子曰わく、吾十有五にして学に志す、
三十にして立つ、四十にして惑わず、
五十にして天命を知る、六十にして耳順がう、
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。
上記の文、ご存知のように孔子が述べられた「論語」である。
この文には、我々人間の生き方、人生観、処世訓というものが述べられてるわけだが、しかしこの孔子の「論語」の教えというものによって、我々の生き方そのものの屋台がグラつき、崩れていくこととなった。
この論語からみると、「何を指針、目的」として「学に志し」となり、それによって「何が立つ」という事になるのかが述べられていない。
そしてまた「天命とは何か」という事も、「何に耳従う」かという事も述べられていない。
もっともこの「耳従う」という事は、「若い者に」という事かも知れず、悪戯に年寄りががしゃしゃり出るべきではないという事なのかもしれないが、「では年寄りの役目は」という事になると、何の指摘も示されてはいない。
そもそもが「人はなぜ産まれて生きるのか」という問いに答えず、その問いに答えた上で「人生の意義」にも、「生活する意義」にも、「働く意義」などにも答えていないことから、人の世の世界が狂ってしまってくる。
示されない針路に、示されない指針に、自分自身を導きようがないまま、ただ「優勢、勝利、拡大、豊かさ」などというようなものだけを目印にして進もうとしている。
そしてこの「優勢、勝利、拡大、豊かさ」などというようなものというものは、総じて「誤魔化し事」でしかない。誤魔化しておいて、誤魔化したまま、更に誤魔化してそれを針路にしようとしている。
孔子の「論語」は、目当ても無く、針路も無く、目指す指針も目的も持たないままに「何かを志す」道に踏み出すしている。それは、何の経験も持たない以上、やむを得ないことであるかもしれない。
もともとそうした事は、身の回りにいる者によって与えられるものなのだが、その与える者自身がメクラ滅法な状態の中では、受ける者も迷っていかざるを得なくなる。
それに孔子の「論語」には、年老いていった後の在り方が頼りない。それ故に、一般人も、年をとったら、リタイアしたら、「楽をして趣味や旅行などで楽しもう」という風になっている。
この事は宗教的になるだろうが、我々が「生きる」という事、そしてその「生きる」という事を、己の身の「生きる」に留めずに「他の者の生きる」に託していくと言う事、それは「他のものに携え、ゆだねる、授ける」という、言わば「相続」という行為も忘れてはなるまい。
だが今日の老人の多くは、後世の人々の成育を放棄して、自分の老後を楽しむことばかりしている。一時は「今の若い者は…」などといった者も影を潜め、老人登山とか海外旅行とかしていて、それで災害に巻き込まれるとか事故を起こして迷惑をかけている。
「民主主義」というものも、自分自身が受ける者だけのものではなく、全てのものが受ける者としての思いに立ち、且つ、自分自身が自分自身を「民主主義」を受けるにふさわしい人間に育て上げた上で受け止めようとすべき主権主義としなければならない。
そうした上で、後世のものに設けてもらえるものに、後世のものを育み育て上げようとすることによって、正しき「民主主義」となる。