肉親が亡くなってもそのままにしておいて、届け出もせず、埋葬もせず、亡くなられた方の振り込まれた年金を着服している。
かと思うと幼児児童虐待、児童ポルノ、児童買春らと、後を絶たない。
一方の世上ではきらびやかな半面、悲惨な事件が相次ぐし、いい年をしたものが欲得に狂って「切った張った」に明け暮れている。
そして争い、戦争も絶え間なく、この国も戦備に勤しんでいる。
こうした中で、多くの人々が泣き、嘆き、悲しみ、悲惨さを恨み呪っている。
しかし、いくら「恨み、呪って」いても、その元を糺さないことには、因果が巡っていく。
元々こうした「悲惨さ」を産み、「恨み、呪う」べきもの発端となった原因は、我々が「因縁果報」の理に気付かず、身勝手に、自分勝手に自己本位になっていたからにある。これが発端となり、四方八方へと拡散していくこととなった。
それもただ四方八方へと拡大していっただけでなく、「親の因果が子に報い」と言われるように、代から代へと伝えられていくことともなっている。
「因果が巡る」という「因縁果報」の在り方には、二つの形がある。
一つは「善因善果」という形で、「良い因を持てば、よい結果をもたらす」という形。
今一つは「悪因悪果」という形で、「悪い因を持てば、悪い結果をもたらす」というものである。
この「因縁果報」の理を、覆すことはできない。
しかし「善因」を絶ち、「悪因」することはできる。
同じように「悪因」を絶ち、「善因」に衣替えしてしまう事はできる。
我々が今日のような悲惨な世の中から、明るい世の中にしようと思うなら、その元となる「悪因」を絶ち、明るい世の中にするための「善因」にしていく必要がある。
我々が明るい世の中にしようと思うなら、その「善因」とすべきものを、「身勝手な、自分勝手な、自己本位になることを絶つと言う事、それは「豊かで、楽しく、楽(快適、便利)にならなければならないという思いを放棄することを意味する。
何故なら、そうした思いが「不平不満、不服、不足」といった感情を引き出し、他との軋轢となり、双方ともに平安ではいられなくなるからである。それは「因果を廻らせる」元となる。
「自分から人」へ、親から子」へと、際限もなしに続けらる事になる。
その際限もなく続けられそうになる緒を、断ち切らなければならない。