「慈しみ」は幸せへの鍵
「生きとし生けるものが幸せでありますように」
そう心から願うとき、心は幸せで穏やかになります。この言葉は、仏教の最古の経集『スッタ・ニパータ』に収録されている「慈経」のなかの一文です。「慈経」は、上座(テーラワーダ)仏教の国の人々のあいだでもっとも親しまれ、もっとも頻繁にとなえられ、もっとも大切にされているお経のひとつです。とくにこの「生きとし生けるものが幸せでありますように」という言葉は、日夜、口癖のようにとなえられています。
なぜ、それほどまでに慈(いつく)しみが大切にされているのでしょうか? そもそも慈しみとは何でしょうか? どうすれば心に慈しみが育つのでしょうか?
アメリカで長年にわたって仏教の瞑想法〈マインドフルネス〉、または〈ヴィパッサナー〉を指導し、西洋社会に大きなインパクトを与えてきた方のひとり、バンテ・ヘーネポラ・グナラタナの最新刊、『慈悲の瞑想――慈しみの心』(拙訳、春秋社刊)から、ブッダが説いた「慈(いつく)しみ」について、簡単にご紹介したいと思います。
なぜ、慈しみが大切なのか?
私たちは互いにつながり合って生きています。この世の中をひとりで生きていける人はだれもいません。みな、他の生命とつながり合い、支え合って生きているのです。もし、自分だけよければいいと考えて、自分の利益しか考えずに生きているなら、他者とのあいだに壁が生じ、争いや対立が起こるでしょう。とうぜん幸せに暮らすことなどとうていできません。
そこでブッダは、利己的な「私(エゴ)」という硬い殻を壊し、幸せに生きるための心の育て方を教えられました。それが「慈経」であり、「慈悲の瞑想」です。
慈悲の瞑想と現代医学
昨今、世界中で「マインドフルネス」が注目を集めています。これと同様に、「慈悲」に関しても、多くの科学者たちが注目し、研究を進めています。
ある研究では、慈悲の瞑想をすると、心の充実感や喜び、感謝、尊敬心などが高まり、これによって注意力や集中力、社会性などさまざまな能力が向上し、その結果、うつ病になるリスクが低下することが示されています。また、共感やEQ(心の知性:Emotional Intelligence Quotient)をつかさどる脳の領域がくり返し活性化され、灰白質の量が増加し、幸福感が高まるという結果も示されました。わずか数分間、慈悲の瞑想をするだけで、心はリラックスし、健康増進につながるという研究結果もあります。人間関係が良好になることは、いうまでもありません。
このように、欧米だけでなく日本でも、慈悲の効果の検証が盛んにおこなわれています。
しかし、こうした慈悲の効果は、いまから2500年以上も前に、すでにブッダが発見し、人々に教えていたことなのです。
たとえば、現代では不眠症で悩む人にたいして慈悲の瞑想をすすめるクリニックが増えているようですが、驚くことに、ブッダは「慈悲を常に抱いている人は、夜よく眠り、朝すっきり目覚めますよ」と説き示し、それが経典に記録されているのです。(『慈悲の瞑想――慈しみの心』第6章「慈悲の11の利益」参照)
「慈しみ」ってなに?
ところで、人を幸せへと導く「慈しみ」とはどのようなものでしょうか?
簡単にいえば、慈しみとは心のやさしさのことです。パーリ語で「mettā(メッター)」といい、「友」や「友情」という意味をあらわします。たとえば仲のよい友だちにたいしては自然に「幸せでいてほしい」とか「悩みや苦しみがなくなってほしい」といった気持ちが生まれてくるのではないでしょうか。そのやさしさを、特定の友だちや好きな人、愛する人だけでなく、すべての生命にたいして差別なく、無制限に広げていくのです。これが仏教の教える広大無辺な「慈しみ」です。そこに、主観的な選り好みはありません。
「慈・悲・喜・捨」の4つのアプローチ
ブッダは慈しみを「慈(じ)・悲(ひ)・喜(き)・捨(しゃ)」という4つの面に分けて教えられました。これは「四梵住(しぼんじゅう)」ともいわれ、パーリ語で “brahmavihāra(ブラフマ・ビハーラ)”といわれます。“Brahma(ブラフマ)”は「崇高な」、“vihāra(ビハーラ)”は「安住」という意味で、この2つの語を合わせた“brahmavihāra”は、「崇高な慈・悲・喜・捨に安住する」という意味になります。心に「慈・悲・喜・捨」を育てれば、心はもっとも清らかな状態に達し、いま生きているこの世界で、この上ないやすらぎが得られるのです。
4つの面はそれぞれ特徴があります。「慈(mettā、メッター)」は友人に接するときのようなやさしさ、「悲(karunā、カルナー)」は困っている人を心配する気持ちのことで、悩みや苦しみがなくなってほしいという思いやりのことです。「喜(muditā、ムディター)」は他者の幸せを見聞きしたとき嫉妬するのではなく、「よかった、よかった」とともに喜ぶ気持ち、「捨(upekkhā、ウペッカー)」は差別のない平等な心で落ち着いていることです。
この4つの面をすべて育てなければならないかというと、そうではありません。この4つのなかに自分にとって実践しやすいものがひとつあるはずです。それを見つけたら、しっかり育てていきます。「慈・悲・喜・捨」は互いに関連し合っていますから、どれかひとつを育てれば、他の性質も育っていくのです。
もし実践しやすいものが見つからなければ、「慈(mettā、メッター)」からはじめることをすすめています。「みんな仲間だ。幸せであってほしい」というやさしさを、くり返し心に言い聞かせ、心のなかを慈しみでいっぱいに満たすのです。
慈しみの育て方――「慈悲の瞑想」
では、「慈悲の瞑想」の基本的なやり方をご紹介しましょう。
最初に言葉を選びます。たとえば「幸せでありますように」といった、心が穏やかになる言葉を選んでください。言葉が決まったら、背筋をまっすぐに伸ばして座り、その言葉を心のなかでくり返しとなえます。
まず、「自分」にたいして慈しみを向けます。どんな生命も、自分のことをいちばん大切に思い、幸せに生きることを望んでいます。これはごく自然な願いです。ですから正直な気持ちで、「私が幸せでありますように」「私の悩み苦しみがなくなりますように」などと心のなかでくり返します。
次に、両親や先生、友人など「親しい人」にたいして、慈しみを広げます。これは比較的、簡単にできるのではないでしょうか。素直な心で「幸せでありますように」とくり返します。
それから範囲を広げて、「好きでも嫌いでもない中立的な人」に慈しみを向けます。
その後、「嫌いな人・私を嫌っている人」にたいして実践します。このとき、もしかすると抵抗感をおぼえたり、やりにくいと感じたりするかもしれません。でも、自分にとって嫌いな人がいると、心はかたくなになり、いらだちます。そこで「彼らも仲間ではないか、幸せであってほしい」とポジティブな思考を育てていくのです。やがて彼らにたいしても、自然に慈しみを向けられるようになるでしょう。
最後に、宇宙に住む「すべての生命」にたいして無制限に「幸せでありますように」と慈しみを広げます。
これが、慈悲の瞑想の基本的なやり方です。ポイントは、怒りや嫉妬などネガティブな思考が生まれないよう慈しみをくり返すこと、そして心になじませることです。
日常生活のなかでの慈しみ
座って瞑想するときだけでなく、日常生活のなかでも常に慈しみを抱くことができるよう、心を育てていきます。たとえば料理をしているときには、「これを食べる人が健康になりますように」とか、掃除をしているときには「ここを使う人が気持ちよくすごせますように」などと慈しみを抱きながら生活します。何をするときも、心のなかで明るい慈しみの思考を回転させるのです。
ブッダは「慈経」で、
「立っているときも、歩いているときも、座っているときも、横になっているときも、眠っていないかぎりは、常に慈悲の念を起こしてください」
と説いています。慈しみを実践するのに、時や場所、状況は選びません。朝、目が覚めてから、夜、眠りにつくまで、常に慈しみを保ち、慈しみが性格になるまで実践するよう、すすめられています。このように慈しみを保つことで、「自」と「他」の壁が壊れ、そこにこの上ない安穏な世界があらわれるのです。
慈しみの実践は、2500年以上たったいまでも、仏教徒のあいだで大切に受け継がれています。この慈しみこそが、幸せを実現する重要な鍵なのです。
慈悲の心の育て方
以下の紹介内容は、すべて下記より引用しています。
【参考】
『心の平和』
ダライ・ラマ14世著 /サンマーク出版
画像については、書籍の内容を参考に作成したものです。
それ以外の追加情報については、参照元を個別に記載します。
すべての命あるものに対する偏見のない愛は、心を訓練することによってはじめて育まれるものです。
心を訓練するとは、偏見のない愛こそ価値ある正しい心であるという理由を考え、それに心をなじませていくことによって愛を育んでいくという意味であり、そのようにして育まれた愛は、智慧によって支えられています。
◆慈悲の心の2つのレベル
愛と慈悲、つまりやさしさと思いやりは、本質的に相手を自分の側に引き寄せ、相手を慈しみ、親近感を持つものであり、自分に必要なものを得ようとする心です。
このような愛は、ふたつに分類することができます。ひとつは、無知の心とともに生じてくるものであり、偏見を持つ心です。一方で、偏見のない愛は、苦しみをなくし、幸せになりたいと願っているすべての命あるものを対象とする愛です。
このような限りない愛は、智慧によって支えられている場合にのみ生じるものであり、それ以外には起きてきません。
すべての命あるものに対する偏見のない愛は、心を訓練することによってはじめて育まれるものです。
心を訓練するとは、偏見のない愛こそ価値ある正しい心であるという理由を考え、それに心をなじませていくことによって愛を育んでいくという意味であり、そのようにして育まれた愛は、智慧によって支えられています。
智慧によって支えられた愛こそ、本当の愛なのです。どの角度から見てもすばらしく、まったく欠点のない純粋な心であり、そのような愛を育み、限りない愛に高めていかなければなりません。
しかし、ふつう私たちが持っている愛情は、自分にとって身近で親しい者たちだけに向けられたものなので、偏見に満ちた愛であり、無知の心が混ざっているため、ときに間違った心になっていることもあります。
限りない愛を持つためには、まず私たちが持っているふつうの愛情を種として、その偏見を少しずつ取り除いていき、すべての命あるものを慈しむことができるようになるまで高めていかなければなりません。
基本的に、他の人たちに対する思いやり、つまり慈悲の心には、ふたつのレベルがあるのです。
第一の慈悲の心は、私たちが本来的に持っているやさしさと思いやりで、これは生物学的な要素として備わっているものですが、この慈悲の心は限られた心であり、偏見のあるものです。
しかし、この心を種として、さまざまな理由や根拠を考えることによって心を訓練していけば、この慈悲の心を除々に高めていくことができて、最終的に、それを偏見のない限りない慈悲の心に育てていくことができます。
限られた慈悲の心は、家族や親しい友人だけに向けられたものであり、そのような慈悲の心は、主に相手の態度に依存しています。
ですから、あなたに対して友好的な態度を示してくる友人たちに対しては、やさしさや思いやりを持つことができますが、あなたを害したり、問題を起こしてくる敵に対しては、思いやりの心を持つことはできません。
◆心を訓練することによって育まれる限りない慈悲の心
しかし、心を訓練することによって育まれる限りない慈悲の心は、偏見のないものであり、相手の態度に依存することなく、むしろ、その相手が自分と同じひとりの命ある生き物であるという認識にもとづいています。
その相手もまた、自分と同じように、苦しみを避け、幸せになりたいと望んでいるのだという認識を土台にしており、そのように育まれるやさしさと思いやりは、限りない慈悲の心であり、偏った考えは含まれません。
このような慈悲の心は、敵に対しても持つことができるものであり、その意味において、すべての命あるものは、苦しみをなくし、幸せになりたいと望んでいるのですから、そのような願いを持っているすべての生き物たちに対して、同じようにやさしさと思いやりを持つことができるのです。
これが、より高いレベルにおける慈悲の心であり、智慧の助けによって理由を考え、心を訓練することによって育むことができる心です。
◆限りない慈悲の心を育てる三つの方法
このような限りない慈悲の心を育てるためには、三つの方法があります。
第一は、神を信じる宗教にもとづく信心。第二は、仏教、ジャイナ教など、無神教のとっている方法論。そして第三は、世俗的な方法です。
第三の方法は、宗教的な信心とは無関係に、世間一般の常識や、すべての人たちに共通する体験にもとづいて、慈悲の心の必要性について考える方法であり、最も大切なのは、科学者たちによる最新の発見を拠り所にして考えることです。
つまり、より慈悲深い心を持てば、免疫機能が高められて、より健康になれる、ということを考えるのです。
私たち人間は、基本的に社会生活を営む生き物なので、よりやさしい人間になれたら、他の人たちに対しても心を開くことができるので、人間関係もスムーズになり、すべての人たちに手をさしのべられるようになるからです。そしてそれは、自分自身が持っている不安や恐怖を取り除く助けにもなります。
それが、内なる心の力を作り出し、心の平和を生み出すのです。
極端に自己中心的な態度を持っていると、他の人たちと心を通い合わせることができず、自分の殻の中に引きこもってしまうことになり、それがより多くのストレスや不安をもたらして、最終的に孤独感やうつ病などを引き起こしてしまいます。
これは、近代科学に携わるお医者さんたちが発見した明らかな事実なのです。これが現実です。
そこで、これらのことを理由として、よく考えてみるならば、自分自身の幸せのためにも、もっと心を開いて、他の人たちに対するやさしさと思いやりをますます高めていけるのではないでしょうか。
慈悲の瞑想
仏教を実践するうえで土台となる心を育てる
ヴィパッサナー瞑想の実践に入る前に、まず心を落ち
着かせるために「慈悲の瞑想」を行います。基本的に「慈悲の念」「慈しみの心」があると、実践の土台として大変役立つのです。
人間というものは、自分は個別の「存在」だと思っています。「私は、私です」 と思っているのです。「私は…」と思った瞬間で、私たちはこの世界の全体的な生命のエネルギーから自分を別なものだと、ある個体的な存在だと思ってしまい、自分と他とを区別します。
区別することによって、自分がとても小さなものになってしまい、いろいろな問題が生じてきます。人間が人生で出会うさまざまな苦悩は、この「私」というその個体があるんだ…と思ったところから生まれてくるのです。
簡単に言えば、この「私」という実感さえなければ、問題は何もないのです。しかし、これはなかなか消えるものではないのです。誰かが体に触ったら「私に触りました」と感じるし、冷たい空気が体に触れたら「私は寒い」というように、簡単に「私」という主語は出てきますが、しかしそのことは大問題なのです。「私」がいるから「他人」がいて、だから人間関係が悪くなったりする。「私」がいるから、他の人間と競争するためにいろんな才能を身につけなくてはならなくなる。例えばこのように、問題が生じてきます。
そこで、なぜ「慈しみの心」が必要かというと、いくら「私が私が…」と言っていても、実際には、ここに私が生きていられるのは他の生命があるからなのです。私達が生きるために必要な栄養素にしても、他の生命を経由して体内に採り入れるものが大部分ですし、例えば鉄分が必要だといっても、鉄の塊をガリガリとかじるわけにはいかないのです。
また、私達の体内には無数の微生物が住んでいて、なにかしら有用な活動をしています。それらの生命に「これは私の体ですから、出て行ってください」と言って追い出してしまったら、「私」も死んでしまいます。ひとつの体の中にも、多くの生命体が入り込み、お互い助け合って共存しているのです。
ですから、「私」を発見する以前に、生命に対する「やさしい心」というのは大変必要な条件になります。
どんな宗教でも共通して説いているのは、この「やさしさ」ということで、生命はお互いに助け合って生きている…ということは重要なポイントなのです。「慈悲の心」を育て上げられれば、自分は諸々の宗教に共通している真髄を実践しているのだと理解しても過言ではありません。
慈悲の瞑想の実践方法
次に実践ですが、ここでは「すべての行動は心に基づく」という法則を用いています。人間が行動する前には、必ず先立って「こう行動しよう」という心の働きがあるのです。
「慈しみ」を実践するのにもっとも簡単で早い方法は、心そのものを「慈しみの心」にしてしまうことです。
道徳やきびしい戒律を守ったり、困っている人を助けたりといった行動をしていても、もしも心が清らかでなかったらそれほど意味がないし、あとで疲れたり、嫌になる可能性さえあります。でも心が「慈悲の心」になってさえいれば、そこから先の行動は、どんなことでも素晴らしいものに変わるのです。
ですから、幸福になるためには、人生で成功するためには、平和で無事で争いがなく、堂々と美しく生きていくためには、ただ「やさしい心」さえ作ればいいのです。
それには、人を見たら自分とみる、相手を「他人」と見ずに「自分」としてプロジェクション(投影)してみることです。それができた瞬間に、問題はハッキリ明確に見えてきます。例えば、何か問題にぶつかっている人を励ましたい場合は、もし自分が相手の立場だったら、どのようにしてもらったら元気が出て、問題を解決できる力が湧いてくるだろうか……というように、相手の立場を自己に投影してみるのです。
それを上手くやるためには、やはり「慈悲」というものを育てなければなりません。「慈悲の心」を育てるためには、自分の心にず~っと反復して言い聞かせてやればよいのです。そうして「念じる」ことは、大変効果的なトレーニングになります。
この「慈悲の瞑想」は、「ヴィパッサナー」とは違い、伝統的なごく普通の瞑想法ですから、ある意味では入っていきやすい実践だとも言えます。しかし、この慈悲を念じる実践は、決してヴィパッサナーの準備段階ということだけにとどまらず、すべての仏道修行において基礎になるもので、日常的にいつも念じているのが望ましいのです。
まず最初に、自分自身に対して慈悲の心を作ります。どんな生命にとっても、いちばん大事で最優先されるのは自分であるというのは、ごく当たり前のことですから、まずそこのところは正直な心で「私は幸せでありますように」と念じます。「幸せ」とはなんですか?と考える必要はありません。幸せとは少なくとも良いことでしょう……というふうに大雑把に理解しておけばいいのです。
次に「私の悩み苦しみがなくなりますように」「私の願いごとが叶えられますように」、そして私達はいちおう仏教の実践をしていますから「私に悟りの光が現れますように」と念じます。もし「悟り」という言葉が解かりにくければ「知恵が現れますように」でもかまいません。
二番目には、さきほど出てきましたプロジェクションということでもありますが、自分の「親しい生命」、いちばん幸福になって欲しいと感じる生命がいますから、その生命(自分の子供や両親、友人、身近な生命、動物、鳥、魚、昆虫、その他‥)のことを同様に念じます。
そして三番目に、やはりすべての生命が幸福であったほうがいちばんありがたいことだと思って、それから努力して「生きとし生けるもの」の幸福を念じます。
この三段階で、あらかじめ決めておいた言葉を唱えて「念じ」ていきます。言葉は、静かに心にしみこんでいくように、丁寧に丹念に念じます。(何人かで一緒に実践するときは声を出して唱えることもありますが、一人で実践するときは、声を出さなくてかまいません)姿勢は背筋と頭をまっすぐにして、目を閉じてください。
『慈悲の瞑想』の言葉
私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回)
私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
私の親しい生命に悟りの光が現れますように
私の親しい生命が幸せでありますように(3回)
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)
*2016年秋より、これまで「人々」としていた言葉を「生命」に置き換えて慈悲の瞑想をいたします。
これまでがワンセットですが、さらに続きがあります。 次は、自分が嫌いな生命、苦手な生命のことを思い浮かべます。嫌いな生命のいない人はまずいないはずですから、それらの生命を心に思い浮かべて、 それらの生命のために「慈悲の瞑想」を実践します。 さらに続けて、自分のことを嫌っていると思われる生命のことを思い浮かべて、それらの生命にも「慈悲の瞑想」を実践します。
私の嫌いな生命が幸せでありますように
私の嫌いな生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな生命の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな生命に悟りの光が現れますように
私を嫌っている生命が幸せでありますように
私を嫌っている生命の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている生命の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている生命に悟りの光が現れますように
そして最後にもう一度、
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)
皆さん、どうか毎日、日常の生活の中で時間を見つけては、この「生きとし生けるものは幸せでありますように」という言葉を、絶えず持続して念じてください。 そうすれば、必ず短い間に自分の心が変わっていくことに気づきます。 特にこれは持続して実践するということがいちばん大切なことです。持続していけば、やがてさまざまな禅定を作っていくことも可能になっていくのです。
< 終わりに一言 > 作成者
以上の文は全て引用したものですが、佛教は慈悲の宗教と言われていますが、仏像の中には「毘沙門天、不動明王」と言った恐ろしい姿の仏様がいられる。
「四天王」ともいわれる仏様で、これらの怖い姿の仏様は、仏様を守護しよう、お守りしようとしていられるが、そうした外敵から守るのみではなく、私たちが己自身で自分自身をいじめ虐待するような行為を見張るという役目も持っていられる。
欲得に目がくらみ、楽をしよう、面白いことをしよう、遊んでいて怠けていよういう心を戒めようとしていられるのだ。
しかし私たちは、その戒めを受けた時だけはちゃんと返事はして行ってはいるが、すぐに忘れ果てて元の木阿弥になってしまっている。ちょうど「右の耳に入ったものが、すぐに左の耳から出て行ってしまう」という状態のようにしかなっておらず、胸の中にと止まっていることはない。反省心がないと言える。
こうした私たちを戒め反省を託そうと、毘沙門天や不動明王は迫っている。それを受けて私たちは猛省し、同時にそこから懺悔心を起こしていかなければなるまい。それができるのは他者ではない。自分自身をおいて、誰もいない。
そこに、本当に自分を大事し、大切にしていこうという思いに満たされていく。そのことが慈しみの出発点となり、全人類ばかりか全宇宙全体への慈しみ、慈悲に昇華されていく。