お正月や月初め、神社に初詣や参拝に行きます。
私は、いつも手を合わせ思うことは「感謝」です。
生かされていることへの感謝、
成長できる人生への感謝、でしょうか。
神仏に対する姿勢で見習っているのが、江戸初期に活躍した剣術家、剣豪 宮本武蔵、の精神です。
私が修行させていただいた東洋医学研究所®の所長であり師匠の黒野保三先生の方針の大きな柱の一つは、鍼灸診療を行う人間の心や精神、人間性の育成・成長を重要視していることです。研究所へ入所して3ヶ月間は研修期間となり、私は住み込みで修行させていただきましたので、外出はできませんし、ほとんど仕事を覚えることと治療院の方針や勉強にあてられました。
その一環として行われたのが、吉川英治さんが書かれた『宮本武蔵』をまず読み、『論語』を読み、鍋島論語とも言われる『葉隠』を読み、人生観や仕事、これから修行し学んでいく姿勢を認識するという時間がありました。読むだけでなく、ちゃんと感想を述べ意見交換の場もあったので少し緊張していました。
そんなことで『宮本武蔵』と出会ったのでした。
その小説の中で、宮本武蔵が吉岡道場の一門と京都 一乗寺下り松で決闘を行う場面があります。武蔵1人 vs 吉岡一門多数です。いくら武蔵が剣豪であるからと言っても死をかけた闘いとなります。
その決闘の日、太陽も昇らないうちに決闘の場に向かうのですが、その途中、八大神社で足をとめ、
「勝たせたまえ、今日のことは武蔵の一生の一大事」と祈ろうとして拝殿の鍔口まで来たが、彼の奥から湧き上がる本性に気づき、気持ちを一蹴して、祈らずに決闘の場に向かったそうです。
その時感じた本性、そこに神からの知らせのようなものを感じたことに神の存在は信じるが、
「侍の道」には、恃む神などというものはない。神をも超えた絶対の道だと思う。侍のいただく神とは、神を恃むことではなく、また人間を誇ることでもない。神はないとも言えないが、恃むべきものではなく、さりとて自己という人間もいとも弱い小さなあわれなものと、観するもののあわれのほかではない。
と言われています。この吉岡一門との決闘において、武蔵の壁書である『 独行道 』の一文である、
我、神仏を尊びて、神仏を恃まず
という言葉が書かれたのではないかと言われています。
神仏の存在、道を示していただけることを敬い尊び感謝することは大切ですが、依存したり願ったりするのではなく、生かされている自分の人生を成長の場と捉え、その道に対する選択、決断、実践はすべて自分の心の中にある、ということだと私は解釈しています。
私はこの言葉を、自分が神社仏閣へ参拝する際の心の寄り処にしております
また、中村 元(なかむら はじめ)さんという方がおられました。
インド哲学・仏教思想が研究の専門領域ですが、それにとどまらず西洋哲学にも幅広い知識を持ち、思想における東洋・西洋の超克・融合を目指されたインド哲学者・仏教哲学者です。
仏教の本質 哲学者「中村元」
上記、動画の最後のほうに、
この変転常ない世の中では、まず自分に頼るべきである。
自分に頼るというのは、どういうことであるか。
自分はこの場合にどうすべきかということを考えることでしょう。
その場合、何を判断決定の基準にするのか。
それは人間としての道=「法」、インドの言葉でいうとダルマと呼ばれるものです。
これを「法」と解釈しますが、
この人間の理法というもの、これに頼ること、
「自己に頼れ、法に頼れ」、これが釈尊の最後の教えでありました。
と話されています。
大いなる存在に畏怖と尊敬、そして感謝の精神を持ちながら、人生においてはそれぞれの道において、最後に頼ることができるのは、自分であり、自分が世の中の正しき道の中で、何をどう選択するかということで自分の行くべき道が決まるということなのでしょう
最後までお読みいただき、ありがとうございます
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