青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

物価高騰、沈静化のために

2008年07月31日 | 短歌に政治や社会
8月から、また諸物価が値上がりする。
その原因は、色々言われている。開発途上国の経済発展に伴う資源の逼迫によるものとか、天候不順による穀物の不作や、食糧穀物のバイオ燃料化、それに米国のサブライムローン問題による景気後退などや、オイルマネーによる金融買占めとかが原因といわれている。

しかし私から見ると、この大元は「経済や社会感覚の欠落」にあると思える。何故そう言えるかと言うと、余りにも必要としないことに資源や手間をかけていることにあるからである。
ちょっと例を言うと、物を何故遠地に輸出したり、または遠地から輸入しなければならないのだろう。そのために必要とする原燃料や手間隙が膨大になっている。
もちろん「無い」物は輸出入する必要はある。しかし「有る」ものなのに、それより「良い物」とか「美味い物」とか「安い物」とかのために、こうした原燃料や手間隙を使うために、諸物価高騰の原因にもなっているといえる。

私達は、よく言われるように「地産地消」、別な言い方をするなら「自給自足」した生き方をすべきなのである。ところが現実には我侭に「良い物や美味い物や安い物」を求めている。それは外出などすると手ぶらで行き、そして食事をするなどは「割りばしやトレイ」の世話になり、ゴミにしている。
一方資源小国で食糧用品は輸入に頼らなければならないというのに、田畑や森林は荒れたところが目立つし、そうした荒地には色んな廃棄物が捨てられている。

きらびやかな都会と、はっきりしない政策やマスコミ論理に振り回されて、社会構造も経済も行き詰るような状態になっている。
これは「身の程をわきまえない」事からおきている。だから「地産地消」や「自給自足」ができない。
「教育基本法」で「愛国心を育む」ことを挙げるようになったが、「地産地消」や「自給自足」しようとする社会や経済観念が育たないことには、「愛国心」も育つことは無い。
今の私達は「地産地消」や「自給自足」を心がけることにより物価高騰の沈静化を図り、合わせて社会と経済の安定をさせていって欲しい。
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青い鳥の歌詞 二十五、ちいちゃくってもいいから しあわせを

2008年07月30日 | 作詞



  ちいちゃくってもいいから しあわせを
          2008/7/27









いつも思って 夢見てた
ちいちゃくってもいいから しあわせを
風に吹かれて 散りゆく花びらに
涙流れる そんな時にも
ああ いつも明るい 気持ちで
しあわせを




いつも手にして 考えた
ちいちゃくってもいいから しあわせを
浮かんでは行く 旅する雲に
辛しみる そんな時にも
ああ いつも嬉しい 気持ちで
しあわせを




いつも唄って 描いてた
ちいちゃくってもいいから しあわせを
流れては行く 木の小枝に
悲しさあふれる そんな時にも
ああ いつも優しい 気持ちで
しあわせを




いつも胸の中に 仕舞ってた
ちいちゃくってもいいから しあわせを
瞬き光る 星の光に
懐かしさ思う そんな時にも
ああ この気持ちを 大切に
しあわせを

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堂々と・・・

2008年07月29日 | 短歌に政治や社会
これまで知らなかったが「すまいるFカード」というのがあるという事である。それを新聞の社説で知った。
このカードは、18歳未満の子が3人以上いる家庭の子育てを支援するためということで、運動は県が提唱し、官民が共同し地域ぐるみで応援しようというものだそうだ。

この「すまいるFカード」を申請登録すると、色々なサービスが受けられるという。物品の購入、飲食、利用料金などの割引をはじめ、金融機関は住宅、教育ローンや定期預金の金利優遇、建設関係では子ども部屋増築などの工事代金の値引き、3人目以降の子どもの宿泊料を無料にする旅館もあるそうで、多様性に富んでいるらしい。しかし公的期間では通用しないらしいという。
それはともかく、この記事を読んでこんなうがった事を思った。
「なぜ3人以上なのか?」。「3人以上」いなければ、「子育て対象にならない」ということなのか。それは「3人以上」いなければ、「子供がいる」とは認められないということなのだろうか。はたまた「3人以上」いなければ、こうした恩恵は受けられないということなのか。
それならば、事情があってそんなに子供を産めない人達はどうなる。更には子宝に恵まれない人達は、どうなる。
これは「差別」ではないか。「蔑視」ではないか。「不平等」ではないか。
ひところ女性を「産む機械」と言った大臣がいたが、それみたいに政治やマスコミメディアが、こういう差別や蔑視を行っている。
憲法で保障されている「平等」、その精神は疎まれたようにしてこういう不平等性が堂々とまかり通っている。
一体何のために教養を積んできたのだろう。それを実践しなければならないのに、ただ暗記していただけなのだろうか。
これは、この子育てに関することばかりではない。
憲法違反的行為は、堂々とまかり通っている。
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青い鳥の歌詞 二十四、地上の生命(いのち)

2008年07月27日 | 作詞


地上の生命(いのち)      2008/7/27



甘く 切なく 匂ってる
唇寄せた 花びらに
いつも いつも 感じてた
草木は芽吹き 緑萌える中
生き物たちは 潤い唄う
果てなき想い 持ち続け
我らはみんな 地上の生命(いのち)
ここにみんなは 生きている




青く 輝き 澄み渡る
唇寄せた 大空に
いつも いつも 感じてた
懐かしく振り返る 思い出の中
辛さ悲しさも 未来に楽しく
続きて行く 時とともに
我らはみんな 地上の生命(いのち)
ここにみんなは 生きている





明るく 可愛く 笑ってる
唇寄せた ほっぺたに
いつも いつも 感じてた
つぶらに見詰める 瞳の中
可愛い我が子の 愛しさに
人は今ここに 手を結び
我らはみんな 地上の生命(いのち)
ここにみんなは 生きている

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言わないことじゃない

2008年07月26日 | 人生設計
「家族むちゃくちゃに」 昇任へ金券、大分の校長ら家族(朝日新聞) - goo ニュース

だから、言わないことじゃない。
何度もこのブログで述べているように、「人が作った人の世」が、人が生きる場ではないのである。
人が「人が作った人の世」に生きようとする時、このように「家族はむちゃくちゃ」になる。ばかりで無く「社会もむちゃくちゃ」になる。
人は「自然の中」で生まれ、「自然の中」で「生かされ」ている。であるから、人の生きるところは「自然の中」しかない。その「自然の中」に「生かされ」ていることを知って生きる時、人は生きる意義を見出すだろう。
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怒りなき世に

2008年07月25日 | 短歌に政治や社会
最近は、何彼と腹の立つ世の中である。
食品などの偽装捏造は絶え間が無いし、石油高騰に伴う物価高に加え、生活の困窮は低所得者層にしわ寄せされている。そこへ持ってきて「教職員採用汚職」と来ては、「シレッ」としてしまうし、無差別刺殺事件までもが、追い討ちをかけてくる。
それで政(まつりごと)が頼りになるかというと、政争に明け暮れているし、頼りにしたいマスコミメディアも、経営優先にして発行部数とか視聴率を上げようと芸能界やスポーツ界を追いかけている。
腹の立つことでもあり、怒りを覚えることでもあるのだが、この「怒り」というものは、今日は次元の違う「怒り」になっている。
どんな「怒り」かというと、「不平不満、不服不足」という、そういうことからくる「怒り」になっている。
今日国家財政は800兆円もの国債などの債務がある。その上に「資源が無い、食糧自給率は40パーセントにも満たない」という状況にある。そうでありながら世界第三位とかの経済大国とか言われいい気になっているし、防衛費も世界第5位とか言われる。それなのに、今行ったように多額の債務があり、資源も無く食糧生産も出来ないでいる。
そこへ持ってきて、食品などは売れ残り品や食堂などからの食べ残し品は捨てられて、ゴミの山となっている。
それが「不平不満、不服不足」の思いの「怒り」から出ている。
国民もこういう中に、看護師や介護師を外国の人に頼って芸能やスポーツとかにうつつを抜かしているが、私達は「不平不満に生きる」ではなく、世にも人にも「生かされている」ということを知って、「怒りなき世」を築いていかなければならない。

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二の舞

2008年07月23日 | 短歌に政治や社会
懲戒処分の社保庁職員、官房長官「厚労省で採用も」(読売新聞) - goo ニュース

こういうのは「大分教職員採用汚職」と同様、二の舞どころか、お手盛りだろう。そして、上前をはねている。
これを官房長官直々に示談しているのだから、この内閣には政権担当能力は無い。
消費税増税論議なぞ、もっての外だ。
もう、解散総選挙しかないようだ。
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数値化の優位性崩壊

2008年07月23日 | 短歌に政治や社会
よくもまあ、続々と続くものだ。食品、産地、原材料、金融では粉飾や触れ込みサギ、耐震、請負契約、そして教職員の裏金採用や昇進疑惑など偽装が幅を利かせる。更にはこんなことも、言えるだろう。「非正規社員」や「派遣社員」は、「正社員」の偽装されたものであると。
総じて言えばこれらは、成果主義の成果を挙げるために、数値化による評価の優位を求めることが原因している。
そして中三女子生徒の父親刺殺事件などの忌まわしい事件。
こうした事件もまた、数値化の評価の優位の成果を求めて発生している。数値化の評価の優位が、もろいものである事を、露呈してしまっているのである。
そこにはまた、社会や親や教師の偽装もあるからといえるだろう。偽善に満ちている社会構造にあって、行く先が見えない。事に青少年ほど、迷っている。
こうした人々を救わなければならないのに、社会も親も教師も、偽装に明け暮れている。
一種の「甘え」に、甘えている。
そして、世の中を甘く見ている。
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恐れ(恐怖)の克服 -後-

2008年07月19日 | 人生設計

人は普通、「ただ生きている」という生き方をしている。それは「基礎」の無い、上辺だけの生き方ともいえる。そして「他の人や物」に依存しがちになる。
それに対して「生かされている」という生き方をする時、「生かしてくれている」という「基礎」となるものを知り、それを寄る辺としている。この「寄る辺」を知るならば、他の人や物に依存しようとする気になることは無くなる。
仕事をする時も、「ただ生きている」という時と「生かされている」という時とでは、仕事の仕方が変わるだろう。それは勉学する時も、家事をする時も、子供を養育する時も、親子の会話も夫婦の会話も職場での会話も、更には政治の在り方にまでも「ただ生きている」というのと「生かされている」というのとでは、態度が異なってくるといえるだろう。
「生かされている」という生き方、在り方の中には、「俺が、私が」という思い上がりも、自惚れも持ちようがない。謙虚さしか、持ちようがない。
「ただ生きている」という時には、不平不満も持ったし、不服不足の思いも持ち、そうしたことで辛く悲しくて泣いた事もあり、それがために報復とか復習しようなどとしている。そして「負けまい」と数値評価に追い立てられ、それが恐れとなっただろう。
だが「生かされている」という事や「生かしてもらっている」という気持ちになれば、全てを委ねたままで自立して自主性にして独立して立てば良いことになる。
そこには安心と、安らぎしかない。
何を、恐れることがあるだろう。

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恐れ(恐怖)の克服 -中-

2008年07月18日 | 人生設計

前編において「恐れ(恐怖)の克服は、こうした心の隙間をなくすこと、即ち人や物への依存を止める事。そして自立心を持ち自主的になり独立心を養っていくことにある。」と述べた。
しかし人は、悲しいことに弱い生き物である。どんなに自立心を持ち自主的になり独立心を持って生きようとしても、出来ない。独善的になってしまい、それは依存したものになってしまう。
何故そうなのかというと、人というものは「拠りて立つ」ものだからである。別な言い方をするならば、「生かされている」生き物なのである。
これは何も、人だけではない。全ての存在するものは、天と地の恵みと、そこを動かす力(法と言い表される)によって生かされている。この恵みと法によらなければ、自立心を持ち自主的になり独立心を持つ事はできない。
私達の主権主義である「民主主義」の「自由と平等」も、ただ「生きている」という視点での「自由と平等」ならば、無限の広がりを持った抑制の利かない暴走をする。しかし「生かされている」という立場に立つ時、節度と摂理をわきまえた「自由と平等」になる。
これは「ただ生きている」という時には「霊、魂、悪魔」になるが、「生かされている」という時、「悪魔」は消え去り、変わって「神」とか「仏」となって自立心を持ち自主的になり独立心を持つ
「霊、魂、神」となる。いわば「霊」も「悪霊」ではなく「善霊」になり、「魂」も「善い魂」になる。
それ故に、恐れ(恐怖)の克服となる。
それはまた、「ただ生きる」ということは「信仰を持たない」事でもあり、「生かされている」と教えることは教育、そして生きる事は「信仰を持つ」ことで、宗教心を持つことでもある。

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