9月23日付 産経新聞【正論】より
歴史観異なる教科書で学ばせよ 比較文化史家、東京大学名誉教授 平川祐弘氏
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110923/edc11092303120000-n1.htm
■歴史観異なる教科書で学ばせよ
日本が対米英戦に突入した3年後の1944年秋から米国機が東京へ飛来した。敵味方の飛行機が撃墜されるのを何機も見た。B29爆撃機に体当たりした隼戦闘機が渋谷区大山に不時着し、中学生の私も駆けつけた。そんな時代を生きただけに日本がなぜ戦争に突入したのか、また教科書にどう記述されているのか気になる。
第二次世界大戦について、歴史教科書の大半は日本がアジア諸国に与えた甚大な損害に焦点を当てている。日本が日米開戦を何とか回避しようとした外交交渉などまったく無視した教科書もある。それでも孫が公立中学で使った清水書院『日本の歴史と世界』には戦争突入の経緯が出ていた。
◆開戦責任は日米いずれに?
「日本はインドシナ南部にも軍をすすめた。ドイツとむすんだ日本のうごきに強い警戒心をいだいていたアメリカは、これに対抗して、日本への石油の輸出を禁止して、日本が戦争をつづけるための資源を断とうとした。この圧力に対し、日本の軍部では、東南アジアに勢力をのばすためにアメリカ・イギリスと開戦しようとの考えが有力になった。しかし、開戦しても確実に目的を達する見通しはなく、政府はアメリカとの外交交渉で事態の解決をはかろうとしたが、失敗した。こうして軍部の発言力がさらに強くなり、1941年10月には、陸軍軍人の東条英機が内閣をつくった。12月8日、日本海軍は真珠湾を奇襲し、太平洋戦争(アジア・太平洋戦争ともいう)がはじまった」
いま採択をめぐり対立が生じた育鵬社『新しい日本の歴史』も買って読んでみた。日本の南部仏印進駐、米国の石油輸出禁止、そして「中国やインドシナからの日本軍の無条件即時撤退、蒋介石政権以外の中国政権の否認、三国同盟の事実上の破棄」という要求を日本に突き付けた11月26日のハル・ノートに言及し、「東条英機内閣は、これをアメリカ側の最後通告と受け止め、交渉を断念し、開戦を決断しました」とある。
◆辣腕FDRの挑発に乗った
興味深いのは育鵬社教科書にはキッシンジャーの『外交』から「ルーズベルトは、日本がハル・ノートを受諾する可能性はないと知っていたにちがいない。アメリカの参戦は、ルーズベルトという偉大で勇気のある指導者の並々ならぬ外交努力なしでは達成できない偉大な成果だった。彼は、孤立主義的なアメリカ国民を大規模な戦争に導いた。もし日本が米国を攻撃せず、東南アジアだけにその攻撃を集中していたならば、アメリカ国民を、何とか戦争に導かなければならないというルーズベルトの仕事は、もっと複雑困難になっていたであろうが、結局は彼が必要と考えた戦争を実現したのである」と引用されていることだ。
実は日本の同盟国イタリアのチアノ外相も同じ見方をしていた。日米開戦目前の12月3日のこと。三国同盟の関連条項に照らし、日本の開戦に際してはイタリアも米国に対し宣戦布告するよう要請した日本大使との面会後、チアノは日記にこうコメントした。「この新事態は何を意味するか。米国国民を直接この世界大戦に引き込むことのできなかったルーズベルトは、間接的な操作で、すなわち日本が米国を攻撃せざるを得ない事態に追い込むことによって、大戦参加に成功した」。そんな操作をやりとげたところがルーズベルト大統領の天晴れな辣腕(らつわん)で、そんな挑発にのったところが軍国日本の愚かしさだったと私は思う。
◆烙印恐れなかったグルー大使
では開戦責任は日米いずれにあるか。ここで歴史の正義不正義を測る上でのタイム・スパンの問題が浮上する。日の単位で測るとハワイを奇襲攻撃した日本に非があると世界の目に映った。だが月の単位で測ると、ハル・ノートは明らかに不当な挑発だ。しかし年の単位で測ると、満洲事変、日中戦争、仏印進駐に至る軍国日本の行動がすべて正しかったとはいえない。ルーズベルトやハルとしては軍部が政府に服さぬ日本という国の行動を座視できなかったろう。
だが東京で日米交渉に当たったグルー駐日大使は当事者の苦衷も知っていた。43年『滞日十年』を刊行し、日本側に身命を賭(と)して平和維持に努める者がいたことも米国読者に知らせようとして、「私はこれらの日本の友人諸氏を敬愛し、尊敬し、立派な人物であるという感嘆の念を惜しまなかった」と再三書いている。親日派の烙印(らくいん)を恐れずにそう書いた勇気に私は感服する。グルーは戦後の日米の平和回復を視野に入れて、そんな回想録をあえて刊行したのだ。
歴史を学ぶには双方の見方に留意することが大切だ。それで教科書問題についての平川提案はこうである。見方の異なる教科書を二種類とも読ませ、生徒に相違点を拾わせ、どの記述が納得がいくか議論させる。外交や歴史は両面を観察せねばならない。高校入試には「日本が大東亜戦争と呼んだ戦争は米国で何と呼ばれたか」あるいは「太平洋戦争は戦争中の日本で何と呼ばれたか」といった常識的な問題を出すといいだろう。(ひらかわ すけひろ)
歴史観異なる教科書で学ばせよ 比較文化史家、東京大学名誉教授 平川祐弘氏
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110923/edc11092303120000-n1.htm
■歴史観異なる教科書で学ばせよ
日本が対米英戦に突入した3年後の1944年秋から米国機が東京へ飛来した。敵味方の飛行機が撃墜されるのを何機も見た。B29爆撃機に体当たりした隼戦闘機が渋谷区大山に不時着し、中学生の私も駆けつけた。そんな時代を生きただけに日本がなぜ戦争に突入したのか、また教科書にどう記述されているのか気になる。
第二次世界大戦について、歴史教科書の大半は日本がアジア諸国に与えた甚大な損害に焦点を当てている。日本が日米開戦を何とか回避しようとした外交交渉などまったく無視した教科書もある。それでも孫が公立中学で使った清水書院『日本の歴史と世界』には戦争突入の経緯が出ていた。
◆開戦責任は日米いずれに?
「日本はインドシナ南部にも軍をすすめた。ドイツとむすんだ日本のうごきに強い警戒心をいだいていたアメリカは、これに対抗して、日本への石油の輸出を禁止して、日本が戦争をつづけるための資源を断とうとした。この圧力に対し、日本の軍部では、東南アジアに勢力をのばすためにアメリカ・イギリスと開戦しようとの考えが有力になった。しかし、開戦しても確実に目的を達する見通しはなく、政府はアメリカとの外交交渉で事態の解決をはかろうとしたが、失敗した。こうして軍部の発言力がさらに強くなり、1941年10月には、陸軍軍人の東条英機が内閣をつくった。12月8日、日本海軍は真珠湾を奇襲し、太平洋戦争(アジア・太平洋戦争ともいう)がはじまった」
いま採択をめぐり対立が生じた育鵬社『新しい日本の歴史』も買って読んでみた。日本の南部仏印進駐、米国の石油輸出禁止、そして「中国やインドシナからの日本軍の無条件即時撤退、蒋介石政権以外の中国政権の否認、三国同盟の事実上の破棄」という要求を日本に突き付けた11月26日のハル・ノートに言及し、「東条英機内閣は、これをアメリカ側の最後通告と受け止め、交渉を断念し、開戦を決断しました」とある。
◆辣腕FDRの挑発に乗った
興味深いのは育鵬社教科書にはキッシンジャーの『外交』から「ルーズベルトは、日本がハル・ノートを受諾する可能性はないと知っていたにちがいない。アメリカの参戦は、ルーズベルトという偉大で勇気のある指導者の並々ならぬ外交努力なしでは達成できない偉大な成果だった。彼は、孤立主義的なアメリカ国民を大規模な戦争に導いた。もし日本が米国を攻撃せず、東南アジアだけにその攻撃を集中していたならば、アメリカ国民を、何とか戦争に導かなければならないというルーズベルトの仕事は、もっと複雑困難になっていたであろうが、結局は彼が必要と考えた戦争を実現したのである」と引用されていることだ。
実は日本の同盟国イタリアのチアノ外相も同じ見方をしていた。日米開戦目前の12月3日のこと。三国同盟の関連条項に照らし、日本の開戦に際してはイタリアも米国に対し宣戦布告するよう要請した日本大使との面会後、チアノは日記にこうコメントした。「この新事態は何を意味するか。米国国民を直接この世界大戦に引き込むことのできなかったルーズベルトは、間接的な操作で、すなわち日本が米国を攻撃せざるを得ない事態に追い込むことによって、大戦参加に成功した」。そんな操作をやりとげたところがルーズベルト大統領の天晴れな辣腕(らつわん)で、そんな挑発にのったところが軍国日本の愚かしさだったと私は思う。
◆烙印恐れなかったグルー大使
では開戦責任は日米いずれにあるか。ここで歴史の正義不正義を測る上でのタイム・スパンの問題が浮上する。日の単位で測るとハワイを奇襲攻撃した日本に非があると世界の目に映った。だが月の単位で測ると、ハル・ノートは明らかに不当な挑発だ。しかし年の単位で測ると、満洲事変、日中戦争、仏印進駐に至る軍国日本の行動がすべて正しかったとはいえない。ルーズベルトやハルとしては軍部が政府に服さぬ日本という国の行動を座視できなかったろう。
だが東京で日米交渉に当たったグルー駐日大使は当事者の苦衷も知っていた。43年『滞日十年』を刊行し、日本側に身命を賭(と)して平和維持に努める者がいたことも米国読者に知らせようとして、「私はこれらの日本の友人諸氏を敬愛し、尊敬し、立派な人物であるという感嘆の念を惜しまなかった」と再三書いている。親日派の烙印(らくいん)を恐れずにそう書いた勇気に私は感服する。グルーは戦後の日米の平和回復を視野に入れて、そんな回想録をあえて刊行したのだ。
歴史を学ぶには双方の見方に留意することが大切だ。それで教科書問題についての平川提案はこうである。見方の異なる教科書を二種類とも読ませ、生徒に相違点を拾わせ、どの記述が納得がいくか議論させる。外交や歴史は両面を観察せねばならない。高校入試には「日本が大東亜戦争と呼んだ戦争は米国で何と呼ばれたか」あるいは「太平洋戦争は戦争中の日本で何と呼ばれたか」といった常識的な問題を出すといいだろう。(ひらかわ すけひろ)