青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

短歌 95、

2010年02月28日 | 短歌に政治や社会

★ 人生かし 我が身を生かす 一時に
       花は開きて 春を告げよか
             2010/2/28


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

短歌 94、

2010年02月28日 | 短歌に政治や社会
★ バンクーバーの 拍手の振動 身にこたえ
        地の球驚き チリの地震へと
           2010/2/28

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

短歌 93、

2010年02月26日 | 短歌に政治や社会

★ ディルーム 桃の節句を 間近にし
        手を分け作る 雛の飾りは
             2010/2/26

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発想の転換 (下)

2010年02月25日 | 人生設計
「豊かな」ということは、「幸せな」ということでもある。

知ってのとおり、童話「青い鳥」では、「チルチルとミチル」が「幸せの青い鳥」を求めて旅をし、結局「幸せの青い鳥」は「外の世界」では無くて、「内なる世界」にあり、「身近」にあると見出している。

しかしこの「内なる世界」とも「身近」にあるといっても、それを「豊かな」ものとか、「幸せ」なものと分け分別し、選択するならば、それは意味を持ち得ない。
何故かというと、我々はどうしても、「一切皆苦」とも言うべき世の中に生きていかなければならない。「愉しい」事、「嬉しい」事、「喜び」というものも、いつまでも続くものではなく、たちどころに「苦しみや悲しみ」に変わってしまう。
そういう世界に生き生かされているからには、そこにはそれなりな心構えが必要になってくる。

では、どうすべきか・・・・・・。

それには、「水と油」が混ぜ合わさるように、我々は身辺に起こるすべての出来事を「素直にいただく」という精神を持たざるを得ない。
「苦しい」事は、「苦しい」がままに「いただく」事なのである。
「悲しい」事は、「悲しい」がままに「いただく」事なのである。
「辛い」事は、「辛い」がままに「いただく」事なのである。
この「苦しい」がままに、「悲しい」がままに、「辛い」がままに、それをあるがままに素直に誠実に「いただく」ならば、そこから「豊かさ」とも、「幸せ」とも混ぜ合わされ、融合されてゆく一つの道が開かれてゆく。
それは「苦しみ、悲しみ、辛さ」を忌み嫌い、避けて通ろうとするのではなく、受け止めて噛み締めることにより、この「苦しみ、悲しみ、辛さ」が「豊かさ、幸せ」に変えられてゆく。

これによって得られる「豊かさと幸せ」は、我々が普通求めて止まない「豊かさと幸せ」とは異なる。
ここに発想の転換がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

作詞 40、

2010年02月24日 | 作詞

名残の雪      2010/2/24


雨水の日に 降る雪は
沈丁花に 舞い落ちる
つぼみに受け 葉に受けて
雪降る中にも 春待てば
泣いた涙も 嬉しくて
名残の雪は 消えてゆく


つぼみはあかね色 葉は緑
沈丁花に 雪白く
舞い落ちる雪に 際立ちて
冷たさの中にも 春待てば
寂しい辛さも 懐かしくて
名残の雪は 消えてゆく


チラホラとした 軽き雪
沈丁花は 枝かしげ
冬終わりゆく 重さとも
寒さの中にも 春待てば
悲しい思いも 暖かくて
名残の雪は 消えてゆく


雪が降ろうと 寒かろうと
沈丁花は いま咲こか
元気で行こうと 語りかけて
耐えた胸にも 春待てば
如月の厳しさも 明るくて
名残の雪は 消えてゆく


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

短歌 92、

2010年02月22日 | 短歌に政治や社会

     小春日は アツアツ鍋の ちゃんこ鍋
       汗を流して 三皿も食べる
             2010/2/22

     お茶立ては 小春日良き日 ディルーム
      お点前受けて かしこまりする
             2010/2/22


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

外国人は母国が

2010年02月21日 | 短歌に政治や社会
「無償化対象、朝鮮学校は除外を」拉致担当相、文科相に(朝日新聞) - goo ニュース

例え「授業料無償化」になっても、塾通い費用は親が持つことになる。
それと同様、外国人が外国で教育受けようとするならば、塾通いするみたいなもので親、即ち母国が面倒をみるのが本筋になる。

こうしたことは「外国人参政権」問題も同様で、異国の政治に関わるべきではなく、自国の選挙政治に対してのみ、参政権を行使してもらいたい。

それを、我が国国政に参政させるのは、整合性を持たない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発想の転換 (上)

2010年02月21日 | 人生設計

我々が生きていくなら、生きていくそこは「豊かな」ものであった方がよい。
それは「豊かな国、豊かな環境、豊かな文化」な中で生きられた方が、より生き甲斐を持つ。
この「豊かな国、豊かな環境、豊かな文化」目指して、明治時代は「豊国強兵」に取り組み、敗戦後は「経済大国」を目指して頑張って来た。
だがしかし現在は、その目論見は外れて、金融危機に襲われて不況にあり、社会は悲嘆な事件が多発し、少子高齢化が進んだ上に核家族化して人々は孤立化しいる。
こうした社会状況を改善すべき政府国家は、政争に明け暮れて少しも役に立たず、当てにもならなくなっている。

元々「豊かな」という事は、「豊かな国、豊かな環境、豊かな文化」事ではあるが、我々はそれを「経済成長、景気拡大、科学発展」らによって手に入れようとしたことが、そもそもの間違いと言わなければならない。
云わば「経済成長、景気拡大、科学発展」などでは、「国が立ちいかなくなってしまうのである。

殊に我々は、「豊かな」という事に、「豊かで、楽しく、楽(快適、便利)」に生きていこうとしてしまう。
だから「コンサート、イベント、スポーツ鑑賞、演劇鑑賞」とかへと出かけたりする。
それによって「怠け」てしまう。
「人や、他のもの、機械などを、当てにして頼り」にしてしまう。
その為にダラケ癖がついてしまい、出来るだけ簡単に生活できて「豊かで、楽しく、楽(快適、便利)」に生きられることだけに必死になる。それが、「世の中や国を、立ちいかなく」していく。

そうした我々を、何が「豊かで、楽しく、楽(快適、便利)」にさせ、「豊かな国、豊かな環境、豊かな文化」にさせてくれるかということに思いをはせて、導かせてくれるものがいない。
「ノーベル賞とか、文化勲章とか、五輪メダル」を取った人たちでも、何も教え語ってはくれない無能さがある。

だが寂れ行く辺地の片隅で、黙々と農作業や林業漁業に勤しむ人たちは、その背中で何が我々の、「豊かな国、豊かな環境、豊かな文化」の礎なのかを語ってくれている。

今の今日、我々は発想の転換をしなければならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家庭崩壊

2010年02月20日 | 短歌に政治や社会
夫婦別姓導入の民法改正案提示 法相、今国会成立に意欲(朝日新聞) - goo ニュース

こういう法案を提出しようというのは、家庭を「崩壊」させようとしているようなものだ。
「夫婦別称」とするということは、「浮気、不倫」を容認するようなものだし、いつでも「離婚」を託せるように、機会を与えるようにしてやるものみたいなものだ。
そこへ持ってきて、

「婚外子」に対する相続差別の解消なども盛り込んでいる。

というのも、この「浮気、不倫」行為を正当化させるばかりでなく、親子間の「親子別称」へと事態は深刻化し、かくて「民法秩序」も「法秩序」も崩れていき、「家庭崩壊」は加速していくことになる。

国会は、こんな事や「外国人参政権」問題などや「政治資金疑惑」などにかまけていないで、今国民が「あえぎ、苦労し、悲嘆」している諸々の国政に携わるべきである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生ということ

2010年02月18日 | 人生設計
我々は「人生」というと、「安穏」であるようにとか「満喫できる」ことを望んでいる。
それは、いわば「より豊かに、より楽しく、より楽(快適、便利)」に過ごせる事が、人生としての意義を持つと思っているようだ。
殊に定年になったり子育てを終えたりして、その後の余生を生きることとなると、どうしても「楽をして、楽しみたい」という思いをさせられる。
しかし、それでそういう「人生」というもので、良いのだろうか。

「人生」という事を考えるという事は、それは「哲学的」なことであるかもしれない。または「宗教的」であるかもしれない。
だが我々は、この「人生とはどういうものか」というものを知らないでいて、ただ「安穏に、満喫しよう」とだけして生きているなら、それは常に狂いを生ずることになる。
そしてこの「狂い」に苦しみ、泣き、世を恨み、お互いが背きあい争っていくことにもなる。

「人生」とは、「それらしく生きていく」とい事であるだろう。
人間ならば、「人間らしく生きていく」ということである。
それは、「子として生まれた」なら、「子らしく生きる」ということであり、兄弟がいたならば「兄らしく、弟らしく、姉らしく、妹らしく」生きるということである。
そしてそれは、家庭の中でのものとしても、また世間の、世の中においてでもある。
更に長じていき社会に出れば、社会の中での勤め人としての「らしく」生きていかなければならないし、結婚すれば、「夫らしく、妻らしく」していかなければならない。
子供が生まれれば、子育てしていきながら、自身を「父親らしく、母親らしく」育てていかなければならず、それに「老親育て、世帯育て、世間育て」も加わる。そればかりか、子供が成長していくと、子供たちの友達の「友達育て」も疎かにはできない。

こうした「子育て、老親育て、世帯育て」なども一段落した定年後とか子育て後も、次には「孫育て」などがあり、「世間育て」は続けていかなければならないだろうし、更には「跡継ぎ育て」もある。

もし、これらの中の一つでも疎かにしたり、無頓着や無関心になったりすると、後でそのツケが来る。「人生」にも、狂いが生ずる。
世間では、タレントや芸能人などの「芸、演技」などを持てはやしたりしているが、「人生」というものは、そうしたもので欺かれ、ごまかしきれるものではない。

我々の「人生」には、先祖から託されて受け継がれたものを持つ以上、それを子孫にも託し受け継がせていく必要がある。
といっても、それは「世襲」というような「名目」のようなものではない。「命、生命」として受け継がれた「心」ともいうべき精神、「人間らしさ」を、怠りなく努めながら続けていかざるを得ない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする