「児童虐待」ということの元々は何かというと、そもそもが「自由」というものの取り違え、はき違えにある。
殊に「表現の自由」の氾濫による弊害は、「児童買春」とか性風俗の低年齢化などにも、また「いじめ、脅し、暴行」ということにも、それにマスコミメディアがかかわる形で浸透している。
故に、いくら「親権」を制限するとか停止したりしても、社会の中の「自由」という魔手は、それを正さない限りにおいて威力を発揮しない
2010年度政府予算案が閣議で決定された。
中身を見ると、前政権などから続いている無能さが続々と現れている。
まったく持っておかしな話だが、景気や経済拡大とか、その他科学技術発展などといって予算付けすると、それに伴って「贈収賄」に「天下り」、「偽装献金」などがワンサカと増えていくことになる。
ところがそういう疑獄状態になっても、それは「秘書が・・・・」となって、親玉は不起訴処分になる。
そうして、予算が行くべきところには、「職員の娯楽施設、割安な宿泊施設、タクシー代など諸手当」などに消えていくものが多い。
そういう「無能」になっている。
話は変わるが、最年少のゴルファーが賞金王になったということでマスコミを賑わしている。
その一方では、同年代の青少年が「奨学金滞納、学費滞納、授業料無払い」ということで苦しみ喘いでいる。
賞金王になっても、それは何の役にも立たない「無能」なものでしかない。
これは「スーパーコンピューター、万能細胞、五輪選手強化」に予算を掛けても、だ。
それどころか、「救急たらい回し、自殺者最多」などの現状改善にも、何の貢献も出来ない。
ちなみに、今年は「裁判員制度」が開始されたが、首相の偽装献金や党幹事長の偽装資金管理など政界がらみの事件についての、「起訴、不起訴」を判定するというような「判定官」のような機能を持っていない。
今日現在、「起訴、不起訴」は、警察や検察の取調べの元に、検察によって判断が下される。それが例え「冤罪」であっても、「起訴されるものは基礎」されてしまう。
それを裁判によって「裁判員」に審理させようというのは、話がおかしくなる。「起訴か、不起訴か」を判定する段階で裁判員のように選出された判定員で「起訴、不起訴」を審査判定すれば、少なくとも冤罪事件の初歩を防げるだろう。
我々にしても、わざわざ裁判員のような義務を背負わされ、検察によって起訴された被告を「有罪が妥当か、無罪が妥当か」と審議し判定するよりも、起訴される前の段階において「起訴が妥当か、不起訴が妥当か」ということを審議し判定したほうが有意義さを持つ。
この「起訴、不起訴が妥当か」と判定するためには、取調べなどの状況や証拠類は全て開示してもらわなければならないから、「強制自白」などして起訴に持ち込むことは出来ない。という事は、冤罪を防げることになる。
ただし、被疑者の言動は、後でひっくり返すことも出来ないことを覚悟しなければならない。
こうした制度を政治がらみの事件にも応用できれば、「秘書が・・・」とか「法に則って・・・・」とか言って言い逃れようとしても、国民的視野に立てば見逃せなくなる。
しかし今の政界には、こういう自浄作用を持っていない。このために、政界の浄化は、まったくと言っていいほど進まなくなっている。
予告
新春に際し、「新春寄稿」をします。
題名は、 「青い鳥の道」
ご期待を・・・・
★ よく晴れて 鈴の音ひびく クリスマス
ディサービスで ささやかな集い
2009/12/25
クリスマスの今日、よく晴れました。ディサービスでは、こじんまりとですが集いが開かれて…
国会議員や知事、市町村議員が、選挙で当選すると「当選証書」が授与される。
これはまた首相に選ばれ、閣僚に選ばれ、あるいは官僚に選ばれたり、民間では役職に選ばれると「辞令」を受ける。
この「当選証書」や「辞令」というものは、一般的には「誉な」事として受け止めているが、一昔前なら「赤紙」のようなものといえるものである。
「赤紙」とは、「召集令状」のことである。
「徴兵令」によって召集され、戦地に赴くようにとの通達である。
かってこの「赤紙」を受け取った人達、その家族は、名誉なこととして「出征」し、その「出征」を見送った。
そして「お国のため、家族のため、人々のため」命を奉げて倒れていった。
しかし今日の「当選証書、辞令」らを受け取る者は、「誉」とは思いこそすれ、「お国のため、家族のため、人々のため」命を奉げて働こうとはしない者が多い。働こうとするどころか、わが身の安泰、富、権力志向ばかりを目指している。
身を捨てて「出征」しようとする気概がない。
無いどころか、政府の要人でも無く、閣僚でも無く、即ち内閣の一員でもないのに「政権党の幹事長」だからといって、「党幹事長室への陳情一本化」というようにして国の人事や予算の割り振りに口を出している。
更には天皇陛下に対する生活の仕方にまで口出しして、こう言っている。
「憲法で規定している国事行為にはそのものはありません。しかし、その憲法の理念と考え方は天皇陛下の行動は内閣の助言と承認によって、行われる、おこなわれなきゃならないという基本的考え方は、天皇陛下にはまったくのプライベートちゅうのはないに等しいわけですから、日本国の象徴、日本国民統合の象徴というお立場にあるわけだから、その意味では、ご自身で自由にあっちいったり、こっちいったりちゅうことはできないわけで、その、天皇陛下の行動の責任を負うのは内閣なん(だ)。国民の代表、国民が選んだ政府内閣が責任を負うということなんですから、内閣が判断したことについて天皇陛下がその意を受けて行動なさるということは私は当然のことだと思いますし、天皇陛下にお伺いすれば、喜んで、私はやってくださるものと、そのように思っております」
自分がこのように言うならば、自分は「国民によって選ばれた僕」に過ぎないことを自白している。その僕に過ぎない自身が、国民に仕えるべきなのに、あれこれ指図している。
何人によって、そうした権限を与えられているのだろう。
国民は議員として選出し、実を賭して「出征」するよう求めた。
これは我々一般の人達も、この世に生まれたということは、「豊かに、楽しく、楽(快適)」に生きるためにではなく、この世を良くする為に「出征」する任務を負わせられてきている。
★ 年の暮れ ようやく積もる 外の雪
待合室には 花活けられて
2009/12/21
病院へ行きましたら・・・・・・、そして又、丁度クリスマスの催しが行われまして・・・・。
★ 灯火と 鈴の音共に 唄歌い
祈りに満ちた 聖夜の調べ
★ 愛おしき 子には奉げる 詩ならば
積もる雪にも 清らかしきを
2009/12/20
★ 天地の 子には奉げる 詩聴けば
一人合点な 親心では
2009/12/21
★ 幸せも 求めるよりも 頂いたら
師走の風も 快きものに
2009/12/21
新しい年に、福を求め、幸せを求めようとしてあわただしくなっているようで・・・・・、
でも、このまんまを有り難く、嬉しく頂いたら、あくせくしないだろうなぁーーー。