコン据えられ 
2008/3/27

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短歌を一首

2008年03月26日 | 短歌に政治や社会

芸能界やスポーツ界、報道界の上辺だけのような上滑りな華華しさを余所に、政治は道路特定財源の暫定税率予算審議がねじれ国会の影響もあって暗礁に乗り上げ、景気経済は原油物価高騰に円高も加わり下降しようとしているし、コロコロ変わる政策に教育も介護現場も戸惑い、職場は非正規社員があふれて差別化されている。
これらは、何故なのか?。
ここに「青い鳥の世界へ」から、
          一首の短歌をお届けする。

 

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★  地に足を
       着いて生きよう
          私たち
   風にゆれてる
       スミレの花も

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青い鳥の世界観  (附則)

2008年03月23日 | 人生設計

自意識を持たない、自我意識を持たないことを、「空」とい言っていることについて述べることにする。
「空」という考え方は、仏教の特色ある考え方のようで、他には見られないもののようだ。そしてこの「空」という考え方を理解するということは、縁起や無常と言ったことを理解することにも、つながっていく事だろう。
「空」という考え方は、元々は私達の物事に対する心の動き、精神の状態が、緊張し過剰になったり敏感に応対するか、あるいは反対に鈍感になったり怠けるような反応をするということに対する、正しい心の持ち方、精神の持ち方を教えるものを指していた。
釈尊は、釈尊の元で修行する人達に、「琴の糸は張りすぎていても、弱すぎていても、音色を出すことは出来ない。丁度良い強さに張られていたとき、妙なる音色を発する」と述べられ、この心の状態、精神の状態を「中道」と名付けられた。
「中道」というこういう教えは、心と精神の状態を表すものだったが、釈尊亡き後の仏教徒達によってこの「中道」の教えは発展させられて、心、精神分野だけでなく物質分野にも通用するものとして「空」の思想が確立された。
この「空」の思想を説いた経典が、「般若経」という経典ということである。この経典は長文だそうで、私も読んでいないが、思想を抜粋した私たちにも良く知られている経典に「般若心経」がある。漢文で二百五十数文字の短い経典だが、ここに「空」の思想が語られている。
「空」の思想の概要とは、「般若心経」の中にも述べられているが、「有と無、大と小、善悪、損と得」というような分別差別を持たないし、何物もの存在を否定しながら存在を認める、という考え方に立っている。
それ故に存在しているものは存在感を持たず、存在感を持たずして存在感を持っていると言うことになる。

私達が自分の肉体や地位とか金銭とかを自分のものと思っているが、それは因により縁起によって成り立っている仮のもの、その因や縁が崩れれば、崩れていくものであるがために「空」なのだということなのである。
しかしこういう「空」の中で、今という因と縁とを結ぶ時、かけがえのない「一期一会」の時がある。

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青い鳥の世界観  (下)

2008年03月21日 | 人生設計

釈尊の悟りの内容は、縁起を基本としながらも他の三つの事柄も重要なこととなしている。他の三つの事柄とは、

その一つは、変化する、ということである。物や物事や事柄は、いつでもそのままの状態にあるということは無い。保持しない。常に、変化していくものなのである。
このことを仏教用語では「無常」という。

その二つ目は、自意識を持たないことである。自我を持たない。固定したことに、捉われない、執着しないことで、それによって「その一」の変化が現れることになる。
この自意識を持たず自我を持たないことを、仏教用語では「無我」とも「空(空性)」ともいう。

その三は、変化し、自意識を持たず自我も持たないとなれば、テンでバラバラになってしまう。そうならないこととして、相関的依存性を持っている。
普通に依存すると言うということは、他への依存ばかりでしかない受動的なものでしかないが、能動的なものも併せ持つものである。
これを例えとして言うなら、私達が生きるためには空気や水や食糧に、完全に依存しなければならないということで理解できるだろう。

この三つのことは単独では存在できず、相関関係の元に縁起によって存在している。その事を「あざなえる縄の如し」といったが、本当にそういうものだといえるだろう。
そしてこの四つのものを私達の身近な世界に当てはめて見ると、私は最初に述べたように専門家でないので詳しい事は判らないが、私達が実存するこの世は物質で出来ているが、この物質の基本となる原物質の素粒子(ニュートリノとかクォークとか名付けられている)、この素粒子の性質とか性格にピタリと当てはまるようなのである。
素粒子は瞬間的にしか存在できないと言われるが、それが他の素粒子と縁を持って結びついて変化し、物質の形として存在感を現してゆく。そしてそれが液体ともなったり固体ともなったり気体ともなり、さらに生命ともなり精神作用も生み出し、心をも築いてゆく。
これが世界観の、実体である。

私達の生きている世界は、常に変化を求め、その定まらない変化の行く先のために固定観念でいることは出来ない。そしてそれを孤立して通すのではなくて、他との関わりの中で歩んでゆく必要があるだろう。
しかし私達は、自分がかわいい。今より、良くなりたい。悪くなりたくない。
そのために、正しくこの世の世界観を見る眼を、眩ませている。

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青い鳥の世界観  (中)

2008年03月19日 | 人生設計
釈尊は、悟りを開かれた。かといって悟りを開かれたのは、釈尊が初めてではないと言っていられる。
ともあれ釈尊が「何を悟られたか」ということになるが、普通仏教の開祖とされているところから、精神的なこととか人生道とかと思われがちになる。それは後代の仏教宗派の教えとか教義とかを見れば、そうした感じを持ってしまう。
私も初めは、そんなふうに思っていた。しかし欲張りなものだから「何故そうなる?」と疑問が出てどうにもならなくなり、迷路に陥ってしまったものである。そして釈尊の教えの原点が、この世の成り立ちというか、仕組みというか、法則というか、そういうものを明らかにしたところから出発していると気が付いたものである。
それは釈尊が何を悟ったか、いわば釈尊の世界観でもある。
釈尊の悟ったもの、世界観は、これと固定化できるものはない。あいまいなものである。
あいまいといっても、あやふやとは言えず、四つのものによって関連つけられていて、どれが主体をなしているとはいえないだけである。だがこうした主体性のない中で唯一つ言えるのは、縁起しているというという事である。
後の三つについては別に述べるとして、縁起とは「因」となるものが「縁」によって「結果」となることである。
この縁起観は、物質においても、精神、心の分野においても通用する。
そしてこの縁起は、進歩的や発展的や前進的なだけでない。反対の退歩的な後退的な敗退的逆進的な縁起も存在する。
例えば私達が資源を利用して豊かで便利な生活が出来る訳だが、それは大気汚染や水質汚染や異常気象等を生み出す元ともなっている。すなわち「正」の縁起を生み出す一方。「負」の縁起をも生み出している。
「因果応報」という言葉があるように、縁起は必ず結果を生み出す。しかしそれは、「縁起を生じさせる」時のみとは限らない。「縁起が生じない」時にも、縁起は生ずる。
先の例で言えば、「豊かさや便利さを求めない」なければ、「大気汚染等は生じない」から、理解できるだろう。
縁起はこのように世界観の中心的役割をなしているように見えるが、しかし縁起自体が示すように、縁起もまた他の三つのものが存在する時存在し、存在しない時には存在しないというあいまい性がある。
次には他の三つのものと、縁起との関わりによる世界観を、述べることにする。
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青い鳥の世界観  (上)

2008年03月16日 | 人生設計
世界観を見つめるとか考えるというと、普通には宇宙全体を全体として見詰めるような、全体を見詰める見詰め方や考え方になりそうだ。だがその全体は、全体を構成する、構成要素の集まりによって成り立っている。そうとなれば世界観を見詰め考える上では、この構成要素を見過ごせなくなる。
世界観をこうした全体と、全体を構成する構成要素を元に見るとすると、現代学問で言うと天文学や物理学や理化学、果ては哲学までも取り入れて見詰めて考えていく必要があると見なければならない。
こうしたことを語る私はそれぞれの専門家でもないただの素人の平凡人だが、それぞれの事にちょっとした興味を持ち、それをこんな風な世界観にまとめ上げてみた。
哲学分野では「二元論」というのがある。「物」即ち「物質」だけの世界ではなく、「精神」即ち「心や魂、霊」の存在する世界だということである。そしてそれが「物」即ち「物質」の存在によって「精神」即ち「心や魂、霊」が存在するという理論があり、これを「一元論」といっている。
哲学におけるこういう二つの考え方は、それぞれ一長一短あるようで、素人の私にはより詳しい説明のしようがないが、ただこういう哲学上の意見の分かれるところには、私たちの世界を構成する構成要素の性質、性格というものを見詰めない事から発生しているものと思われる。
とは言っても、この私たちの世界を構成する構成要素の実像の性質とか性格を証明するとかは実証しようがない。近代科学技術を駆使しても、宇宙の辺が定かでないように、物質の根本の実態が見ることは間接には出来ても、直接には見ることは出来ないからである。
しかし出来ることは、一つある。それは直感として、ひらめきとして知ることである。そしてこの直感としてひらめきとしてのものは主に抽象的になりがちなのを、理論的に説いた方が居られる。
その方は釈尊、「お釈迦様」である。
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常態性の擁立  (下)

2008年03月14日 | 人生設計
私たちには、物事を「損得勘定」で判断したい習性がある。それは何よりも、自分が優位に立ちたいからである。
優位に立ちたいとしても、全てのものが優位に立てるわけがない。自ずから順位が生じてしまう。それによって上辺にたつものと、下辺に立つものとに分かれる差別にもなる。
それにもまして、人には人にはそれぞれに長所と、短所を併せ持っている。それは性格ばかりでなく、身体特徴でも言える。
健常者もいれば、障害者もいる。病弱者もいる。老齢者もいる。これらの人達が「損得勘定」で優位に立とうとしても、虐げられるばかりになっている。
こうした各々の持つ長所と短所を区別する事なく、差別する事なく、そしてそれが普通なのだとするのが常態ということであるだろう。
こうして自分自身においても、他の人達に対しても、そこには特別でも特徴さもない、普通なものと全てを常態性あるものと見る時、そこには民主主義の理念である平等が存在する。平等が存在する時、自由意識も、正しく備わることになるだろう。
平等と自由意識が正しく備われば、私達はいたずらに「損得勘定」に走り、切った張ったの社会ではなくなってゆく事だろう。
そして精神異常者も減り、大気汚染も異常気象も収まり、自然環境は蘇ってゆくかもしれない。
今の私達は「損得計算、欲得計算」などの「損得勘定」にあくせくするよりも、常態性の擁立を急ぐ必要がある。
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青い鳥の歌詞  十八、故里の雪

2008年03月13日 | 作詞

故里の雪           2008/1/31


流れて走る 降る雪に
野山原は おおわれて
時折差し込む 陽の光りに
眩しく雪は 輝いた
ここは故里の 冬景色


木々の梢に ふんわりと
白き枝花 清らかく
美しき冬を 咲かせてた
我が身の汚れも 覆い尽くし
新たな心の 生まれ変わりを


吹雪の後の 中休みに
雪にたわれむ 子供たち
手にする雪の 冷たさも
凍える風の 冷たさも
頬を染めて待つ 春は立ちぬを


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常態性の擁立  (上)

2008年03月12日 | 人生設計

私達は、何かや物事に遭遇すると、その事に対処しようとする。その事態に対してのみに対処し、処置しようとするのが一般的であるようだ。
しかし物事は、そんなに単純なものではない。他の物事とも関連し、関係しあって物事が発生している。いつまでも個別的なことにのみ原因を求めて解決しようとしていても、物事の本質からの根治することにはならないだろう。
現在の私達人間社会は、色々な問題をだかえている。それは単に人間社会の問題だけではなくなって、自然環境をも巻き込んでいる。それでいて個別的なことに捉われていて、大局的になれない小ささがある。
人間社会の大局的になれないのは何故かというと、それは知識を持ちながら「小賢い」から、「小ずるい」からだといえる。「損得計算、欲得計算」で何でも物事を判断することにある。「利得権益」に目聡いのである。
こうした「損得計算、欲得計算」がまかり通るがゆえに、何かと数値化され、そして評価され差別化されてゆく。
数値化し評価すること自体が、悪いのではない。それを個別に当てはめることに、問題がある。この数値化や評価が、全体に対してなら問題にはならない。
しかし私達人間は全体的な事よりも、自分の事の方が大事に思ってしまっている。この自分の事の方が大事だと思っているために、問題は大きくなり、ややこしくなってゆくのだがーーーー。

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