今国会での施政方針や、一般質問での質疑応答を見ていて思うのだが、これが国権の最高機関での出来事なのかと思うと、「いやはや」という思いがする。
首相の言う事や、その政策というものが、とてもおかしいのである。
これは、私だけが思う事なのかもしれないが・・・・
首相は、こう言う。
「消費税増税」について、「景気が良くなったら三年後には引き上げさせていただく」とーーーー。
又、こうも言う。
「定額給付金」は、景気浮揚になる。
こう言う論理は、我々からする一般感覚ではこんな感じになる。
? 食事の支度ができていないのに「飯食べる」という。
? 免許を持っていないのに、車を買うという。
? 家を建てる土地も無いのに、屋根瓦を買う
こう言うみたいなもので、段階的準備が整っていないのに先のことを考えている。
こんな事を、首相は何て言うかご存知かな ??
「獲らぬ狸の、皮算用」という。
しかしこの「どうしたらよいか」という事には、「こうすればよい」と明確には答えられない。それというのも、前述したように、私たちは「縁起する」世界に生き、住んでいるからである。
「因果」の中で生きている以上、常に何らかの「相対する因」に直面するが、この直面した「因」にどう反応するか、「縁」を結ぶかで「幸福、幸せ」の行く末が分別される。反応した事によって、結果が出るからだ。
この結果は、反応の仕方、すなわち「縁」の結び方しだいによる。
さらに、一つの結果が良かったからといって、それで「幸福、幸せ」を手に入れたという事にはならない。
たとえば「車の免許」を取ったから、これで良いと思ったら間違いになる。免許を取ったのがうれしくて、スピード違反や飲酒運転などしようものなら、即罪に問われてしまう。
同じように、一つの「結果」を得ても、それは過去の実績であって、今現在に直面している事象という事柄には、何の役にも立たない。今初めて直面する事象、「因」として、まじめな態度で「縁」を結ばなければならない。
ことに私たちは、物事に対する態度として、「六感」によって「縁」を結び反応する。そして「好ましいものと好ましくない」ものとに分けてしまう。「好き嫌い」を出す。「好き嫌い」を出すという事は、わがままを出すという事になり、自分が持っていた実績を超えたものを、実績も無いままに「求める」という愚かな行動に出る。
これが今日の「金銭感覚」に、現れている。貨幣価値は、もともとは「労働価値」であり、「生産価値」であった。だが「金融商品」として出回るようになってこの金銭感覚は、実績の無い空っぽのものでしか無くなっている。そしてそれを追い求めるのが、今日の「幸福、し合わせ」感覚みたいになっている。
いずれにせよ、「幸福、しあわせ」になるためには、「因」という常に現れる事象に対して、「六感」に振り回される事なく、正しく「因」と縁」を結ぶ、すなわち反応するという事が、よりよき「幸福、しあわせ」への道程になる。
この「因」に対して、縁」の結び方、反応の示し方には、三つの姿がある。
次回に、それを述べる事にする。
人間もPCみたいなもので、ソフトがなければただの物とか箱みたいに過ぎないものだ。そしてこのソフトというものも、正常に働くためには、ハード次第でもある。
となると、ハードとソフトは、お互いが相性が良くなければならないことになる。
前述したように、「求める」という事と「与える」という事には、一方に偏るべきではなく、調和が必要になる。これは「自発的対称性の破れ」という事が、以前にもちょっと述べたように、宗教性を持っている。その事を良く言い表し説明しているのが「縁起」、すなわち「因縁」である。
「因縁」は、「因」となるもの、それは一つのものではなくて相対するものを指し、その相対するものとの間に「縁」という何らかの関連付けが行われ、それが「果」としての「結果」として現れるという相関関係を意味している。
「自発的対称性の破れ」は、この「因縁」、「因果律」に沿って現れる現象である。
しかしこの「因果律」そのものには、「こうしよう」とか「ああしよう」という思いや思惑は、無い。ただ「因」と「縁」とに沿って、「果」という結果を出すだけである。
しかし「精神、心」というものを持つ私たち人間は、「因」に対して「こうしよう、ああしよう」という思いで「縁」を結ぼうとする。それがただ単に「求める」ということのみに偏った、「縁」になってしまい、この事が「幸福、幸せ」になる事を紛らわしくさせている。
ここに一つの例を、挙げよう。
「医療訴訟」という事が、よく行われている。
しかしこの発端は、病気になったから、それを治療して欲しかった事にある。すなわち「病気を治してほしい」と、求めていた事にある。
ところがそれが、治療法とか薬剤とかが元で医療事故に会う事になってしまい、それで医療訴訟をし、責任賠償を求めるという事になっている。
この事を良く見てみると、「病気」というものを、治してもらう事を求めていても、「治療を与えら」れているということには、少しも感謝していない。「誰が病気を治すか」という、そういう視点には立っていないで、ただ「求め」ているだけに過ぎない。
それなら、病気を自分で治せばいいのである。
こうした事は、相対的な関係に立っているという、自他のふれあいの中で、「求める」という事と「与える」という事との、「調和」の取り方ができていない事による。それで「バランス感覚」が崩れてしまっている。
私たちが生き、そして住んでいるこの世界は、大小、深浅、長短、高低等が調和よく取れている世界である。一方に偏ろうとすると、それを是正して、常に調和を保ちバランスを取ろうとする。
民主主義は「主権住民」を、基本にしている。すなわち「住民や国民」が、主権者である、という事である。
しかし実際には、「代理者」が主権者になっている場合が多いようだ。
国政においても、選挙で選ばれた者が、主権住民の手を離れてしまって、自分達がすべての権限を持ってしまったようになって、政局のためや政争に明け暮れている。「国民の願い」とか「国民の希望」とかは、そっちのけになっている。
そして自分たちの都合の良いように、「法」を整備する。
こうした事が、「親方日の丸」的な、行為になる。
これはおかしなことに、選挙で選ばれた「選良」という人たちは、それは首相や閣僚などもそうだが、一度言った事には「責任」を持たない。次には、ころっと引っ繰り返してしまう。そして、前言を撤回訂正し、ちょっと謝罪して、それで終わり・・・
前の二人の首相なども、政権を投げ出す前は、国民に期待させるような事を色々述べていたが、投げ出した後は知らん顔をしている。議員辞職もせず、それどころか、何かあると出しゃばってくる。自分が「失政」を犯した事などは、おくびにも出さない。
これは、住民や国民から「主権」を取り上げたみたいな感じを受ける。
先日「イージス艦 あたご」と漁船の衝突に関する海難審判判決があって、「あたご」側に有罪が言い渡されて、その傲慢とも言える行動が指摘されたが、各々に主権が存在している点に、疎かになっていたからだといえるだろう。
「京品ホテル」の事でも、経営者と授業員との間に、主権の平等意識が希薄であった事もあり、それに「法」が加担していた事にも、原因がある。
「主権」というものは、選挙で選ばれたものとか、法律にだけ託されたものではなく、あくまでも私たち住民にある・・・・
私たちは、「主権」が自分たちにあることを、よく認識する必要がある。
「定額給付金」の給付対象者を限定すると、手続きが煩雑になるという。いわゆる「所得制限」などだが、しかし次のような事では、対象者を絞られて、わりあい「生活支援型」のような「給付金」になるのではないだろうか。
● 支給対象者は、2月1日現在住民登録されたものとされていて、それ以後に生まれた赤ちゃんには支給されない。それを現在妊娠中の妊婦にも加算するとか、一年以内とかに生まれた赤ちゃんにも支給する。そうすると、人口増しにもつながるのではないか。
● 一年以内に婚約したカップルを、支給対象とする。ただし支給された後離婚してしまうのを防ぐために、十年間位の期間内に離婚した場合には賠償する事を条件とする。
● 障害者(児)、厚生年金や共済年金受給者を除き、国民年金受給者や寡婦年金受給者を対称とする。
他にもいい案があるかもしれないが、ま、、こんなやり方をすると、無駄なばら撒きな給付金にならないだろうと思う。
「自発的対称性の破れ」は、「無」の中に、たった一つしか存在しない場合は、ありえない。二つ以上の、相対するものがない事には、この現象が起こりえないといえる。
この事は「他とのふれあい」がない事には、この現象が起こりえない事を意味している。
そしてこの事は、必然的なこととして、「時」を存在させる事になっていると思われる。すなわち、「時間」の発生である。
私たちが「幸福、幸せ」というものを「求める」という事は、他ならない事だが「他とのふれあい」無しには求められない。そして又、単に「求める」という事は、「与える」というものがない事には、この「求める」という事が満たされる事がない。それは「与える」にしても、無尽蔵に希望に応じられる訳がないからでもある。
こうした事から「求める」という事と、「与える」という事との間に、どうしても調和が必要になる。いわゆる「バランス」である。
時間が存在する限り、どうしても一方に偏りがちになるのを、是正していかなければならない。
物質の場合は「中間子」や「中性子」が存在して、物質を安定させている。
それと同じように、「幸福、幸せ」というような精神分野においても、何らかの調和をとるものが必要になってくる。
ここで、この調和をとるものを考えてみよう。
私たちに「幸福、幸せ」になりたい思いをさせるのは、突き詰めていくと「六感」の働きが重要な意味を持っている。
「六感」とは「目、耳、鼻、口、肌」に感じる感覚に、感情というものを加えた感覚の事である。この「六感」で感じたものによって私たちは、「これは好ましい」とか「楽しい」とか感じたに「あれはいやだ、嫌いだ」とか「うつくしい、きれい」と感じるかと言うと「悲しい、苦しい、つらい」などと感ずる。
この感覚や感情を感ずるのは、主に六番目の感情による感覚だが、この六番目の感覚は、普通の私たちは「自我」をもって感情を判断している。すなわち「自分にとって好ましいか、好ましくないか」分別している。
この事は「幸福か、しあわせか」という事を判断するのも、「自我」によって判断している。
この「自我」の判断しだいで「幸福、幸せ」は、あったりなかったりする事になる。だから何をおいても、この「自我」というものを、調和させる必要がある。
この調和の手段として、「六感」に頼らない生き方を選んだ生活を勧める。これが「無我」の生活である。
それは「視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚」とそれに「感情」を離れた生活の事である。一般には「禅修行」などのことを言う。
これは宗教的に関連する事だが、調和の取れたバランス性を養う行いである。
前回、
「この人を取り巻く対象が、「自発的対称性の破れ」という現象を見せることにより、「幸福、幸せ」というものが存在するかしないかという、どっちずかずの状態になっている。」
と述べた。
この事は、以前にもこのブログで述べたように、「自発的対称性の破れ」には二つの形があり、ひとつは「普遍的」、もう一つは「一般的」な二つの形がある。
これは別な言い方をするなら「陰陽、正負、正邪」などとも言え、お互いが反発しあっているものなのだが、普通は一方の面しか現れていない。
もつとも物質の中には、例えば物理に用いられる「中性子、中間子」があるように、どちら付かずのものもある。これについては、別に述べる。
私たちが「幸福、しあわせでありたい」ということは、この「陰陽、正負、正邪」などの一方に当たる。簡潔に言うと、「求める」ということにあたる。そして「与える」ということとは、反対の次元が違う思いになっている。
「自発的対称性の破れ」という現象には、このように「幸福、幸せ」に対するように、「求める」ということに対して、「与える」という現象を抜きにしては存在し得ない。ただ単に「求める」というばかりが過ぎるなら、「与える」ものなしには、「求める」ことが成り立たない。「与える」ことも、「与える」という「求める」与えがないことには、「与え」自体が成立しない。
この事により、「自発的対称性の破れ」という現象には二つの現れ方がある訳だが、しかし本来のそれ自体には、「ただそうする」という事のみがあるのであって、私たち人間が持っているような「求める」とか「与える」とか言うような「我」を持っていたものではないものなのである。いわゆる「我を持たない、無我」なのである。
私たちが「幸福、幸せ」になろうとするところに、この「我」とものが関わっている事により、「幸福や幸せになりたい」という思いが、ややこしくなっている。「自発的対称性の破れ」という現象は、むがな現象である。それが「自我」を持って「幸福、幸せ」を望む事で、禍福が混在する。
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普通私たちが「幸福、幸せ」というと、主に「物事が思い通りになる」といったものを指しているようだ。
それは「望みがかなう、願いがかなう」とか、「欲しいものが手に入る」とか、その他には「楽しい、うれしい」ことがあったというようなこともある。
しかし「青い鳥」の童話に見られるように、「幸福、しあわせ」は、同一性を持たない。同一を持っていないから、相対する。対称性を持つ。それは同一性を持たず相対し対称性を持つから、反発する。
自分は自分であり、相対するものは、相対するものの自分がある。その相対するものの自分が、こちらの自分の都合に良いように、常には答えてはくれない。
それ故に「青い鳥」の童話は、「幸福、幸せ」は「外の世界にはありえない」と結論付けている。
この事は昨年のノーベル物理学賞の対象になった理論、「自発的対称性の破れ」という原理でも説明できる。
素粒子は、もともと質量を持たないものといわれる。しかしここで言うと、食べ物があるとしても、口の肥えたものには「好き嫌い」がある。しかし貧苦な生活をしている人や、飢餓にあっている人は、食べられるものならばどんなものでもおいしい。
これは、食べるものと、食べ物とが「自発的対称性の破れ」を起こしているからである。
私たちが「幸福、幸せ」を思うにしても、この「自発的対称性の破れ」の原理に基づき、自分の内部しだいで「禍福」が混在する。
外部の世界、様子がどうであろうと、自分自身の何面が、外部の世界をどのように受け止めるか如何にかかっている。
しかしながら、素粒子にしても、人間にしても、ただの一個しかなく、ただ一人しかいない人間の場合、その時は「自発的対称性の破れ」は起こらない。「自発的対称性の破れ」が起こり得るのは、対称とする相対するもが存在してこそ起こりえる。
それは人である場合に限らず、人を取り巻くすべてのものが対象になる。
この人を取り巻く対象が、「自発的対称性の破れ」という現象を見せることにより、「幸福、幸せ」というものが存在するかしないかという、どっちずかずの状態になっている。
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