「信教自由」は、憲法」で保証されている。
だがこの「信教の自由」を正しく理解せずに、言葉の上滑りに使われている。それは「宗教を知らない、判らない」で慣性的に使用したがっているものでしかない。
「信教の自由」というと、宗教がたくさんあるというような意味合いをもたらしている。
だが宗教は、厳に一つのもので、その一つが広大であり、かつ普遍性を、持っている。
しかしそれが了解しないまま宗教を口にするために、宗教の位置付けが誤ってしまっている。
宗教の立ち位置付けはどこにあるかと言うと、普遍的な慈悲心にある。なれども生きとし生けるものはみな自然なままな立ち位置に生きているが、人間はそうはいかない。
その原因は「欲」にある。ただこの「欲」は生命あるもはみな「食欲、性欲、物欲」として持つものであり、特別なものではないが、人間の場合はこれが、「満たすことを求めて止まない」ことにある。
故に人生の中にありて、しっかりした信仰心の位置付けの元、慈悲心に浸るところに、信仰への道がある。