日本という大地で生活する日本人ですが、自国から見るより、他国から客観的に、先入観なしに、日本人というものを観ると頷ける場合がけっこうあるかもしれません
それでは、パート②でも出てきた日本の開国当時で、色濃く日本が残っていた江戸末期へ時代を設定しましょう
1853年(安政三年)8月、日本に着任したばかりのハリスは、下田近郊の柿崎を訪れて…
「この土地は貧困で、住民はいずれも豊かでなく、ただ生活するだけで精一杯である。それは装飾的なものに目をむける余裕がないからだ。それでも人々は楽しく暮らしており、食べたいだけ食べ、着物にも困っていない。それに家屋は清潔で、日当たりも良くて気持ちがいい。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりも良い生活を送っているところはあるまい」
と記しています。
欧米では工業が発展した頃より、雇う側と労働者など貧富の差が一段と増していたようで、労働者の待遇は悲惨だったようです。
オールコックは、日本の農村地帯を見るにつけ…
「肥沃な土壌と良い気候と勤勉な国民がここに在った」
「封建領主の圧制的な支配や全労働者階級が苦労し呻吟させられている抑制については、かねてから多くのことを聞いている。だが、これらのよく耕作された谷間を横切って、非常な豊かさの中で所帯を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きの良さそうな住民を見ていると、これが圧政に苦しみ、苛酷な税金をとりたてられている土地だとは信じがたい。むしろ反対に、ヨーロッパには、こんなに幸福で暮らし向きの良い農民はいないし、またこれほど温和で贈り物の豊富な風土はどこにもないという印象を抱かざるを得なかった」
と記しています。
雇用者にやらされている時と、自分たちが率先して行い、幸福を感じている場合の仕事内容は、他の人からみると一目瞭然ですよね。
香港主教 ジョージ・スミスは長崎滞在中、大村湾に面する時津まで遠乗りに出かけた、その情景を…
「いっそう進んでいくうちに、切り立った山と海の景色から、肥沃な谷々のゆたかで緑濃い景観の連なりへと変わった。谷々は農作物が満ち溢れ、ゆるやかな斜面からさして高くない丘の頂きまで広がる米、ライ麦、アブラナによって覆われていた。杉や樅(もみ)に似た木が黄金色に輝く自然のほほえみの中に見事にはめこまれたエメラルドのように点在していた。椿、バラ、さらにはあるゆる種類の常緑樹が、行く手に花房のように垂れかかり、その多くは舗装のよい広い道の道幅いっぱいに広がっている。村人たちがあらゆる方角から現れて、好意のしるしを示すやら、お菓子とかお茶とか水を差しだすやらして我々を歓迎した」
と記しています。
読んでいるだけでも、美しい自然、その土地の中で生かされながら、勤労している民衆の姿が浮かんできます。また、非常に好奇心旺盛で、明るい感じも受けますね。
どこの国にも貧しい僻地というものはあるもので、東北縦断の旅の際、福島県の産地へ入ったイザベラ・バードは…
「私は日光出発以来、見てきた明白な貧しさ、真のきたなさと辛苦に対して、心の用意が全くできていなかった。しかし、私たちにとって、悲惨な種類の貧困とは通常、怠惰と酒びたりとに結びついている。しかし農民の間では、前者は知られていないし、後者は稀である。彼らの勤勉には限りがないし、安息日もなく、仕事が無い時に休日をとるだけ。彼らの鋤による農作業は、その地方を一個の美しく整えられた庭園に変え、そこでは一本の雑草も見つからない。彼らはたいそう倹約家だし、あらゆるものを利用して役立たせる。土地にたっぷり施肥するし、作物の輪作も知っており、進歩した農業技術から学ぶべきことがあるとしても、それはほんの少しである」
人の観方というのは自分の主観を入れるものです。アマゾン川奥地の原住民の生活を見て、「貧しく、汚い生活」と思っても。現地の人にとっては、自然に則した最高の生活なのです。
1857年、オランダ以外の欧米外交代表として初めて江戸入りするため下田を発ったハリスは、その道中で見た光景をその日の日記に…
「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ貧者も富者もない。―これがおそらく人民の本当の幸福の姿というものであろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以でるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く日本に見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる」
と記しています。
日本人の幸福さ、正直さ、質素倹約ぶり、にも関わらず”足るを知る”不平、不満のない気持ち、そんな空気が、「日本を開国させてしまってもいいものか」とアメリカのエリートに考えさせてしまう、当時の日本人の空気ってすごいと思いましたね。
欧米と日本の労使関係の違いを、シーボルトと、司法省顧問をつとめたブスケの言葉にみると…
シーボルト 江戸参府の途中、中国地方の製塩業を見て…
「日本において国民的産業の何らかの部門が、大規模または大量生産的に行われている地方では、一般的な繁栄がみられ、ヨーロッパの工業都市の、人間的な悲惨と不品行をはっきり示している心身ともに疲れ果てた、あのような貧困な国民階層は存在しないという見解を繰り返し述べてきたが、ここでもその正しいことが分かった。しかも日本には計り知れない富を持ち、半ば飢え衰えた階級の人々の上に金権をふるう工業の支配者は存在しない。労働者も工場主も、日本ではヨーロッパよりも一層きびしい格式をもって隔てられてはいるが、彼らは同胞として相互の尊敬と好意によってさらに堅く結ばれている」
ブスケ 彼が書いた『日本人の住まい』という中で…
「都市にあっては、富裕階級の居住する区域は、わがアメリカにおけるほど明確なる一線を画していない。…ほとんどの都市に普通にみられることは、もっとも貧困な階層の居住する区域に近接して富裕階層の邸宅が建っている、という事実である。東京では、極端に粗末な小屋が櫛比して立ち並んだ町通りや横町があり、そこにはもっとも貧困な階層に属する人々が住んでいる。…しかしながら、このような貧民区域であっても、キリスト教圏のほとんど全ての大都市に見られる同類の貧民区域の、あの言いようのない不潔さと惨めさとに比較するならば、まだしも清浄なほうである。これは確かなことだが、日本の金持ちは、貧困階級を遠方に追い払ってしまうために、自分の邸宅の周辺を残らず買収しようなどとは、普通思わないのである。貧困階級が近くに居住したところで、いっこうに苦にならないからである。実際に、日本の貧困層は、アメリカの貧困層が有するあの救いようのない野蛮な風俗習慣を持たない」
と記しています。
日本では立場によっての厳格な線引きがあったとしても、その身の上を差別することはなかったようですね。100%ではないにしても、江戸時代末期から明治初期にかけては、そのような傾向にあったことは確かなようです。
明治初年に来日し、大森貝塚を発見したアメリカの生物学者モースは…
「なぜ日本人が我々を南蛮夷狄(なんばんいてき)と呼び来ったかが、段々判って来た。日本に数カ月も滞在していると、どんな外国人でも、自分の国では道徳的教訓として重荷となっている善徳や品性を、日本人が生まれながらにして持っていることに気づく。最も貧しい人々でさえ持っている」
と、日本人の優雅と温厚に感銘し、このような言葉を残しています。
これらを総合的に一言で、強引にまとめると、
「日本人とは、肥沃な大地、良好な気候、山紫水明の恩恵を天地から受けながら、その恩恵と正面から向き合い、活かし生かされる中で、その中から知恵を見出し、質素倹約、正直、助け合い、幸福感や道徳観などを自然と学び、その叡智を子孫に伝承することによって形成されてきた」
と、私見でありますが、考えてみました。
そうやって、日本人というもの考えていくと、東日本大震災での行動というのは、自然なことであり、戦後忘れさられていた何かを「今」取り戻す「時」に来ているのだろうと思います。
だいぶ長くなってしまいましたが、お付き合い頂き、通読して頂き、ありがとうございます
二葉鍼灸療院 田中良和
それでは、パート②でも出てきた日本の開国当時で、色濃く日本が残っていた江戸末期へ時代を設定しましょう
1853年(安政三年)8月、日本に着任したばかりのハリスは、下田近郊の柿崎を訪れて…
「この土地は貧困で、住民はいずれも豊かでなく、ただ生活するだけで精一杯である。それは装飾的なものに目をむける余裕がないからだ。それでも人々は楽しく暮らしており、食べたいだけ食べ、着物にも困っていない。それに家屋は清潔で、日当たりも良くて気持ちがいい。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりも良い生活を送っているところはあるまい」
と記しています。
欧米では工業が発展した頃より、雇う側と労働者など貧富の差が一段と増していたようで、労働者の待遇は悲惨だったようです。
オールコックは、日本の農村地帯を見るにつけ…
「肥沃な土壌と良い気候と勤勉な国民がここに在った」
「封建領主の圧制的な支配や全労働者階級が苦労し呻吟させられている抑制については、かねてから多くのことを聞いている。だが、これらのよく耕作された谷間を横切って、非常な豊かさの中で所帯を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きの良さそうな住民を見ていると、これが圧政に苦しみ、苛酷な税金をとりたてられている土地だとは信じがたい。むしろ反対に、ヨーロッパには、こんなに幸福で暮らし向きの良い農民はいないし、またこれほど温和で贈り物の豊富な風土はどこにもないという印象を抱かざるを得なかった」
と記しています。
雇用者にやらされている時と、自分たちが率先して行い、幸福を感じている場合の仕事内容は、他の人からみると一目瞭然ですよね。
香港主教 ジョージ・スミスは長崎滞在中、大村湾に面する時津まで遠乗りに出かけた、その情景を…
「いっそう進んでいくうちに、切り立った山と海の景色から、肥沃な谷々のゆたかで緑濃い景観の連なりへと変わった。谷々は農作物が満ち溢れ、ゆるやかな斜面からさして高くない丘の頂きまで広がる米、ライ麦、アブラナによって覆われていた。杉や樅(もみ)に似た木が黄金色に輝く自然のほほえみの中に見事にはめこまれたエメラルドのように点在していた。椿、バラ、さらにはあるゆる種類の常緑樹が、行く手に花房のように垂れかかり、その多くは舗装のよい広い道の道幅いっぱいに広がっている。村人たちがあらゆる方角から現れて、好意のしるしを示すやら、お菓子とかお茶とか水を差しだすやらして我々を歓迎した」
と記しています。
読んでいるだけでも、美しい自然、その土地の中で生かされながら、勤労している民衆の姿が浮かんできます。また、非常に好奇心旺盛で、明るい感じも受けますね。
どこの国にも貧しい僻地というものはあるもので、東北縦断の旅の際、福島県の産地へ入ったイザベラ・バードは…
「私は日光出発以来、見てきた明白な貧しさ、真のきたなさと辛苦に対して、心の用意が全くできていなかった。しかし、私たちにとって、悲惨な種類の貧困とは通常、怠惰と酒びたりとに結びついている。しかし農民の間では、前者は知られていないし、後者は稀である。彼らの勤勉には限りがないし、安息日もなく、仕事が無い時に休日をとるだけ。彼らの鋤による農作業は、その地方を一個の美しく整えられた庭園に変え、そこでは一本の雑草も見つからない。彼らはたいそう倹約家だし、あらゆるものを利用して役立たせる。土地にたっぷり施肥するし、作物の輪作も知っており、進歩した農業技術から学ぶべきことがあるとしても、それはほんの少しである」
人の観方というのは自分の主観を入れるものです。アマゾン川奥地の原住民の生活を見て、「貧しく、汚い生活」と思っても。現地の人にとっては、自然に則した最高の生活なのです。
1857年、オランダ以外の欧米外交代表として初めて江戸入りするため下田を発ったハリスは、その道中で見た光景をその日の日記に…
「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ貧者も富者もない。―これがおそらく人民の本当の幸福の姿というものであろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以でるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く日本に見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる」
と記しています。
日本人の幸福さ、正直さ、質素倹約ぶり、にも関わらず”足るを知る”不平、不満のない気持ち、そんな空気が、「日本を開国させてしまってもいいものか」とアメリカのエリートに考えさせてしまう、当時の日本人の空気ってすごいと思いましたね。
欧米と日本の労使関係の違いを、シーボルトと、司法省顧問をつとめたブスケの言葉にみると…
シーボルト 江戸参府の途中、中国地方の製塩業を見て…
「日本において国民的産業の何らかの部門が、大規模または大量生産的に行われている地方では、一般的な繁栄がみられ、ヨーロッパの工業都市の、人間的な悲惨と不品行をはっきり示している心身ともに疲れ果てた、あのような貧困な国民階層は存在しないという見解を繰り返し述べてきたが、ここでもその正しいことが分かった。しかも日本には計り知れない富を持ち、半ば飢え衰えた階級の人々の上に金権をふるう工業の支配者は存在しない。労働者も工場主も、日本ではヨーロッパよりも一層きびしい格式をもって隔てられてはいるが、彼らは同胞として相互の尊敬と好意によってさらに堅く結ばれている」
ブスケ 彼が書いた『日本人の住まい』という中で…
「都市にあっては、富裕階級の居住する区域は、わがアメリカにおけるほど明確なる一線を画していない。…ほとんどの都市に普通にみられることは、もっとも貧困な階層の居住する区域に近接して富裕階層の邸宅が建っている、という事実である。東京では、極端に粗末な小屋が櫛比して立ち並んだ町通りや横町があり、そこにはもっとも貧困な階層に属する人々が住んでいる。…しかしながら、このような貧民区域であっても、キリスト教圏のほとんど全ての大都市に見られる同類の貧民区域の、あの言いようのない不潔さと惨めさとに比較するならば、まだしも清浄なほうである。これは確かなことだが、日本の金持ちは、貧困階級を遠方に追い払ってしまうために、自分の邸宅の周辺を残らず買収しようなどとは、普通思わないのである。貧困階級が近くに居住したところで、いっこうに苦にならないからである。実際に、日本の貧困層は、アメリカの貧困層が有するあの救いようのない野蛮な風俗習慣を持たない」
と記しています。
日本では立場によっての厳格な線引きがあったとしても、その身の上を差別することはなかったようですね。100%ではないにしても、江戸時代末期から明治初期にかけては、そのような傾向にあったことは確かなようです。
明治初年に来日し、大森貝塚を発見したアメリカの生物学者モースは…
「なぜ日本人が我々を南蛮夷狄(なんばんいてき)と呼び来ったかが、段々判って来た。日本に数カ月も滞在していると、どんな外国人でも、自分の国では道徳的教訓として重荷となっている善徳や品性を、日本人が生まれながらにして持っていることに気づく。最も貧しい人々でさえ持っている」
と、日本人の優雅と温厚に感銘し、このような言葉を残しています。
これらを総合的に一言で、強引にまとめると、
「日本人とは、肥沃な大地、良好な気候、山紫水明の恩恵を天地から受けながら、その恩恵と正面から向き合い、活かし生かされる中で、その中から知恵を見出し、質素倹約、正直、助け合い、幸福感や道徳観などを自然と学び、その叡智を子孫に伝承することによって形成されてきた」
と、私見でありますが、考えてみました。
そうやって、日本人というもの考えていくと、東日本大震災での行動というのは、自然なことであり、戦後忘れさられていた何かを「今」取り戻す「時」に来ているのだろうと思います。
だいぶ長くなってしまいましたが、お付き合い頂き、通読して頂き、ありがとうございます
二葉鍼灸療院 田中良和
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