今日はものすごい黄砂でしたね。車が黄色くなってしまいました。
さて、今日は、中内敏夫・川合章編『小学校教師の歩み』(日本の教師第1巻、明治図書、1969年)です。同著は、叢書「日本の教師」の第1巻として、日本の教師(=学校教員)の基層部を形成した存在としての小学校教員(教師・訓導)と、彼らをとりまく人々の世界を対象としたものです。全体としては、近代日本の歴史的所産としての小学校教員の誕生の構造と、ここから「脱出」「新生」しようとする教師たちの出現様態、および彼らをとりまく視学官・私立学校教員・師範学校附属小学校訓導の性質について明らかにしようという構成になっています。今日一日で同著をまとめようかと思ったのですが、執筆者ごとに問題意識も論理の方向性もかなり違うので、一本の筋でまとめられそうにありません。そこで、何日かにわけて、執筆者ごとに要点をまとめていきたいと思います。
今日は、第Ⅰ章「小学校訓導の出現」について。
まず、北原章子「手習い師匠から小学校教員へ」(Ⅰ-一)は、教育内容と方法、および学校と教員の社会的機能の視点から、寺子屋師匠から小学校教員への転換の意味を捉えようとした論文です。北原論文のポイントは、3つあります。まず第1に、寺子屋の内容(往来物教材における羅列的な庶物主義)と方法(部分的一斉教授法・教師特有の技術・生徒の相互交流など)から、小学校の内容(小学教則・指定教科書)と方法(庶物指教・開発主義・ヘルバルト主義教授法など)を捉え、それを「教育への科学の導入」として総括しました。第2に、小学校教員が学校事務を担うようになる過程を、「教育事務に俗吏の手を借りてはならない」という意味で聖職的教職観の出現過程と重なるものとして捉えています。第3に、明治期の小学校教員を「倫理の体現者としての教師」や「公私未分化に全人格を教職に譲渡する教師」と捉え、教職の専門性を「客観的な文化価値を生徒に伝達する能力を中心としてとらえる」視点から「その資質に欠けている」と評価しました。
北原論文の3つのポイントには、興味深い視点がちりばめられています。ただ、百科全書的な知識を意味する「科学」と、教育学方法論の科学性という場合の「科学」は区別すべきもの(適用できる時代が違う)だと思うのですが、北原論文では区別していないように思います。また、人格重視の教職観を認めない「教職の専門性」は、いわゆる「教育労働者」を追求する立場から見られる後の時代の概念なので、その立場から「資質に欠けている」と評価するのは正当な評価ではないように思います。そのため、寺子屋師匠と小学校教員の転換を説明する際に用いた「科学」概念と「教職の専門性」概念について、これらが明治期の小学校教員や学校教育の説明に用いるのに適切な概念操作ができているのかどうか、という点には注意して読まなければならないと思いました。
次に、中内敏夫「教師と教員と世間師」(Ⅰ-二)は、近代日本の小学校教員について、虚実とりまぜての中央文化と、子どもたちの生活から現れる地域の実相との間を揺れ動く性質をもっていたことを、説明しようとしています。その説明のためにまず用いられた概念は、「『でかせぎ』型地域主義」という概念です。これは、地域に背を向けつつ地域のために役に立つことを目指す考え方だそうです。小学校教員の志向は、中央で名を成して地域を重くするような人材を地域で養成するため、中央の政財学界をめざす「中央指向性」につらぬかれていたそうです。この場合の「中央」とは、必ずしも「東京」を意味するだけでなく、「西洋」「英国」「米国」「独逸国」、はては日本の「神代」を意味するそうです。そして、このような「中央指向性」を小学校教員が持つに至った要因として、師範教育を挙げました。師範教育は、人格重視の教育によって、小学校教員の読書を修身の途とし、リアリズムを欠く学識を身につけさせたと言います。また、近代日本における小学校教員の歴史的ルーツは、寺子屋師匠だけでなく子守・老人・宿親・親方など(「世間師」?)にも注目すべきだと主張し、子どもの知育担当者であるとともにその「全生活の指導者」「一村一区の人格の指導者」であったことに注目しました。
中内論文は全体的に抽象的な表現が多く、理解しにくいところが多々ありましたが、上記のようになんとかまとめてみました。
さて、今日は、中内敏夫・川合章編『小学校教師の歩み』(日本の教師第1巻、明治図書、1969年)です。同著は、叢書「日本の教師」の第1巻として、日本の教師(=学校教員)の基層部を形成した存在としての小学校教員(教師・訓導)と、彼らをとりまく人々の世界を対象としたものです。全体としては、近代日本の歴史的所産としての小学校教員の誕生の構造と、ここから「脱出」「新生」しようとする教師たちの出現様態、および彼らをとりまく視学官・私立学校教員・師範学校附属小学校訓導の性質について明らかにしようという構成になっています。今日一日で同著をまとめようかと思ったのですが、執筆者ごとに問題意識も論理の方向性もかなり違うので、一本の筋でまとめられそうにありません。そこで、何日かにわけて、執筆者ごとに要点をまとめていきたいと思います。
今日は、第Ⅰ章「小学校訓導の出現」について。
まず、北原章子「手習い師匠から小学校教員へ」(Ⅰ-一)は、教育内容と方法、および学校と教員の社会的機能の視点から、寺子屋師匠から小学校教員への転換の意味を捉えようとした論文です。北原論文のポイントは、3つあります。まず第1に、寺子屋の内容(往来物教材における羅列的な庶物主義)と方法(部分的一斉教授法・教師特有の技術・生徒の相互交流など)から、小学校の内容(小学教則・指定教科書)と方法(庶物指教・開発主義・ヘルバルト主義教授法など)を捉え、それを「教育への科学の導入」として総括しました。第2に、小学校教員が学校事務を担うようになる過程を、「教育事務に俗吏の手を借りてはならない」という意味で聖職的教職観の出現過程と重なるものとして捉えています。第3に、明治期の小学校教員を「倫理の体現者としての教師」や「公私未分化に全人格を教職に譲渡する教師」と捉え、教職の専門性を「客観的な文化価値を生徒に伝達する能力を中心としてとらえる」視点から「その資質に欠けている」と評価しました。
北原論文の3つのポイントには、興味深い視点がちりばめられています。ただ、百科全書的な知識を意味する「科学」と、教育学方法論の科学性という場合の「科学」は区別すべきもの(適用できる時代が違う)だと思うのですが、北原論文では区別していないように思います。また、人格重視の教職観を認めない「教職の専門性」は、いわゆる「教育労働者」を追求する立場から見られる後の時代の概念なので、その立場から「資質に欠けている」と評価するのは正当な評価ではないように思います。そのため、寺子屋師匠と小学校教員の転換を説明する際に用いた「科学」概念と「教職の専門性」概念について、これらが明治期の小学校教員や学校教育の説明に用いるのに適切な概念操作ができているのかどうか、という点には注意して読まなければならないと思いました。
次に、中内敏夫「教師と教員と世間師」(Ⅰ-二)は、近代日本の小学校教員について、虚実とりまぜての中央文化と、子どもたちの生活から現れる地域の実相との間を揺れ動く性質をもっていたことを、説明しようとしています。その説明のためにまず用いられた概念は、「『でかせぎ』型地域主義」という概念です。これは、地域に背を向けつつ地域のために役に立つことを目指す考え方だそうです。小学校教員の志向は、中央で名を成して地域を重くするような人材を地域で養成するため、中央の政財学界をめざす「中央指向性」につらぬかれていたそうです。この場合の「中央」とは、必ずしも「東京」を意味するだけでなく、「西洋」「英国」「米国」「独逸国」、はては日本の「神代」を意味するそうです。そして、このような「中央指向性」を小学校教員が持つに至った要因として、師範教育を挙げました。師範教育は、人格重視の教育によって、小学校教員の読書を修身の途とし、リアリズムを欠く学識を身につけさせたと言います。また、近代日本における小学校教員の歴史的ルーツは、寺子屋師匠だけでなく子守・老人・宿親・親方など(「世間師」?)にも注目すべきだと主張し、子どもの知育担当者であるとともにその「全生活の指導者」「一村一区の人格の指導者」であったことに注目しました。
中内論文は全体的に抽象的な表現が多く、理解しにくいところが多々ありましたが、上記のようになんとかまとめてみました。