初めに「宗教」ありき
初めに「宗教」ありき。この「宗教」ということには、「自他を離れる、捨てる」という意味が込められている。
己、自分と他とを意識するが故に、わだかまりやそねみ妬みを持ち、他と比べて不平不満を持ちがちになり、それが高じて争いとなる。
さらまた宗教における「自他」について言うと、この「自他」は「自」と「他」に分別されず、「自己、自分」の内に「他」を見出だすのか宗教である。
これは何を意味するかというと、「身口意」をいい、また「六根」をいう。「身口意」とは、「身体の行い、口の行い、意いの行い」をいい、これは「目、耳、鼻、口(舌)、皮膚」の五つの感覚に(意い)が関連して通じている。
我々人間は、この六根から受ける刺激が「快いか、不快で辛く煩わしいものか」に左右して分別して想いを混乱させていて、それは別にいえば、この六根によって心の想いがマインドコントロールされてしまっていると言える。
則ち目に見えるものによって心の思いはマインドコントロールされ、耳で聞く音声によって心の思いはマインドコントロールされ、臭いに、舌に味会いに、皮膚への感触に心の思いはマインドコントロールされてしまう。マインドコントロールされて、心の思い精神はありのままになれず、素直になれない。
宗教は、このマインドコントロールに侵されることなく、ありのままに素直になっていくための道である。それは目耳鼻舌皮膚から受ける刺激によってマインドコントロールされた心が、それがそのままに心をマインドコントロールしてしまう。
この悪循環を遮ることの道として、信仰心に充ちた宗教の道にあって、人としての人生のよすがしていく。
そもそも生命を持つ者の中で人間だけは、「快さ」という刺激を必要とし、それを演技として生き暮らしているからだ。どのようにかというと、得をして、豊かに、楽をして、便利肉暮らして生きようとするあまり、心は欲望に苛まれてしまっている。この苛まれる心を正していくために、宗教が必要になる。