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米朝軍事衝突の危機…生存の自意識に目覚めよ、日本

2017-09-28 15:59:21 | 正論より
9月28日付     産経新聞【正論】より



米朝軍事衝突の危機…生存の自意識に目覚めよ、日本 拓殖大学学事顧問・渡辺利夫氏


http://www.sankei.com/column/news/170928/clm1709280005-n1.html




 私は自分がどんな顔の人間であるかを知っている。鏡という「他者」に「自己」を投影して自らを確認しているからである。

 自己が他者から孤立している状態にあっては、自己がどんな存在であるかを確認することはできず、それゆえ「自意識」が育つこともない。日本は四方を海に囲まれ、国内統治に万全を期すれば安泰は保たれた。少なくとも幕末まではそうだった。自己、ここでは「自国」とは何かという自意識は日本人には薄かったのである。





 ≪文明の看取目指した岩倉使節団≫


 幕末に至ってこの日本が強烈な「西洋の衝撃」を受ける。ペリーの黒船来航によって激甚なインパクトを与えられ、日本の指導者は新しい自意識の形成を余儀なくされた。列強の目に映る日本は、文明国ではない。だからこそ、不平等条約を押しつけられたのだ。

 危機から日本を脱却させるには、主権国家としての内外条件を整備して自らが文明国となるより他ない。そういう自意識が新たに形成されたのである。維新政府は列強を列強たらしめている「文明」の受容を差し迫った課題として把握した。


 自意識のこの反転は迅速だった。旧体制にしがみつき、その場をやり過ごした清や朝鮮と、日本とは近代化の起点における自意識の転換に大きな相違があった。


 象徴が岩倉使節団の欧米派遣である。明治4年に右大臣の岩倉具視を特命全権大使、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らを副使とする総勢百余名の大デレゲーションであった。維新政府の中枢部が、米国、英国、フランス、ドイツ、ロシアなど全12カ国を1年9カ月にわたり訪問し、文明というもののありようを精細に観察しつづけた。新生明治政府それ自体が、ユーラシア大陸を長駆一巡したかのごとき壮図であった。

 旧体制を倒したとはいえ、どういう国づくりをやったらいいのか。文明国の文明国たるゆえんを新政府自身が自分の目で子細に実地踏査しようとしたのである。

 産業発展の重要性はもとより、共和制、立憲君主制、徴兵制、議会制度、政党政治など文明のありとあらゆる側面の看取に精出した。使節団の実感を一言でいえば文明の圧倒的な力量であった。その後の日本は富国強兵、殖産興業、帝国憲法と帝国議会などを驚くほどの速さで実現していった。岩倉使節団は日本の指導者の自意識の転換を確かに証している。


 第二次大戦の敗北により日本人は明治維新、もしくはそれ以上の圧力をもって自意識の転換を強いられた。憔悴(しょうすい)し切った自らの顔を圧倒的な強者・米国という鏡に投影し、連合国軍総司令部(GHQ)による新憲法に沿って生きることを規範として受け入れた。






 ≪安穏に堕した冷戦時代のつけ≫


 その後の日本では、強まる左翼リベラリズムの中で憲法第9条が「神聖にして侵すべからざる」条文となってしまった。戦争放棄はもとより、自衛隊もまた専守防衛を旨とし、日米安全保障条約には集団的自衛権が明記される一方、その行使は憲法の制約上、不可能とされてきた。

 こんな安穏が許されてきたのも、日本が東西冷戦のフロントラインに位置し、米軍への基地貸与と引き換えに、米軍の核の傘の下で安全を保障されてきたからである。東西冷戦が崩壊して二十数年がたつ。この間、中国の大膨張により米国一極体制は相対的にその力を弱化させてきた。中国による東・南シナ海の内海化、同海域諸島の軍事基地化、北朝鮮の核ミサイルによる恫喝(どうかつ)を押しとどめる日本の力は極めて手薄である。


 振り返れば、冷戦崩壊は日本人の自意識に3度目の転換を迫る一大事であった。冷戦時代の惰性に流され拱手(きょうしゅ)傍観、この間に日本は中国や北朝鮮の挑発行動に為(な)すべきを為すことができなくなってしまった。集団的自衛権の行使が可能になったのは一昨年9月の平和安全法制の成立によってだが、その行使は「存立危機事態」というハードルの高い状況をクリアしなければならない。






 ≪憲法9条2項削除に肚を据えよ≫


 憲法改正を政治信条としてきた安倍晋三首相ですら、第9条第1項、第2項は変更せず、第3項に自衛隊の根拠規定を追加することで改憲に臨むらしい。70年以上にわたって国民の自意識の中に刻み込まれた左翼リベラリズムの克服はどうにも無理だ、そういう判断が首相にあってのことであろう。


 米朝が軍事衝突を起こせば、極東アジアの地政学的秩序がいかなる形で覆るか。日本の生存は一体可能なのか。それでも「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と言い続けられるか。


 岩倉使節団が新政府の要人中の要人を引き連れて横浜を出港したのは明治4年11月であった。明治4年といえばその年の7月に廃藩置県を断行、武士の地位を失った不平士族が反乱の刃(やいば)を研いでいた時期であった。よほど肚(はら)を据えての出発であったに違いない。国人よ、第9条第2項削除に肚を据えようではないか。(拓殖大学学事顧問・渡辺利夫 わたなべ としお)










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