歌ってあげた 2009/2/28
厳しい 寒さの 如月に
凍える 水の 冷たさも
春を 迎える 足音が
人身に 襲う 苦労にも
いつも 寄り添い 差し伸べる手に
幸せの 歌を 歌ってあげた
ポツリと 一枝 咲く花に
一つの 命の 生きがいも
道を 生きてる 尊さが
つらい さだめ(運命)に 生きてても
いつも 負けない 明るさに
楽しい 歌を 歌ってあげた
ほのかに 香る 桃の花
光 柔らか ぼんぼりも
錦に 包まれる 雛びなが
すまして 見つめる やさしさも
いつも 笑顔で 受け止めて
喜びの 歌を 歌ってあげた
三寒の 後の 小春日に
陽は 和やかに うららかさも
今に 芽吹きたい 草や木が
霞に 煙る 山里も
手を 差し招き おおらかに
愛の 歌を 歌ってあげた
浮世に 流れる アシの葉も
神々の 台(うてな)に 受けられて
庇護の 元に 守られる
永久の世に 生きてる 喜びを
みんな みんなに 歌ってあげて
胸に 希望の 灯を点けた
日本人飛行士候補、新たに2人=10年ぶり、ISS長期滞在へ-宇宙機構
という記事が出ていた。
ところが一方では、私の家で取っている地方紙の新聞のコラムには、次のような記事が掲載されている。
こうした「親を亡くした子供達」ばかりでなく、今日現在は、派遣きりされたりして解雇されて、住居も追い出されている人々、老老介護など「介護疲れ」にあっている人々、救急搬送受付拒否にあっている人々などがいる。
こういう悲惨な目にあっている人々を尻目に、なぜ多額の費用を使って宇宙に目を向けなければならないのだろう。
たった二人の宇宙飛行士を、宇宙へ行かせる費用が地上で使われるなら、どんなにか潤う。
こうした地上の現実を見捨てて、「宇宙へ、宇宙へ」というのだろうか。
そして又、今回話題になっているアカデミー賞に選ばれた「おくりびと」という作品。
私は映画とかドラマは、好きではない。何故かというとそれらは全て「捏造、偽装、演技」されたもので、自分自身の人生の現実性を持たないからである。
だからこうした「映画やドラマ」などを見ようとすると、その登場人物に、自分を当てはめがちになりそうで、そうした事に「自分を偽る」思いがしてしまうからである。
誰も自分と変わってはくれないし、どんなに可愛く愛しい人が苦しんでいても、変わってやれないのだから・・・・。
「おくりびと」という作品も、納棺師という職業の人生観を描いたものではあるにしても、又それは「死生観」と向き合うということであり、そこから今の私達の「生」を見詰めるものであるにしても、「現世観」というものに立った上での「人生観や死生観」に立ってはいない。
この「現世観に立っての・・・」というのは、例えば「障害者」や「障害者を介護する」家族などの立場に立っていないことをいう。
あるいは先にも述べたような、「親を亡くした子供達」とか、「職を失った人たち」などの立場にないから、こうした作品を制作したり鑑賞していられる。
これは丁度、現実の「地上を見捨てた」と同様なものである。
今の私達は、宇宙や文化ということよりも、「足元」という基礎を何とかする事に、心を砕かなければならないだろう。
政治でも、国債などの借金を、次代に先送りする事ばかりしている。
「宇宙、宇宙」といっても、昨年末だったか、米ロの衛星が宇宙空間で衝突して宇宙ゴミを撒き散らした。「宇宙競争時代」とは、宇宙空間をゴミだらけにするということなのだが、「宇宙」までも「見捨てる」ということになりかねない。
賛成派、反対派が激論=市販薬ネット販売禁止-有識者検討会が初会合・厚労省(時事通信) - goo ニュース
今日、地方は疲弊している。そしてその上に、経済危機の上に不況をもろに受けて、税収滅が追いかけてきている。
こうした疲弊する地方に、こう言う考え方が役に立つかどうかわからないが、活性化のために二つばかりの提言をしたい。
その一
「市販薬のネット販売」について賛否両論あるが、一昔前までは「富山の売り薬」が各家庭を廻ってくれた。
これを現代風に、利用する方法である。
地方の地域の薬屋さんや薬剤師が連携して、各家庭の家族の健康状態を把握し、薬局の薬剤で間に合う症状ならそれを処方し、医師の診断を受ける必要があるなら病院へ行くように進めるとよい。
その二
地方の交通機関が、赤字経営が続いている。一人も乗っていない路線バスとかコミニティバスとかが、さびしげに走っている。
その一方では、過疎化地方の老人達が、買い物や病院通いに公共交通機関が使えないと悲鳴を上げている。
こういう双方の思惑を取り入れるには、IT技術を取り入れるといいと思う。
希望者にネット接続器具を貸与するのである。
そして端末から、公共交通機関の利用を申し込む。そうすると公共交通機関は、ダイヤに縛られずに、又空車を走らせることなく、客を輸送する事ができる。
これが病院とかなどとも連携して、地域地域の人たちについて予約を取った上での運行をすれば、効果が上がるのではないか。
そうすると病院などの混雑も、和らぐだろう。
このIT技術による端末貸与しての利用は、「その一」の場合にも有効だろう。
薬屋さんも交通機関も、ただ客が来るのを待つばかりでなく、積極的に現代技術の応用を、役所など行政にも働きかける必要がある。
こんな提案で少しは地方の活性化になることに役に立つかどうか、判らないが・・・・
だがネット通販などで遠地からの買い物で運送代(エネルギー)のロスよりも、地域のものを買い求めるという「地産地消」が、地域活性化につながることは確かだと思う。
もっとも、注文などを受けた場合には、配達などをしてあげる配慮が必要になるし、ちょっと遠地の場合などでは、例えば商店同士が融通しあう、それは利益を折り判にするといった具合にして連携するようにして、地域全体を支えていかないとならない。
我が家などでは、太陽光発電を設置したくても、その費用がない。
だから屋根や屋上などの空間を電力会社に提供するから、そこに電力会社の手で太陽光発電施設を設置してもらい、その分電気使用料を安くしてもらえるような制度を作ると、助かる。
こういう風に一般家庭などに発電施設を設置すると、原子力発電所などを建設するような大規模な、建設土地とか施設が要らないだろう。
私達は、生きている。
しかし、ただ「生きている」だけにしたくないものだ。
何らかの「生きがい」を持ち、「価値観」を持って生きたい。
そうして「前向き」になって生きていてこそ、人生がある。
考えてみると、細胞分裂するのも、そうして「進化し成長」していくのも、「生きがいと進化」を見出し、そして成長していこうと言う事だろう。それは又、「素粒子」が、「自発的対称性の破れ」という現象によって化学変化を起こすのも、この「生きがいと進化」のためとも言う事ができる。
こうした「生きがい」を持ち、そして「成長」して行き「進化」して行きたい。それが「生きる価値観」ともなる。そしてこの「生きる価値観」というものは、「生きることの誇り」でもあり、「支え」にもなる。
ところがこの「誇り」というものは、人によっては様々なものである。「生きがい」も違うし、「価値観」も異なる。それだけでなく、この「生きがいと価値観」とは、単に自分だけの「生きがいと価値観」でしかないものと、全体的なものの中での「生きがいと価値観」であるものとがあり、それと同時に「誇り」そのものの内容も異なってくる。
「利己的な誇り」と「全体的な誇り」とに分別されてしまう。更に又これは、「品位と品性」を持ったものと持たないものとにも、別れてしまう。
今日の「誇り」というものを見ると、「金銭」や「地位」や「成績」や「名誉」などで占められているように思う。こうした「金銭」や「地位」や「成績」や「名誉」などで占める栄誉のような「誇り」を得るために、贈収賄や薬物、偽装や捏造、詐欺などの犯罪などに手を染めたり、誹謗中傷、いじめなどの手段もいとわずに行っている。
それが今日の「誇り」の、実態のようなものである。
そこには、「品位と品性」がない。
「品位と品性がない誇り」が行き渡り、それが人々の精神を病ませ、うつ病などが増えている。
「品位と品性ある誇り」を持つためには、私達は「自分と向き合う」ことに徹しなければならない。「自分」の事は棚に上げて、人を批評しても、自分の「品位と品性」を育むことにはならないからだ。
まずは自分の「品位と品性」を磨くという、それは宗教的生活を勧めていく必要がある。
「品位と品性なき誇り」は、宗教性が無いところにある。
私達の人間世界の世の中を見ていると、その世の中や社会を混乱させる「元」ともなっているのは、どうも「自己」というものに囚われ過ぎることにあるようだ。
この「自己に囚われる」という事は、何も「自分の心や肉体」にのみ囚われているのではなく、何かと「我がものという思い」に囚われているという事にある。
私達は「何かと自分のもの」にしたがる。それは「物」に限らず、人や他人を「自分の思い通り」に使いたがる。「運命」さえも思い通りにしたがり、それで吉凶を占ったりする。自分の肉体についても、我が物と思うが故に、「豊かになりたい」とか、「旨いものを食べたい」とか、「きれいになりたい」とおしゃれをしたり美容をしたりする。
一方病気になったりすると、何が何でも治りたいと足掻き、移植手術もいとわない。
これは先日実際あったことだが、子供が欲しい一念で体外受精を行って妊娠したのはいいが、その受精卵は他人の受精卵だったとかで中絶する破目になっている。
この事は「医科学を我がものにできる」という事の限界でもあり、いくら「子供が欲しい」と言う事を「我が思いにできる」と言う事への、警鐘でもある。
この事は、私達が、その存在性に「利己性」が無い事を意味している。「俺が、私が」と言う事が、できないことである。ある意味では、いつまでも「自己主張」ができないということでもある。
今日政界や社会問題になっている「かんぽの宿」問題なども、「かんぽの宿」を管理できたからと言って「我がもの」と思っていたような「日本郵政社長」など、言わば自分のものではないものを「我がもの」としていた事に非難が集中している。
企業なんかも、景気が悪くなって営業成績が悪くなったからと言って簡単に社員を解雇すると言うそれも、会社を「我がもの」にしているような振る舞いに、更なる不況が追い討ちをかけるようになって自縄自縛のようになってしまっている。
しかしいくら「我がもの」と思っても、それらは全て自分の腕の中に抱え込んでいるものではない。一つとして自由になるものでもなく、相対するものの意図次第に関わっている。其の相対するものの意図すら、相対するものの自由になるものではないので、「我がもの」というものは、一つとしてない事になる。
それなのに私達は、何かと「我がもの」にしたがっている。
「我がもの」に拘らないでいるということは、一つの「諦め」かもしれない。
人であれ生物は、「生かされ、支えられ」て生きている。依存して生きている。だが何もかも依存して生きているわけには行かずに、「自助努力」していかなければならない。この「自助努力」の度が過ぎると、「我がもの」という思いになる。
だから、この「自助努力」の限界を知るという「諦め」を、意識しなければならない。
そういう大きな事を言うなら、早く「解散」して結果を見てみたら・・・
大体あなたは、先の政権を投げ出した後の二代の首相の後に、一度も解散総選挙の洗礼を受ける事なしに、今の座についている。
議席は、「どこのどなたさんによって得られるのか」と言う事が、実際に判りますよ。
大体あなたは、先の政権を投げ出した二代の首相の後に、一度も解散総選挙の洗礼を受ける事なしに、今の座についている。
そんなあなたに、「三分の二議席云々」と言って、人を非難批評する資格はないし、批評、批判は、どうでもいいのです。
早く政道が、正常化すればね。
あなたや、あなたの取り巻き立ちの言葉は、もう聞き飽きました。
そして又、「良き女房役」とも言う。
ところでこの「女房役」と言うものは、奥さんだけを意味するものではない。介添え役も、意味している。
別な意味では、「補佐役や相談役」と言ったところだろうか。
この「介添え役や補佐役や相談役」が、今日「内助の功」的役目に徹していなくなっている。
たとえば今日の社会情勢は混迷としているのに、それに輪をかけたように政治が混乱している。
これは宰相である首相が、「品位と品性」を持って国政にあたらないところにある。あれこれぶれてばかりいて基本がはっきりしないし、言葉が多すぎて真意を測りかねることにもある。
そしてそうした首相に対して、その取り巻き達も「品位と品性」を持った対処をしていない。わが身を、庇うばかりで、首相の暴走を許している。
それではまるで、言って悪いが「夫唱婦随」しているようなものだ。
以前厚生労働大臣だった人が、女性を「産む機械」と発言した人がいたが、この大臣は奥さんから叱られたそうだ。
それなのに首相も、他の大臣や議員達も、奥さんや家族からは何も言われないのだろうか。
「内助の功」と言う言葉には、女性蔑視的な男尊女卑的意味合いがある。「夫唱婦随」を強制させると言うように。
しかし男女平等であるならば、「内助の功」は、お互いが「品位と品性」を持つ事を高めるために、お互いが助け合って「縁の下の力持ち」になる必要がある。
これは社会性の中でも、いえるだろう。
財務大臣の不祥事は、内閣には致命傷ではないとかいうけれども、一般家庭では、家族の一人に何かあると、家族全体の責任になる。
そういう事の筋が通らない、「内助の功」が廃れている。
「経済危機」だとも騒ぎ、「不況」だとも騒いでいるし、「就職氷河期」だとも騒いでいる。
それだけでなく、色々な犯罪も、増えている。飲酒事故も後を絶たないし、青少年の「大麻事件」も続発している。
そこへ持ってきて、政界の不祥事の重なる。
これらの繋がりの、全ての原因となると、ノーベル賞受賞者といえども解答を出せないでいるらしい。
その解答を、おこがましいながら、私が出したい。
この解答を一言で言うなら、「品性の堕落」にある。別に言えば、「品位の堕落」でもある。
即ち、私達人間としての「品位と品性」が欠落し、堕落しているからに他ならない。
そしてこの「品位と品性ある人間としてある」と言う事は、私達人間が「哲学的と宗教的」に生きていかなければならないと言う事である。
又、抹香臭い事を言い出したが、この「哲学的と宗教的に生きる」と言う事とは、簡単に言うと「他者との関わりの中で生きることを知る」と言う事であり、その事によって「他者に対する思いやりを持つ」事を言う。
それ故に、この「思いやり」が無くなって欠落し堕落しているがために、「品位と品性」が乏しくなっている。
たとえば「経済危機とか不況」とか言っても、今までの「経済発展や景気拡大」は、生産、製造したものは大概「ごみ」にしてしまって成り立っていた。生産し、製造したものに「思いやりをかけない」、そこに「品位と品性」の無さがあり、現在の危機を増幅させる元にもなっている。
それに追い討ちをかけるものに、マスコミメディアの存在がある。報道、情報機関、媒体である。
マスコミメディア、報道、情報機関ら媒体は、「表現の自由」を権利行使してその行為を正当化しようとしているが、「品位と品性」に欠けたものならば、社会に対して大きな害意を持っている。
殊にこれら、マスメディアらの影響は、青少年に大きな影響を及ぼしている。しかし、テレビなどや出版物などは、視聴者受けなどを優先して、その「品位や品性」はおざなりにしていて、有益性を重視し求めている。
一頃何とかの「品格」と言う書本が流行(ベストセラー)になったが、この「品格」も「品位と品性」が欠落したものならば、「品格」の値を持たない。
それに追従する企業論理、教育界、医療現場にと、どこかしこにと波及している。そして一度にひっくり返ってしまったようになったのが、今日の危機的状態なのかもしれない。
今、私たちがこの危機的状態から脱するために必要なのは、「哲学的と宗教的」な「品位と品性」を修めることにある、と言えるだろう。
そして「品位と品性」を持って、マスメディアに、企業など生産活動に、教育に、医療に、政治など国民生活に取り組んで行くべきなのである。
政権党で、内輪もめが始まっている。
それはもう、内乱状態みたいらしい。
今世情は「金融危機」に見舞われて不況の最中にあるのに、国権の最高機関は「ねじれ国会」状態の上に、このように政権党内がもめているようでは、社会全体が更に落ち込んでしまいそうだ。
国政と言う政治形態は、「国民(住民)主権」が議会制民主主義のあり方と言える。だが我が国の国政にかかわる政治形態は、国民によって選出された議員から、議員が主権者になったようになって、おおむね多数政党の中から選出された総裁が首相に選ばれて施政されている。
いわば直接の「国民主権」によって選出された施政官によって国政が担われるのではなくて、議員という間接的な主権者によって選ばれたものが担っている。
このため国政を担う首相は、国民の真の声よりも、どうしても政権党の影響を受ける施政になってくる。即ち「国民主権」の施政ではなく、「議員主権」型の施政方針になりがちになる。
こう言うことは、既得権益を求めて走る「官々財界」の癒着を生みやすい。それに議員も、二世、三世議員が増えてくると言う事になり、いわゆる政界がよどんでくるという弊害がある。
そして議員も、派閣抗争や権力争いに明け暮れてしまっている。
それに又、今日のこのように「ねじれ国会」下や政局の混乱下にもあり、さらに二代に渡り政権を投げ出し、三代も総選挙の先例を得ないまま内閣を受け継ぎながら、解散権は「伝家の宝刀」として温存しているのは、「国民主権」をないがしろにしている。
とは言っても、「日本国憲法」には、こうした国会混乱時に備えた、国民投票による「国会解散権」が無いので、そうもいかないか。